22

 翌日、出立の準備は慌ただしく進められた。

 護衛部隊は百、馬に覚えのある者たちを選りすぐった。俺たちは基本的には歩兵の軍団だが、才や興味を示した者には、幼い頃から馬術を叩き込んである。厩で伯爵が所有している馬や馬車の数を改め、部隊を編成していた俺に、アデライデが告げた。

「頼みがあるのだけれども、もし馬車を用意するのなら、それに私も同乗して一緒にアルベルティーヌへ行っていいかしら」

「それはロスマリンについていたい、ということなのか?」

「それも勿論あるのだけれども、ロスマリンを無事に送り届けたら、一足先にレーゲンスベルグに戻りたいの。セプタードがここで戦後処理に当たるのなら、しばらく帰れないわけでしょう? せめて私だけでも、早く子どもたちのところに帰ってあげなきゃ」

 アデライデの望みは至極当然だ。そしてアルベルティーヌとレーゲンスベルグは馬で一日もかからない距離だ。護衛を配してこいつだけ別個に帰らせるより、俺たちと一緒にアルベルティーヌへ向かった方が確かに手間はない。

 何より昨夜のロスマリンの様子を思えば、王都までの道行きにこいつがいてくれるのは本当に心強い。

「そうしてくれるとこっちも助かる。アルベルティーヌに着いたら、すぐに誰かにレーゲンスベルグへ送らせる。それでいいな」

 アデライデは快く頷くと、今度はロスマリンに問いかける。

「もし私が一緒の馬車に乗って失礼ではないというのなら、侍女代わりの多少のことはできるわよ。少なくとも話し相手には困らない。――まあ私は荷馬車でもいいんだけど。野営道具とか運んだりするんでしょ」

「やめてくれ。お前をそんなぞんざいに扱えるわけないだろ。たとえセプタードがいいと言っても、俺が許さない」

「全然失礼なんかじゃない。とてもありがたいのだけれども、でも私も自分で馬を駆った方がよくない? 馬車は軽い方が早いわけだし」

「それも駄目だ。お前が疲労で体調を崩したら、元も子もない。それに何かあった時、馬車一台の方が守りやすい」

 ぴしゃりと言われてロスマリンは黙る。だがそんな俺に、アデライデがかなり意図的に大真面目な顔をして、問いかけてくる。

「あんたはどうする? 護衛がてら一緒に乗る?」

「馬鹿言え、指揮官が状況を伺えないところに閉じこもっていてどうするんだ。俺は自分で馬に乗る」

 俺は当たり前の返答をしたが、ロスマリンは不安そうな目で俺を見ていた。

 ロスマリンが気にしていること――何に不安を感じているのかは、すぐ判った。俺が答えようとした時「大丈夫ですよ」という柔らかな声が厩に響く。

 馬の手入れをしながら俺たちの会話に割り込んできたのは、ジリアン。

「団長は傭兵団一の馬術の名手ですから、何も心配いりません。なにせ俺たちに世話の仕方も含めて、馬の全てを叩き込んでくれたのは、団長なんですから」

「そう、なんだ」

「こいつらの稽古に付き合ってかなりの時間乗ったからな。片腕で手綱を繰るのも慣れた」

「何言ってるんですか。馬上で俺たちと剣を交えても、一度も体勢を崩したこともないくせに」

 謙遜も大概にしてください、という言葉に俺は苦笑いをする。こればかりは素直に認めるべきかもしれない。

 剣に関しては、年下のカティスにもウィミィにも抜かされた。門下の高弟の中では、間違いなく俺が一番弱い。

 けれども馬術はあいつらとは年季が違う。これだけは俺は誇ってもいいかもしれない。

「今日中に出られそうか」

「明朝出立にできませんか。街に一切立ち寄らず、野営のみの早駆けとなるのなら、それなりの準備が必要です。体力のない女性たちを護衛していくのなら、なおのこと」

 ジリアンの返答に、ロスマリンも声を上げる。

「ブレイリー、それなら私も書状を記す時間がほしい。おじ様が私の無事の知らせをすでに城に送っていると言ったけれども、この城で私が知り得たこと――誰が謀反に関わっていたのかを、事前に陛下と父の耳に入れておきたい。早馬なら、私たちより一日二日は早く着けるでしょう?」

 確かに、と俺は応える。それと同時に、紛れもなく軍勢である俺たちが突然アルベルティーヌに現れれば、いらぬ混乱を呼ぶ。侯爵家には、俺たちを円滑に市内へ迎え入れる根回しと準備をしていてほしい。

 ロスマリンと俺たちがこれからアルベルティーヌへ向かうこと、それもまた早馬を飛ばして伝えなければならないことだ。

「だったら、カティスに俺からと伝えてほしい」

「……なんて?」

「俺が責任を持ってロスマリンをお前の下へ送り届けるから、心配するなと」

 ロスマリンは淡く微笑んで頷いた。

 かくして翌早朝、騎馬の一群がマリコーンを出立する。中心は一台の客車と、補給物資を積んだ荷馬車。その前後左右を騎兵が護衛する。

 人目につかぬよう、俺たちは街道と街から距離を置き、平原を疾走する。

 俺たちの存在自体は後ろ暗くはないが、今回の陰謀の黒幕が他国である以上、隠蔽を諦め切れていない輩がいるかもしれない。襲われる可能性は皆無ではない。

 それを考慮しての護衛人数だが、これだけいると街に入れば注目も集めてしまうし、身動きも取りづらくなる。小さな村で水と休息を求め、偵察を放っては適地を定めて野営し、俺たちは王国をひたすら南下していく。

 そうして四日目の夜。夕食後、斥候の部下たちの情報と地図を照合し、俺は結論を出す。

 あと半日。おそらく明日の午後には、アルベルティーヌへと辿り着ける。

 今夜が最後の夜になる。

 もう、時間がない。

 意を決して、俺は野営地の中心に張った天幕を訪れる。そこはロスマリンとアデライデに宛がったもの。

「二人きりで話がしたいんだ、いいか」

 俺の問いかけに、先に反応したのはアデライデだった。何も言わずに立ち上がると、軽く俺の肩を叩いて天幕を出ていく。

 オイルランプの仄かな明かりが、天幕の中を照らしていた

「明日にはアルベルティーヌに着く。そうしたらもう、物事は怒濤の速さで進んでいくだろう。立ち止まることも、後戻りもできなくなる。その前に、お前に確かめておきたい」

 うん、と小さくロスマリンは頷いた。その面差しの神妙さに、俺は胸がざわめく。

「ロスマリン、率直に聞く。お前は本当に、俺でいいのか」

 七年堪え、七年逃げ続けてきた問いを、俺はついに口にする。

「俺と一緒になるということは、お前が今持っている全てをなくすかもしれないということだ。貴族の身分も宮廷女官の地位も、王立学院の仕事も。侯爵家を勘当されれば、家族や親しい人とも二度と会えなくなるかもしれない。お前は本当にそれでいいのか。そうまでして一緒になる相手が、本当に俺でいいのか」

 十七も年が離れていて。身分も釣り合わなくて。生業だって、社会の底辺ともいうべき傭兵で。

 そして何より、五体満足ですらない。欠損を抱えている。

 お前ほどの女が、そんな男に嫁いで、本当にいいのか。

 そう問うた俺に、ロスマリンはわずかに瞑目した。だが覚悟を決めたように目を開くと、俺を真っ直ぐに見つめた。

 まるで挑むように。

「やっぱりあなたは、何も判っていない。あなたがどれほど、レーゲンスベルグの人たちに結婚という幸せを願われているのか。そしてあなたの妻になる人が、あの街にとってどれほど大きな意味を持っているのか」

「なっ……」

「問わなければならないのは私の方――ブレイリー、あなたこそ、本当に私でいいの? 私を伴侶に迎えることで、あなたは本当に幸せになれるの?」

 鋭く刺さる問い。

「今あなたは私に、自分と結婚していいのかと問うた。でも当のあなたは、本当に私と一緒になりたいと思っているの? それは本当にあなたの本心なの?」

 真っ直ぐに問いかけてくる、ロスマリンの眼差しに気圧される。

「私はあなたほど、人の心に聡く優しい人を知らない。あなたは人の心をたやすく読んで、何のためらいもなく救いの手を差し伸べる。必要なものを与え、力になってくれる。しかもあなたはそれを、他人のためであると意識することすらなくやってのける。――あなた自身は、何も自覚していないでしょうけど」

 それはあまりにも意外すぎる言葉だった。

 俺は聖人じゃない。そんなできた人間じゃない。そう言いたかった。けれどもその言葉が出てこない。

「この七年間、私は沢山の人からあなたの話を聞いた。あなたはこの十四年で、一体どれほどの人を救ったの。傭兵団のため、自分たちの利益のためとうそぶいて、どれほど沢山の人たちを貧窮から掬い上げたの」

「それは……」

 誰かを助けようと思ったことじゃない。人手が必要だった。必要に迫られただけ。そう答えたかった俺の言葉を、ロスマリンは封じる。

「そもそも傭兵団が街を守らなければならない義理は、どこにあったの。施政人会議の要請に応え続ける必要は、どこにあったの。――あなたたちはどこにだって行けた。もっと高額で楽な契約を持ちかけてくる相手だっていたはず。それなのにこの十四年、あなたが街を守り続けたのはなぜ? 傭兵団をここまで大きくしようと奔走したのはなぜ? それはあなたが見捨てれば、野心を抱く誰かに街がたやすく蹂躙されてしまうことを、判っていたからでしょう」

 俺は言葉に詰まった。

 確かにあの時、俺たちに選択肢はあった。レーゲンスベルグを見捨てる、という選択肢が、確かに。

 けれどもそれができたか、と問われれば、ロスマリンの言うとおり、やはり答えは一つしかない。

 それは、できなかった。

 成り行きだと思っていた。乗りかかった、降りられない船だと思っていた。けれどもあの時もし、誰かに「降りていい」と言われたとしても、「降りるか?」と問われたとしても、きっと俺はこうした。

 それでも俺は、降りられなかった。

 降りなかった。

「あなたは優しい。心底優しい。だからみんな、不安になる。あなたは自分たちに沢山の優しさを与えてくれる。だけどあなたは己を顧みない。誰からも何も受け取ろうとしない」

 言葉が容赦なく俺に突き刺さってくる。

「あなたが差し伸べてくれた手で、自分たちは救われた。けれどもそのことは、果たしてあなた自身を救っているのか。それはあなたにひたすら己を犠牲にさせているだけなのではないかと」

 俺のしていることは、いつだって一方通行だ。そう突きつけられる。

 だけどロスマリン、それは違う。俺はそう言いたい。

 それは俺が優しいからじゃない。

 無私だからじゃない。

 俺が他人の気持ちを受け止めることから、逃げ続けていただけだ。

 自分の気持ちを満たすために、したいようにしていただけで、その結果生じるだろう相手の気持ちには、一切お構いなしだっただけだ。

 俺の自己満足を、ただただ押しつけていただけだ。

 それは領主館への突入前、ジリアンとセプタードに告げられたこと。それを改めて、俺は痛みに瞑目する。

 ああ、やっぱり俺は歪んでいるし、馬鹿だった。

「だから私は、あなたに問わなければならない――あなたは本当に、私を愛しているのですか?」

 懸命な眼差しが、痛みを堪えるような眼差しが、俺を射貫く。

「今あなたが私を望むのは、あなたの本心ですか? 私があなたに恋しているから、街の人たちがあなたと私の縁談を望んでいるから、あなたはそれに応えようとしているだけではないのですか?」

 信じがたい言葉だった。俺はただ愕然として、ロスマリンを見つめる。

「判っています。結婚がすべて、愛のみで為されるものではないということは。私は幼い頃から、家のために嫁ぐのものとして育てられた。だから何度も言おうと思った。お互いの利益のために結婚しようと。私のことを愛していなくてもいい、あなたの利益のために、私を妻にしてと」

 それは何度となく俺も考えたこと。けれども踏み切れなかったこと。だがそれをロスマリンの口から聞くことが、どうしてこんなに痛いのだろう。

「私を妻にすれば、あなたと傭兵団は多額の資金を手に入れられる。私は自分の計画の基盤を得ることができる。だからお互いの利益のために、割り切って結婚しないかと。そう何度も、言おうかと思った。そうすれば少なくとも、私はあなたの正妻にはなれる。たとえ愛がなくとも――心が伴わなくとも、少なくともあなたに妻として抱いてもらえる。そう何度も、思った」

 訴えかける言葉が涙声になっている。そして俺は気づいた――思い知らされた。

 この七年、ロスマリンはロスマリンで、苦しんでいたのだということに。

「だけど駄目だった。そうなればきっと私は、生涯あなたを疑い続けることになる。あなたは本当は、他の女性を愛しているのではないか。その腕に抱きたいのは、別の誰かではないのか。私はあなたの、人としての幸せを妨げているのではないか。そうやって私はあなたを疑い続けることになる。そんなの耐えられない」

 ほの暗い天幕の中でも、その目から涙がこぼれ落ちるのが見て取れた。膝の上で握り止められた拳の上に、一粒、また一粒と落ちて散る。

「その疑心と、あなたを縛り続ける罪悪感を抱えながら生きていけるほど、私は強くない。愛などなくてもいい、他の女がいてもいい、ただ妻でいられればいい、そう割り切れるほど、私は強くない」

 だから、としゃくり上げる言葉を、俺は絶望的な思いで聞いた。

 俺はこいつに、何を言わせているんだ。

 俺は、惚れた女にこんな思いをさせていたのか。

「もしあなたが、私や街のために結婚をしようと思っているのなら、どうかやめてください。今ならまだ止められる。まだ間に合う。父や陛下には、私から言うから。あなたが責めを負うことがないようにするから。もしあなたが私の持つものを必要としているのなら、それは協力者として叶えてみせるから。だからあなたは、私との結婚に捕らわれる必要なんてない。だから、どうか」

「もういい、もうやめてくれ」

 泣きながら言い募るあいつの言葉を、俺は阻んだ。

 これが懸命に己の気持ちを呑み込んだ、この七年の顛末。あいつの幸せを願うというお題目で、己の歪みを糊塗した結果。その現実に、俺はただ打ちのめされた。

 もうそれ以上、聞きたくなかった。

 涙に濡れた頬に手を伸ばし、唇を奪った。浅く柔らかくついばんで言葉を封じ、やがて涙がたまる目にも口づける。

 そうしてしばし。俺は震える声で、ただ詫びた。

「ごめんな……本当にごめんな。俺が悪かった。こんなにお前を傷つけていたなんて、ちっとも気づかなかった」

「ブレイリー、私は……」

「何もいらない。お前の心と体とこれからの人生、それを俺のものにできるのなら、他には何も持ってこなくていい。誰かのためではなく、俺自身のために欲しいものは、ただそれだけだ」

 もう「俺でいいのか」なんて問わない。そう問うこと自体が馬鹿だった。愚かだった。

 俺が言わなければならないことは、ただ一つ。

「結婚してくれ、ロスマリン」

 すぐ近くにある喉が、しゃくり上げるように動いた。再び泣き崩れそうに顔を歪めて、ロスマリンは問うてくる。

「本当に……私で、いいんですか」

「お前を望むのは、誰かのためじゃない。この十四年――いいや違う、この三十二年、俺は何も欲しいと思えなかった。そんな俺が、たった一つだけ欲しいと思った。狂おしいほどに、欲しいと思った。それがお前だ」

 セプタードは『俺の心が動かなくなったこの十四年』と言った。

 けれどもそれは違う。本当は違う。

 故郷を追われたあの日から、俺は何も欲しいと思えなくなっていた。

 自分の存在を、価値を、そして未来を信じられない。その呪いの諸元があるのは、三十二年前。それが吹き出したのが、カティスとカイルワーンと己の右腕を失った十四年前だっただけだ。

 いらないと言われた。この世に存在している意味などないと言われた。その呪いを覆す力を、手立てを持たなかった。

 自分で自分のことをいらないものだと思っているのに、どうして何かを欲しいと思えるのだろう。

 それでも届きたいと願った高みがあった。守りたいと願ったものがあった。

 そのためにあがきもがきながら戦った十八年の歳月の果て。その結果、自分が何も守れず、何も叶えられないちっぽけで甲斐のない存在だと改めて思い知らされた。

 もう、自分自身など、どうでもよくなった。

 俺は欠落から目覚めたあの日、自分の人生が、心底どうでもよくなったのだ。

 だから、親友たちの求めに――俺たちのためにもう少し頑張ってほしいという願いに、ただ従った。

 目の前に積まれている責務をこなしていけば、それもいつかは終わる。街や国も落ち着き、傭兵団は軌道に乗り、後を任せられる人材も育ち、親友たちも伴侶を得てそれぞれの人生を築いていくだろう。何もかも、いずれは決着がつく。

 そうなれば俺はいらなくなる。いなくてよくなる。

 それを見届けられれば、俺は生きることを終えていいだろう。逝ってもいいだろう。

 それくらい頑張れば、この甲斐のない人生を終えても、許してもらえるだろう。

 心の底で俺はそう思っていたのだ。

 そしてそれは、もう少しで叶おうとしていた。

 それなのに、お前が突然現れた。そうして俺は思った。

 欲しい、と。

 お前が欲しい、と。

 それは欲求という感情を故郷に落としてきた俺が、久しぶりに味わうものだった。

 だけどそれに従うことは、その思いのまま、お前に手を伸ばすことは、俺にはどうしてもできなかった。

「何を言っても言い訳にしかならない。この七年のことは、謝っても謝りきれることじゃない。だけど一つだけ、お前にちゃんと話しておかないとならないことがある。――どうして俺があんなにも頑なに、お前の気持ちを受け入れることを拒んでいたのか。お前との身分が違うことにこだわっていたのか」

 それは今まで一度も、誰にも打ち明けたことのない、俺の身勝手な本心。

「俺はお前が、落ちぶれたと蔑まれる様を見るのが、嫌だったんだ」

「それは……」

「お前も薄々気づいているだろう。俺は元々、レーゲンスベルグの生まれじゃない。お前の家とは比べようもないが、そこそこ裕福な家の跡取りだった」

 こくりと小さくロスマリンが頷くのを見て、俺は続ける。

「俺の両親はお互いの家のため、親が決めた縁談で一緒になったが、その結婚生活はうまくいかなかった。父は愛人を家に引き入れ、そいつとの間に子どもができると、俺と母を追い出した。その頃には実家が傾いていた母は、誰も頼れなかった。何の役にも立たないガキだった俺を抱えて、路頭に迷った」

 できる限り感情を抑え、淡々と俺は打ち明ける。けれども内容が内容だ。動揺するのは無理はない。

 食い入るように俺を見つめるロスマリンに、俺は小さく頷いて続ける。

「愛人との争いに敗れ、放逐された母に、世間は容赦なかった。名家の令嬢がこのざまだと、落ちぶれて見る影もないと蔑み、嘲笑い、嬲った。母は俺を守るために、口にしたくないような目に沢山遇った。アルバ中を俺を連れてさすらい、その先々で心ない人たちに傷つけられ、弄ばれた。最後に辿り着いたレーゲンスベルグで、やっと手を差し伸べてくれる人に出会った。それがアンナ・リヴィアと先生――カティスの母親と、セプタードの父親だ」

 今でもあの瞬間のことは、まざまざと思い出せる。俺をあの地獄から掬い上げてくれた、がっしりとした手。

 『もう大丈夫。よく頑張った』と、俺の頭を撫でてくれた人の笑顔。

 実の父親以上の愛情を、俺を始めとする弟子たちに注いでくれた人。

 ランスロット・アイル――生涯慕い続けるだろう、俺の恩人。

「先生とアンナ・リヴィアの助けで、俺たちはやっと落ち着く場所を得た。それから母は身を粉にして働いて、俺を育ててくれた。貧民としか言いようがない暮らしだったが、辛いとは思わなかった。屋根があるところで眠れる、腹一杯とまでいかなくても食べられる、恥を感じずにすむほどの衣服がある。それがどれほどありがたいことなのかは、身にしみてる」

 俺の告白に、ロスマリンの顔から血の気が失せているのが、わずかな灯火の中でも判る。その頬を温めようと手を伸ばすと、あいつは俺の手に自分の手を重ねてきた。

 俺の方がむしろ温められる気がした。

「それで、今お母様は……? 私、一度もお目にかかったことがない」

「俺が十八の時に亡くなった。流行り病で、あっという間だったそうだ。アンナ・リヴィアと先生と、セプタードが見取ってくれた。俺は従軍していて、帰ってきたのは葬られた後だった」

 ああ、という微かな嘆きを俺は聞いた。俺の左手を包み込んで放さない両手が、微かに震えている。

 しばしの沈黙の後、俺は静かに告げた。言い訳でしかないと判っている、けれども俺を捕らえて放さなかった逡巡を。

「俺は今の自分の境遇を、恥ずかしいとは思っていないつもりだった。失ったものを取り戻したいとも、元の身分に戻りたいとも思っていない。だがお前と一緒になる、そのことに思い至った時、耳に甦ってきたのは、母に向けられた心ない言葉だった。俺と一緒になれば、お前はこれを投げつけられるのかと」

 沢山の人が、母を嘲り嗤った。なんて醜いと。みっともないと。浅ましいと。ここまで落ちぶれるのかと。

 母は一言も反論しなかった。ただ歯を食いしばって耐えた。その小さな背中に、俺はかける言葉がなかった。

「全ての人がそうだとは言わない。けれども人を嘲笑うことが楽しくて仕方ない輩は、人を見下すことで己の優越感を満たそうとする輩は、少なからずいるんだ。自分より高い身分の者が、最下層にまで落ちてくる。それは元から賤しい者を嗤うより、遥かに気分のいいことだろう。お前は俺と一緒になれば、必ず言われる。――侯爵令嬢ともあろう者が、一国の王妃ともなろう姫君が、貧民出のこんな腕もない傭兵と一緒になるのかと。恋と色に狂った愚かな女だと。そうお前を見下し、嗤う者が必ず現れるだろう」

 下卑た眼差しも、おぞましい声色も、いまだに俺の中で鮮やかだ。

 忘れようとしても、己の中に沈めようとしても、甦ってきては俺を冷たい野辺へと引きずり戻す。

「俺はそれが嫌だった。お前を傷つけられるのが嫌なんじゃない。俺のためにお前が嘲られる、それを俺が聞きたくなかったんだ」

 他人の心を変えることはできない。他人の口を塞ぐことはできない。何をどう言おうが、どうしようが、故ない侮蔑を止める手立てなんてない。

 判っている。これはただの言い訳だ。俺が弱いだけだ。恥ずかしいと思っていないのなら、胸を張ればいいだけだ。何を言われても、意に介さなければいい。己をただ、強く持っていればいいだけのことだ。

 気に病むのは、落ちた己を俺が恥じている証拠だ。

 だけど俺は強くあれなかった。お前を傷つけるものから俺が守ると、そう言い放つ気概を持ち得なかった。そのために、沢山の言い訳をこしらえてごまかし続けた。

 それが結局のところ、俺がお前から逃げ続けた真意だ。

 ごく単純に、俺に意気地がなかっただけだ。

「馬鹿。やっぱりあなたは、何も判っていない」

 それなのに。そう告げた俺に、ロスマリンは俺の手を握ったまま、柔らかく微笑んで言う。

「確かにあなたの言うとおり、私を見下して嗤う者はいるでしょう。特に宮廷雀あたりが、ぴーちくぱーちく騒ぎ立てるのでしょうね。でも、私は一向に構わない。だって私は知っているもの。セプタードが言ったでしょう? あなたを貶めること、辱めることを決して許さないと。それがレーゲンスベルグの多くの人たちから託されてきたことだと」

「お前……」

「レーゲンスベルグにも、色々な人がいるとは思う。みんなが同じ考えだなんて思わない。でもね、ブレイリー。あの街には、あなたと妻である私を、誇りに思ってくれている人たちがあふれている。そのことを私は知っている」

 晴れやかな笑みが、目の前で花開いた。

「どうか気づいて。どうか受け入れて。あなたがどれほどの人なのか。レーゲンスベルグの街中に、あなたに恩義を感じている人がどれほどあふれているのか。あなたを守りたいと、そのために命を賭けてもいいと思っている人がどれほどいるのか。その人たちが、私を守り支えてくれる」

 脳裏をよぎるのは親友たちやその家族。傭兵団の部下や、巣立っていった子どもたち。この十四年、俺を取り巻いていた――否、俺を支えていてくれた人たち。

 この三十二年間、俺は自分も他人も信じなかった。それなのに俺はその間、一度たりとも独りだと、孤独だと感じたことはない。

 それは友たちが、俺を決して独りにしようとはしなかったから。

 決して俺を見放そうとはしなかったから。

 ああ、そうだ。俺はあいつらを信じなければ。

 これ以上俺は、人の気持ちを蔑ろにしてはならない。

「だから私は、何も怖くない。あなたが私を望んでくれるのならば、私を愛してくれるのならば」

 包み込んでいた俺の手。その甲に口づけ、ロスマリンは宣する。

「どうかあなたの生涯の傍らに私を、我が君」

 それは求婚に対する答え。古式ゆかしい言葉に俺は。

 胸の中にあふれかえってくる激情のままに、ロスマリンを抱きしめた。その温かさを抱いた瞬間、思った。

 初めて、思った。

 右腕が、ほしい。こいつを抱きしめるための、もう一本の腕が。

 右腕を失って十四年。初めて俺は喪失感を感じた。心底感じた。

「お前を両腕で抱きしめられれば、どんなによかっただろう」

 ごめんな、と思わずこぼした俺に、返ってきたのは凛とした言葉だった。

「ブレイリー、私はあなたの右腕を見たことがない。右腕のあるあなたに、私は一度も会ったことがない。私が出会い、恋したのは、左腕一本で私を支えてくれた隻腕のあなただ」

「ロスマリン……」

「あなたが右腕を失ったことで、できなくなったこと、諦めたことは、きっと沢山あるのでしょう。その辛さは、悔しさは、きっと私には判らない。だからこそ、思う。――私が望むのは、あなたの両腕に抱きしめてもらうことじゃない」

 強く潔く、俺の前で振りかざされる決意。

「私の望みは、あなたの右腕になることだ。あなたが右腕をなくしたことで、できなくなったこと、諦めたことを、私の働きで叶えさせることだ」

 女としてだけではなく、妻として、母としてだけではなく。俺の行く道の、叶えたい理想を共に歩む伴侶として。

 対等の者として、その道をどこまでも一緒に。

 ああ、と俺は呻く。この胸の中にあふれかえる感情を、何と表現したらいいのだろう。

 感嘆と、愛しさと、頼もしさと、いささかの呆れと。

 ああ、そうだ。この女は、ロスマリン・バルカロールだ。

 あのアイラシェール・ロクサーヌに触発され、カイルワーン・リーク大公に育てられ、カティス王とマリーシア王妃の片腕として宮廷で戦った稀代の女傑。

 俺の妻にだけ留まっていられる――否、留めていていい存在じゃない。

 俺はこの過分な妻を、これからどうすればいいのだろう。

 これほどまでにできた女を妻に迎える俺は、これからの人生を、どうすればいい。

 答えはすぐには見つからないだろう。だが一つだけ判っている。

 こいつがそばにいてくれれば、共に戦ってくれるのならば、きっと何だってできる。

 何だって叶う。

「それがお前の望みなら、俺がお前に望むこともただ一つだ」

 答えはただ一つ。

「どうか決して離れることなく、生涯俺の片腕であってくれ」

 ロスマリンは顔を上げ、俺を見つめると、綻ぶような笑顔を浮かべて頷いた。

 それに俺は笑み返すと、誠意と親愛を込めて深い口づけを贈った。

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