#16 微妙な緊張感

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マーガレットの最初の取引は無事に完了。ひと息ついた頃、詐欺の片棒をかついだ男たちを目撃する。今度は素直にファハドに相談すると、彼のアイディアで、悪党たちにひと泡吹かせる作戦を実行する。

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 日本馬は、売り先が決まるまではローパー牧場で責任をもって預かると、マーガレットの父と兄が請けあってくれた。

 数日後、マーガレットはエージェント契約を取り交わすため、トガシ氏がロンドン滞在中のオフィス代わりにしているホテルのロビーに再びおもむいた。

 トガシ氏がロビーにおりてくるのを待っていると、少し離れた席に見覚えのある女性がいることに気づいた。

 以前、アスコット競馬場で見かけたドイツの運輸王アルベルト・ボーム氏と一緒にいた女性だ。

 なにやら男性と話している。

 その相手を見てマーガレットははっとした。マキャフリー氏だ!

 彼が上機嫌で女性と握手を交わす。

 その後、ロビーを横切りホテルから出て行こうとする女性の後ろ姿を、マーガレットは目で追いかける。

「お待たせしました」

 トガシ氏の声に、マーガレットは我に返った。

 ここは自分にとって大事な契約の場だ。彼女はトガシ氏との打ち合わせに集中した。


 無事に契約を交わし、次の来客があるというトガシ氏をその場で見送ると、マーガレットはほっと息をつき、すっかり冷めてしまった紅茶に口をつけた。

 しばらくぼんやりしていると、ロビーに評論家のニック・テイラーが現れた。

 今日はいろいろと偶然の重なる日だ。

 詐欺被害を警察に届けたとはいえ、犯人にたどりつくとはから思っていないマーガレットだったが、その後マルコビッチの詐欺事件についてテイラー氏側でなにか進展があったのか、思い切って聞いてみようと席を立ちかけた。

 そのとき、テイラーに向かってマキャフリーが手をあげるのが見えた。

 マーガレットはとっさに身をかがめ、書類を読むふりをした。

 上目づかいに様子をうかがうと、男ふたりは笑みを浮かべ親しげに話しはじめている。

 あのふたりが知り合いでも不思議はない。

 けれども、とてつもなくいかがわしい気配をマーガレットは感じ取っていた。


 深呼吸をしてファハドに電話をいれた。

「会ってお話したいことがあります」

 トガシ氏との契約を無事に終えたものの、同じ日に見た光景がマーガレットはどうしても気になっていた。

 でも、自分ひとりの力では限界がある。

 一夜明けて出した結論は、ファハドに素直に相談しようというものだった。

 もちろん、いまだに心の傷は癒えていない。ファハドの視線や声に触れるだけで、心がふるえてしまう。

 だが、ビジネスに関して、ファハドがなに一つゆるがせにしていないことは、よくわかっている。

〝いいか、しっかり前を見ろ……あの男をよく覚えておいてくれ〟

 あのアスコット競馬の日、ファハドに依頼された、会社にとって大切な人物と一緒にいた女性なのだ。

 なにかあってからでは遅すぎる。その気持ちが、マーガレットを一歩進ませたのだ。


 マーガレットから直接話をきいたファハドは、おそらく仕組まれた詐欺だという彼女の意見に強くうなずいた。

「だとすれば、申し訳ない。わたしを守ったがためにきみが標的になったということだ」

「でも、確信はないのよ」

「ふむ、だが今回のことで、逆に仕掛けることはできるさ」

 ファハドはにやりと笑った。

 普段は見せない、砂漠の男の戦闘的な表情だ。

 その匂い立つような男らしさに、マーガレットはどきりとした。


 一方で、ふたりのビジネスは思った以上に順調に進んだ。

 マーガレットが最初に仲介した馬は、ほどなく信頼できる買い手が高値をつけた。

 買ったのはアラブの大富豪だ。

 その馬が数か月も経たずに新馬戦でダントツ勝利という華々しいデビューを飾ると、マーガレットの評価が業界内でいっきに高まり、依頼が殺到するようになったのだ。

 もちろんファハドが出資者であることは業界ではとっくに知られていたから、それがまた大きな後押しになっていた。

 つまり、資金的に問題のない相手だから安心して任せられる、という評判がたったのだ。

 マーガレットは、いまの自分がおかれた状況を素直に受けとめていた。そのうえで、一つひとつ成果を積み上げていけばいいのだと、腰をすえて仕事にとりくんだ。

「わたしに足りないものをファハドは持っている。わたしは自分のできることを精一杯やるだけ」

 いまほどやりがいを感じて楽しく仕事ができている自分の姿を、以前のマーガレットだったら想像できなかったかもしれない。


 けれども、ビジネスが順調にいけばいくほど、ふたりのあいだには微妙な緊張感が高まっていた。

 仕事や馬の話をするとき、ふたりは大いに盛り上がり、自然な笑顔を見せあえた。

 けれども、お互いのプライベートについては、どうしても避けてしまう。

 あの夜のことが、ふたりの間にぽっかりと大きな穴をあけているのだ。

 ファハドのほうは力むことなく、マーガレットの肩などにさりげなく触れ、熱のある視線を向けてくることがある。

 でも、マーガレットはそれにこたえることはできない。

 言葉にならない時間のもどかしさだけが積み重なっていった。


   * * *


「マーガレット、ひと芝居できるか?」

 ファハドに詐欺の件を相談してしばらく経ったある日のこと、マーガレットは日々の忙しさに追われて、あの日のことをほとんど忘れかけていた。

「マキャフリーのことだ。ギルバートとトマスにいろいろと調査してもらったところ、どうやらきみの推理どおりだとわかってきた」

 ファハドの説明をきいているうちに、マーガレットの背中を驚きが駆け抜けた。

 マキャフリーがかつてローパー牧場の顧客だったことも、ファハドを陥れようとして自分が利用されたことも、一瞬、頭に入ってこなかった。

「だが、不幸中の幸いだったこともある。きみのおかげでドイツの運輸王アルベルト・ボーム氏に連絡をとる機会が持てたんだ」

 あの女性はボーム氏の目下の恋人で、ふたりは婚約間近だとファハドは続けた。

 その裕福な恋人マージョリー女伯爵は、婚約の記念にと、内緒でボーム氏がこよなく愛する馬を一頭贈ろうとしていたそうだ。

 もちろん、ボーム氏からは卵ほどもある南アフリカ産の大きなダイヤのネックレスがすでに贈られている。

 これまで数々の浮名を流してきた美貌の女伯爵マージョリーを、マキャフリーはファハドに使った手で騙そうとしているらしい。

 その契約が明日、先日のホテルのロビーで交わされることになっているという。その場で、マーガレットに‘芝居’をうってくれとファハドが頼んでいるのだ。

「もちろん、なんでもやるわ!」

 マーガレットに迷いはなかった。


 翌日。

 ホテルのロビーにある喫茶スペース。

 きょうは四方を囲まれた一角に契約の場がもうけられている。

「それでは、この内容でよろしいですな」

 マキャフリーが書類を前にして、とびきりの愛想顔をつくっている。

「ええ、結構ですわ」

 優雅な眉をあげ、美しい脚をさらりと組み替え、マージョリー女伯爵が続ける。

「ところで、お支払については、本日現金で処理したいの」

「げ、現金ですか!」

 思わずマキャフリーの声が高くなる。

 明日以降の振り込みであっても金が入るまでは油断できないと思っていたのに、いまここで頂戴できるとは。こいつはラッキーなことになった。

「もちろん、喜んで受け取りますよ」

「では、秘書に来てもらいますから、少しお待ちくださいな」

 女伯爵はそう言うと、携帯を手にした。

「わたしです。例のものをお願い」

 しばらくして、隙のないスーツ姿にまとめ髪、地味なメガネをかけた秘書らしき女性が現れた。

「こちらです、マダム」

 女性秘書がアタッシェケースをテーブルの上に置く。

 はて、この女、どこかで見たような……マキャフリーが頭をひねる。

「では、これでお願いね。確認してちょうだい」

 そう言うと、マージョリーはすっと席を立った。テーブルのわきに立つ女性秘書を残して。

 五万ポンドもの現金を数えるかと思うと、マキャフリーの手が震えた。

 パタンとアタッシェケースをあけたとたん、突然、赤い粉が飛びだして、顔にも服にもかかった。

 一瞬、なにが起きたかわからず、マキャフリーは呆然とする。

「これは、失礼しました」

 女性秘書の落ち着き払った声が聞こえたかと思うと、頭から水をかけられた。

「な、なにをする! おい、ふざけてるのか?!」

 大声をあげて立ち上がった彼の背後で、力強い声が響いた。

「いいや、ふざけてなどいない。そのまま逃走できないようにしただけだ」

 振り向くマキャフリーの目の前にファハドがいた。さらにその後ろには、複数の警官がいる。

「詐欺容疑でご同行願います。あなたには黙秘権が……」

 警官が逮捕状を読みあげると、マキャフリーは腰が抜けたかのように座りこんだ。

 警官たちにうながされて立ち上がり、連行されようとする瞬間、女性秘書の正体に彼は気づいた。

「お、おまえはっ!」

 マーガレットは、冷徹な表情をくずさず、無言でマキャフリーを見送った。

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