#19 ふたりでナディールへ
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ファハドとともにナディールに来たマーガレット。彼とカサンドラの婚礼が近いことを覚悟しての旅だったが、ナディールでの手厚いもてなしと国土の美しさに心がほぐれる。そしてファハドは念願の夕陽を見せようと、彼女を愛馬に乗せて出発する。
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ファハドの祖国、ナディール国際空港。
プライベートジェットでふたりは到着した。
プライベートジェットに乗るなんて、もちろんマーガレットには初めての経験だった。
いまさらながら、ファハドがとてつもない大金持ちであり、祖国では王族であったということを彼女は思い知らされた。
最新鋭の装備を搭載したジェット機での空の旅。
なんでこんなにドキドキするの……これは仕事の旅よ!
頬が勝手にほてってくるのを彼に知られたくなくて、窓越しの雲海をながめてばかりいた。
だから、無事に着陸したときは妙にほっとした。
かたやファハドのほうも、機内ではいたって静かだった。
もっとも彼の場合は、前回の目的とはまったく違う祖国への旅なので、完全にリラックスしていたわけだが。
そしてなによりも、マーガレットに祖国を披露できることがうれしくてたまらない。
まるで子どもだな……
浮き立つ心を落ち着かせようとして、彼はいつも以上に冷静にふるまってしまうのだった。
到着前、ファハドはすでに祖国の衣装に着替えている。
マーガレットはファハドに導かれて、彼の祖国の地に初めており立った。
ここがナディールなのね。
さすような日差し。だが湿気はほとんど感じない。
事前にファハドの説明を受けて、帽子にサングラス、長袖のジャケットを羽織ってきたものの、日差しは想像以上だった。
さすが国土のほとんどが砂漠だということを、あらためて思い知る。
プライベートジェットの前には大きなリムジンが待機していた。国賓並みに豪華な車に、マーガレットは一瞬ひるんだ。
「今回は特別に、歓迎用の車だ」
故郷に戻ってきたせいか、いつもより肩の力がぬけているファハドが言った。
「すごい。リムジンなんてはじめて」
緊張を振り払うようにマーガレットは答えた。
広い車内でふたりは向きあって座る。ファハドがゆったりと腰かけて窓の外に目をやる姿に、マーガレットはまたしても見とれてしまう。
なんて美しく、
どんなに抑えても、抑えきれない気持ちが湧き上がってくる。
そんな視線に気づいたように、ファハドがふっと視線を向けてきた。
運転席とは仕切りがあり、ふたりきりの密室だということに、マーガレットはいきなり気づいた。
プライベートジェットの機内どころではない近さなのだ。
どきん。
心臓が大きく高鳴った。
言うならいまよ。
早く言わなければ。……でも、なにを、どうやって?
マーガレットの考えていることなど気づいていないように、ファハドはこれまで隠していた熱をこめながら、彼女の瞳を見つめていた。
息苦しさにたまらなくなり、マーガレットは大きく息を吸った。
「ところで、これからの予定だが」ファハドのほうが先に口を開いた。
ええ、という言葉さえスムーズに出なくて、マーガレットはうなずくだけ。
「移動で疲れただろうから、今日のところはわが家で休んでもらう」
わが家ですって!
宿はホテルだとばかり思っていた。マーガレットの目に動揺が浮かんだ。
その心の内を見透かしたかのように、ファハドがにやりと笑った。
「言い忘れていたが、客人の部屋はホテル並みにしつらえてあるので、居心地はいいと思う」
やがてリムジンは大きなゲートをくぐり、しばらく走行を続ける。
敷地に入ってからかなり走ったと思うころ、突然、王宮のような建物が現れた。
部屋に落ち着いたマーガレットは、ファハドが言う「家」と自分が住んできた家との違いに呆然としていた。
想像もつかないとは、このことだ。
ここは宮殿としか言いようがない。
総タイル貼りの見事な装飾のエントランスから中庭を抜け(それだけでも、ホテル並みの広さだ)、従僕に案内された部屋は二間続きの広く明るい部屋だった。
美しい花がたっぷりと活けられた大きな花瓶、こぼれんばかりに果物が盛られたテーブル。一流ホテルでも、ここまでのしつらえはないだろう。
ノックにこたえると、侍女だった。お茶をお持ちしましたと言ってトレイを押して部屋に入ってきた。
「マイアと申します。お部屋付きですので、なんなりとお申しつけください」
民族衣装をまとった聡明そうな若い女性は、英語で優雅にあいさつをした。
「お疲れでしょうから夕食はお部屋で、とうかがっております。テラスにご用意しましょうか?」
言われて大きな窓の外に目をやると、美しい庭が一望できるテラスが張りだしていた。マーガレットは、思わず外に歩みだす。
「暑い!」
強い日差しに押しもどされる。
「日暮れからは肌寒いほどになるんですよ」おかしそうにマイアが言う。「砂漠の気候は日のある時間と沈んでからでは、大きな差があるんです」
「そうなのね」マーガレットは振り向いた。「でも、ぜひテラスで景色を楽しませてくださいな」
その言葉にマイアもうれしそうな顔になった。
「はい、冷房のある室内を好まれるお客様もたくさんいらっしゃいますが、砂漠の夜風も気持ちいいんですよ」
マイアの言葉どおり、彼女がサーブしてくれた夕食のひとときは、夕暮れから星空を楽しむ、またとない夜となった。
「はじめて来たのだけれど、この国は本当に美しいわね」
夜風がどこからともなく、南国の花の香りを運んでくる。
マイアが誇らしい顔になる。
「かつては貧しい国でしたが、王族のかたがたが国民とともに、いまある国の姿へ導いてくださいました。わたしも教育を受けられたので、いまがあるのです」
そこにはファハドもきっと関係している。マーガレットはこれまでのファハドの仕事ぶりや助けを思い、確信した。
尊敬し、信頼しているひと。
それなのに……。
夜空の星がふいににじんだ。
美しく気持ちのよい夜に心がゆるみ、涙がこぼれたのだ。
「大丈夫ですか? 料理がお口に合いませんでしたか?」
マイアが気遣ってたずねる。
「いいえ、とても美味しくて、そしてあまりにもすてきな星空に感動してしまったの」
夜空を見上げたマーガレットは、静かに涙を流しながら、西の空に浮かぶ三日月をながめていた。
翌日、ファハドとマーガレットは、ナディールの競走馬の視察へと出向いた。
ナディール国の競走馬の育成システムはすばらしく、マーガレットを感動させた。
豊富な財力を投じた施設はどこも最新式で、施設の規模やシステムは、もしかしたらイギリスよりもこうした新興国でのほうがはるかに進化しているかもしれない。
そして、ナディールの王室主導で建設したという競馬場の豪華なこと!
コース設計もすばらしく、グランドスタンドの規模も桁外れだ。さらには、映画館やホテルまで隣接している。
競馬場の周辺には、充実した調教施設はもとより、検疫施設、最新式の馬の病院がある。まさに国をあげて、競馬産業の発展にとりくんでいるのだ。
ファハドはマーガレットを案内しながら、嬉々として解説した。
「ナディールで本格的に競馬が開催されるようになったのは、ここ二〇年ほどのことだ。それがいまでは中東を代表する競馬王国のひとつになっている」
なかでも、ロイヤル・ホース・レーシング競馬場では、年二回ワールド・カップを開催し、いまやヨーロッパはもちろん、オセアニアや日本の有力馬も多数参加するようになった。
競馬シーズンは暑い夏を避けた一一月から四月まで、午後から夜間の時間帯に開催される。
「明日は開催日だから、夜のレースをぜひ見にいこう。スタンドの照明と、芝生の照明とがあいまって、それはそれは美しいんだ」
「そうでしょうね、いまから楽しみだわ」マーガレットは目を輝かせた。
「それから、この国では宗教上の理由から、馬券の発売はしていない。的中者に商品が当たる仕組みだ」
「そうだったわね。それから、女性は服装にも気をつけなくてはいけないし」
「ドレスコードはカジュアルでいいんだが、ヨーロッパほどは自由ではない。そのあたりはマイアに伝えておいたから、相談してくれ」
ファハドが用意してくれていた衣装は、ナディールの伝統的なものを今風にデザインしてあり、その布地の美しさ、刺繍の見事な出来ばえにマーガレットは心うばわれた。
* * *
「きみに、とっておきの夕陽を見せたい」
日暮れが近づくころ、ファハドは砂漠への乗馬にマーガレットを誘った。
その誘いはうれしかったが、できればひとりで乗りたいと彼女は申しでた。
するとファハドはやんわり釘をさす。
「砂漠での乗馬を甘く見ないほうがいい。イギリスの丘陵地とはまるで勝手が違うぞ」
たしかにそのとおりだろう。でも、ファハドと二人乗りなんて……
ここは素直にうなずいたものの、マーガレットはそわそわしてきた。
なんでもない振りができるのか……いまの自分にはちょっと自信がなかった。
ファハドの愛馬マレンゴは、持ち主と同じくらいたくましく雄々しい姿だ。
厩舎のスタッフに手をかりつつ、先にマレンゴにまたがるマーガレット。続いてファハドが愛馬に軽々とまたがると、おもむろに彼女の腰に腕をまわした。
その腕がまるで熱を帯びているみたいだ。耳元に彼の息がかかる。
そのとたん、マーガレットはどきっとし、肩に力が入ってしまう。
「リラックスして」
ファハドはそう言うと、ゆったりと馬を進めて行った。
しばらくして、ふたりを乗せたマレンゴは小高い丘にたどりついた。
徐々に沈みゆく夕陽の大きさに、マーガレットは圧倒されていた。
絵の具で塗りつぶしたかのようなその赤さは、イギリスで見る夕陽とはまったく違ったものに見えた。熱く燃えたぎる炎のよう。
「言葉にならないわ……」
マーガレットは涙ぐんでいる自分に気づいた。
彼女のつぶやきを耳にしながら、ファハドは思いのひとつがかなえられたことに、深い喜びを感じていた。
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