#13 突然のプロポーズ
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強引に会社を辞めたマーガレット。気持ちを切り替え起業に専念する彼女に、願ってもない話がもちこまれる。そのうえ幼なじみからは突然のプロポーズが!
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「やっぱり、無責任だったかもしれない……」
マーガレットは、いきなり会社を辞めるとファハドに言ってしまってよかったのか、あとになって悩みだしていた。
だけど、これまでの人生で、あれほどのショックを受けたことはなかったから、その反動も大きかったのだ。
あれ以来、ファハドから電話が何度もかかってきたが、彼女はまったく出ていない。
忙しい彼のことだ、いつまでもわたしのことばかりかかわっているわけもいかないはず。やがて、電話をするのもあきらめ、疎遠になっていくのだろう……。
こうするのが一番よかった、と彼女は自分に言いきかせた。
おとなしくニューマーケットに戻るときが来たのかもしれない。
長年あたためてきた夢のためには、やはり地元に根をおろしたほうがいいのかもしれない……そんなことまで考えるようになっていた。
「あの夜のことは、ただの夢。そして、もうヘンな夢を見るのもおしまいよ!」
でも、本当に夢だったの?
ファハドの唇、たくましい胸、繊細な指先の感触は、たしかに彼女の体に刻みつけられてしまっている。あれは決して、夢なんかじゃなかったのに。
ただ、追いかけようとすればするほど、消えてしまう夢でもある。
どのみち彼は、自分の立場にふさわしい女性と結婚する。それなのにわたしは、あやうく勘違いしそうになっていたのだ。
もう、よそう。いつまでも、幻にしがみつくのは!
そうよ、マーガレット、前を向きなさい!
これからはもっと地に足をつけて頑張るのよ!
気持を切り替え、本格的に起業に動きだすことにしたマーガレットは、さまざまなルートを求めてひとに会うことにした。
すでに確立しているルートのなかでは勝負にならない。イギリスにあまり紹介されていない国の名馬にたどりつけたら……。希望はあっても、いまの自分にはそのルートにアクセスする手立てがない。
覚悟していたとはいえ力不足を痛感すると、焦りばかりが強くなる。
本格的に動きだしてさほど日も経たない頃、マーガレットのパソコンに一通のメールが届いた。差出人は、競馬界ではそこそこ名の知られた評論家ニック・テイラーだ。
メールは「南アフリカの名馬に興味があれば」というタイトルで、有力者を紹介したいという内容だった。
テイラー氏とは、とある立食パーティーで一度だけ会ったことがある。でも、そのときはまだ、自分が起業するなんて話はしていないはず……。
「わたしのことをどこで知ったのかしら?」
唐突な気がしたが、内容的にはそそられる。マーガレットはしばし考えたのち、彼のメールに返信した。すると、テイラー氏からすぐに連絡がきて直接会うことになった。
数日後、マーガレットは指定されたホテルのロビーでテイラー氏と待ち合わせた。
彼の隣に座る、大柄な赤ら顔の男がその有力者だろうか? 右頬のほくろと並ぶ、大きめのあざが目に入った。
彼女に気づいて手を振るテイラー氏は、満面に笑みをたたえている。
挨拶のあと「わたしが情報を求めていることをよくご存じでしたね」と続けるマーガレットの声はまだ、けげんそうだ。
「なに、この世界は案外狭いものです。あなたのお仕事にかける情熱が、おのずと周囲を動かしたんでしょうな」
笑顔で続けるテイラー氏の言葉に、最近連絡をとった誰かからの紹介かもしれないと彼女は思った。南アフリカとの強いパイプができるは願ってもないことだったから……。
「さっそくですが、こちらはミスター・ジョン・マルコビッチ、わたしの友人であり、長年、南アフリカの馬の売買をしてきたエージェントでもあります。ジョン、こちらがお話ししていたミズ・マーガレット・ローパーだよ」
「はじめまして」マルコビッチ氏がマーガレットに握手を求めた。
「はじめまして、ミスター・マルコビッチ。お目にかかれて光栄です」
マーガレットはマルコビッチに、事業にかける展望を熱く語った。するとマルコビッチは、自分が南アの生産牧場と太いパイプがあることを資料を広げながらとうとうと語った。
ほどなくして彼は声をひそめ、ある二歳馬の名を挙げる。
その馬の所有者は、マーガレットも耳にしたことがある牧場主だと彼は言う。
「オーナーは、この馬がイギリスでモノになりそうなら、受け入れ先をわたしに託すと言っています。あなたなら、ふさわしい育成牧場を紹介できますか?」
マルコビッチ氏がマーガレットの顔をのぞきこんで問う。
「ええ、もちろん! 喜んでお引き受けしますわ!」
「それを聞いて安心しました。ただ、無条件に紹介するわけにもいきません。相手を信用させるだけのものがあなたにないとまずい。たとえば、これまでの実績などは……?」
マーガレットは思わず言葉に詰まった。まだ実績がない……それは紛れもない真実だ。率直にそれを認めると、先方から一つの提案が出された。
「保証と言ってはなんですが、万が一に備えてですね……」
マルコビッチ氏の提案とは、先方の牧場主に、マーガレットが信頼できる取引先であることを示す保険がいる、つまりお金が必要だというのだ。
一瞬、いやな予感がした。
だが、あとでよく検討してくれと言われて預かった書類は完璧な内容に思えた。
もちろん、帰宅後にネットなどでデータを確認してみたが、先方の牧場など架空めいた情報はなさそうだ。
とは言えこうした案件は、契約書だけでなく、コネクションの強さがものを言う。マルコビッチ氏がどれだけの力をもっているのか、それを確かめるにはいまのマーガレットには限界があった。
こんなときファハドなら、人脈の広さと資金力で調べ上げるだろう……。
マーガレットは彼のことを思い出したが、すぐさま自分の甘さを必死で打ち消した。
「いいえ、この前の種付け権のことだって、わたしがファハドに教えたのよ。もっと自分に自信をもたなくては。そう、最後は決断力よ……これをチャンスに変えなくちゃ!」
「どうだ、うまくいったか?」
「ええ、あの小娘ときたら、まったくの甘ちゃんですよ。同伴者を本物のエージェントだと信じこんだようです。きっと金を出しますよ」
そう答えるのはニック・テイラーだ。
「しかし、油断はするなよ。あの女の背後には、あのシークがいる。くれぐれも尻尾をつかまれないよう頼んだぞ」
そう言って、ニック・テイラーからの電話を切ったのはマキャフリーだった。
「ふん、あの女、この世界のこわさを思い知らせてやる」
* * *
起業の準備におわれて、しばらく足が遠のいていた実家をマーガレットは久しぶりに訪ねた。会社を辞めたことは、まだ父や兄には話せないでいた。
夜遅く帰宅し、翌早朝からレキシントン号に乗ってなだらかな丘を駆けているうちに、このところの不安な気持ちが晴れていった。それなのに、馬房に入る前の馬にブラッシングしてやっているうちに、ファハドとの出会いがよみがえってきた。
「ねえ、初めてのとき、なぜあんな男の言いなりになんかなったの?」
レキシントン号を責めるように、つぶやいていた。その言葉は自分にも向けられている。
そんなマーガレットの言葉が理解できるのか、レキシントン号は耳を彼女のほうに傾けたまま、尻尾を軽く揺らしてみせた。
「あら、ずいぶんご機嫌がいいのね。あなたがそんなふうに幸せな顔をしてくれたら、こっちまでうれしくなってしまう」
愛馬を馬房で休ませると、預かり馬用の厩舎を見てまわった。馬房に新しい馬がいた。
でも、どこかで見たことがあるような……掲示されたプレートには「プライスレスジェム号」とある。
「え、フィリップが担当する馬じゃないの!」
驚いて、放牧場にいた兄をつかまえ事情を聞いた。そこで初めて、フィリップの厩舎でドーピング騒動があったことをマーガレットは知った。一〇日ほど前に、フィリップが管理する馬からカフェインが検出されたことを。
なにも知らなかったと驚く妹に向かって、兄が呆れ顔で言った。
「おいおい、おまえにしちゃ
「ここのところ、忙しかったのよ……それにしても、まさかフィリップが?」
「まさか。ま、競走馬の世界は隙あらば相手をつぶしあう世界だ。おそらくどこかのよこしまなやつが、フィリップの好成績をねたんで仕組んだんじゃないかな。もっとも、なんの証拠もないから手の打ちようもないし」
「それで、どんな処分が出たの?」
「ああ、一カ月の出走停止処分だ。それもあって、しばらくプライスレスジェム号を休養させたいというのでファハドさんがうちに預けてくれたんだ。あくまで一時的なことだけどね」
「じゃ、社長はここに来たの?」
声が裏返りそうになる。
「いや、馬を運んできたのはフィリップだ。社長とは電話で話しただけだよ。おまえと同じで、会社が多忙で時間がつくれないとのことだった」
「そう……」
「そういえば、それよりも前に、おまえが牧場に来てないかと電話で聞かれたこともあったな。あれは、なんだったんだ?」
ロバートがマーガレットに尋ねた。
「あら、なんだったのかしら? そんなことより、フィリップは大丈夫なの?」
マーガレットはあわてて話題を変えた。
「けっこうこたえたみたいだな。あとでちょっと、なぐさめにいってやれよ。でも、そんなに忙しいんじゃ、無理じいはできないが」
「ううん、大丈夫よ。じゃ、あとで顔を出してみるわ」
会社を辞めたなんて、とても言えなかった。
フィリップは、マーガレットが心配して厩舎を訪ねてくれたことに感激した。
「犯人に見当はついているの?」マーガレットは尋ねた。
「いや。たとえ見当がついたとしても、証拠がなけりゃ告発できない。一度受けた処分が取り消される見込みもないし。今後はもっとセキュリティを厳重にするしかないよ」
心なしか重苦しい空気に包まれた厩舎の敷地内を歩きながら、これまでの経緯を話してくれたフィリップは、アスコットで再会したときとは別人のようにしょげきっていた。
処分が軽いほうだったとはいえ、ひとたび落ちた信用を取りもどすのは並大抵ではない。実際に、馬を引き上げると言ってきた馬主もいたという。
せめてもの救いは、プライスレスジェム号がいずれ戻ってくることだった。
「さっき馬房をのぞいたけれど、落ち着いていたわよ」
「テルフォードおじさんやロバートには面倒をかけてしまったな」
「フィル、そんなこと気にしないの。父さんも兄さんも、あなたの味方なんだから!」
マーガレットは思わずフィリップの肩に手をかけて言った。
「ありがとう。でも、マギーはどうなんだ?」
「え、わたし?」
「そう、きみは、味方でいてくれるのか?」
フィリップは大きな手を彼女の手に重ねて言った。
「ねえフィル、わたしはいつだってあなたの味方よ」
「……なんだか、マギーがずいぶん遠くにいったみたいな気がしてさ。ほら、この前のアスコットじゃ、まるで別世界のひとみたいだった」
「ああ……あれは、あくまでも仕事のためよ」
あわてて取りつくろうマーガレットに、フィリップが突然真剣な眼差しを向けた。
「そうか。こんなときに話すのもどうかと思うけれど、ずっと前からマギーに言っておきたかったことがある」
「なんなの? 急に」
「一緒に、厩舎の経営をやっていかないか?」
「フィル、どういうこと?」
フィリップは一瞬ためらったが、思い切って続けた。
「つまり、ぼくと一緒に人生を歩んでいかないか、ってことだよ」
「それって、もしかしてプロポーズしているの? このわたしに?」
「そうだよ。ぼくならマギーの人生の最良のパートナーになれると思う」
「結婚なんて……まるで考えていなかったわ。だってわたし、まだ自分の夢をあきらめたわけじゃないのよ」
「もちろん、わかってる。事業をやるのだって、ひとりよりふたりのほうがいいだろう? ぼくならいろいろときみの力になれるよ」
「フィル……気持ちはうれしいわ。でも、そんなことを急に言われても……」
「返事をせかしたりしないよ。大事なことだ、よく考えてほしい。ぼくは本気だ」
重ねた手をそのままにマーガレットの手を包みこんでおろし、フィリップはもう一度言った。「本気だから」
幼なじみの突然の申し出に、マーガレットはすっかりうろたえてしまった。
そこへ突然、一台のジャガーが敷地内に走りこんできた。
マーガレットははっとして立ちつくした。
ふたりの目の前で急停車したジャガーからおりてきたのは、怒りに満ちた形相のファハドだった。
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