その女性、その名前

今の時間軸で、マーシュは全く違う行動をとった。


それは、初日。レーズンパンを運び、男性の元を訪ねた日のことだった。


「ぱ、パンを買ってほしいんです!レーズンがたくさん入ったパンです!5シベルです!」

「5シベル?ずいぶん安いね。うーん、でもどうかなぁ…」

男性が悩むようなそぶりを見せたので、さらに必死に言葉を続けようとしたとき、ふと、玄関奥のドアにかかった、表札の文字が見えた。


『無断で勝手に部屋に入らないこと!マリベル』


「…マリベル…?」

今の時間軸のマーシュは、字が読めた。

マリベルが、孤児院の子供たちに、文字と算数を教えたからである。


「マリベルの知り合い?もしかして孤児院の子かな?」

「…ここ、マリベルの家なんですか…?」

「うん、そうだよ。」


とっさにレーズンパンを引っ込め、こっそりとバックに押し込む。


「あれ?パンは?買わなくても大丈夫?」

「…大丈夫です。マリベルは、レーズン嫌いですもんね。」

「そうなんだよ。よく知ってたね。僕も妻も、レーズンすごく好きなんだけど、不思議だよね。一人で食べようかなって思ってたけど…」

「いえ、大丈夫です。」


貴族同士、どうなってもいいや、などと一瞬でも考えた自分に、寒気がさす。

こんな怪しいもの、渡せるわけがない。


「…明日は、違うパン持ってきます。」

「うん、そうしてくれると助かるよ!」


マーシュが馬車に戻ると、女性は満足そうに微笑んだ。


「…あの、さっきのパン、」

「明日からは一日金貨2枚出すわ。」

「…わかりました…。」


金貨2枚は、この時間軸のマーシュにとっても、やはり魅力的なものだった。

成功報酬と合わせれば、家族を探しに旅に出れる、貴重な費用。

それでもマリベルたちに、この怪しいパンを渡すことはできない。


マーシュは、この貴族女性をだますことに決めた。


それからは毎日パン屋でパンを買って、貴族女性から預かったレーズンパンとこっそり入れ替え、マリベルの家を訪ねた。

パン屋で買ったほうのパンを、マリベルの父に売り、レーズンパンをバックの底に押し込んだ。

そして孤児院に帰ってから、こっそりレーズンパンを生ごみのごみ箱に捨てた。


そんな日々が10日ほど続いた時のことだった。

(アニー、まだ治らないのかな…)

パン屋に行くまでに時間があったので、シスターたちには禁じられていたが、こっそりとアニーのいる屋根裏部屋を訪ねた。


「アニー、大丈夫?」

「お、兄ちゃん…」

アニーは驚くほどにやせ衰えていた。とても苦しそうに、はぁはぁと呼吸している。


(本当にこれ、風邪なのか…?風邪でこんなになるのか?)


「医者、よばないと、」

あまりのアニーの激変に、マーシュは驚き、これまでシスターたちのいう事を馬鹿みたいに聞いていた自分を責めた。

(マリベル…マリベルなら、きっと、)

「お水…ほし…」


アニーの言葉に、シスターが置いていったのだろう、食事のトレーからコップをとろうとして、その皿に残った食事が目に付いた。


「これ、」

パン。レーズンパンだ。


「なんで、」

マーシュは慌て、アニーに水を渡すと、シスターを問い詰めた。


シスターはいけしゃあしゃあといった。

「食べ物を粗末にしちゃ悪いでしょ?」

「でも、あれは生ごみに捨ててただろ!」

「あぁ、でも綺麗だったし。大丈夫よ、火も通したもの。むしろ孤児院の皆より豪華な食事になって、あの子も喜んでるんじゃないの?」

「ふざけるな!」


ちがう、ちがう、悪いのは自分だ。

あんなものを孤児院に持ち込んだ自分だ。


怒りは収まらなかったが、そんな場合ではない、とマリベルの元へと走った。


「俺のせいで、俺のせいでアニーが、」






そして、今である。

「俺が、俺がパンなんか持ち込んだから、きっと、そのせいで…アニーが、」

「…そのレーズンパンに、ハクランの蜜が入っていたのね…。マーシュ、その貴族の女性、誰だかわかる?名前は、わかるかしら。」

「えっと、名前は…」


前の時間軸のマーシュでは、わからなかった。

だが、今の時間軸のマーシュは、字が読める。


自分の手を振りほどいた後に、貴族女性が出したハンカチ。

それにははっきりと名前が刺繍されていた。


「シルク・ゴーヴィッシュって、名前だと思う。」


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