#11 婚約していたなんて!

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ふたりだけの熱い夜を過ごしたマーガレット。だが目覚めれば、ファハドはナディールに旅立ったあと。彼が担う重要な使命など知らないマーガレットのもとに、ある朝、衝撃的なメールが届いて……。

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「なるほど……カサンドラがそんなことを……それは困ったことになりましたね」

 長老からの緊急連絡だとして、ファハドは真夜中に起こされていた。

 あのカサンドラが急きょ帰国して、ファハドと結婚させてほしいと長老に訴えた。

 当然ながら、許さなかった長老に腹をたてたのか、彼女はその翌日、「ファハドと結婚できないのなら砂漠で死にます」と書き置いて、姿を消してしまったというのだ。

 カサンドラの両親が涙ながらに長老に訴えてきたという。

「あれは、いったいどこまでわがままなのだ……。死ぬなどと安易に口走ったものの、そんなことができるはずがない」

 そのうち根を上げてすぐに顔を出すだろう、いつものことだ……と、長老のサシャークは最初はとりあわなかった。

 だが、二日経ってもカサンドラは帰ってこない。

 そして、なんといっても長老にとってかわいい孫娘のことだ。万が一のことがあってはならない。

 砂漠には、敵対する部族の商隊も行き交っている。捜索隊を出す一方で、長老は部下に指示を出したのだ。

「テレビ電話でファハドを呼び出してくれ」と。


 ファハドは、テレビ電話の前ですっかり頭を抱えた。

 これまでカサンドラには、一度たりとも結婚をほのめかしたことはない。ましてや許嫁であるはずもない。

 そもそも彼女が欲しがっているのは権力者の妻という立場と、存分に贅沢をさせてくれる財力なのだ。そんな、欲望をむきだしにするカサンドラを妻に……と考えたことは一度もない。

 だが長老の孫娘である以上、ぞんざいに扱ったこともない。

 一族を率いる者として大切に応対していたのが、こんな事態を引き起こすことになるとは。ファハドは深く息をついた。

 これまで結婚というものに、夢など抱いていなかった。

 いつか結婚する妻とは、一族になんらかの利益をもたらす結びつきであればよい、くらいに思っていた。

 ……そう思っていたはずだった。

 いま、彼の寝室では、マーガレットが静かに寝息をたてている。

「わが孫ながら、おまえを煩わせてすまないと思っている。なに、すぐに見つかるだろう。だが、おまえには一応報告だけはしておこうと思ってな……」

 その言葉とは裏腹に、二日間手を尽くしてもカサンドラが見つからなかったため、サシャークは憔悴しきっている。

 長老を気づかい、ファハドは思わずこう答えていた。

「これからすぐに、彼女を捜しに向かいましょう」


 すやすやと眠るマーガレットの額に軽くキスをすると、ファハドは声に出さずに詫びた。

「おそらくカサンドラの狂言だろう。とはいえ、長老の名誉は守らねばならない。すまない」

 寝室を出たファハドは、プライベートジェットがすぐ離陸できるよう、専属のパイロットに連絡を入れた。


 ここはいったい……。

 朝の日射しに目覚めたマーガレットは、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。だが、なにも身につけていないことに気づき、はっとした。

 ああ、わたしったら、なんて大胆なことを……。

 ファハドの甘くやさしいささやき声、全身をくまなく愛撫してくれた指、そして舌の感触。そのどれにも素直に、そして大胆に反応してしまった自分を思い出して、思わず体が熱くなる。

 けれども、隣を見るとベッドはからっぽだった。ファハドの姿はどこにもない。

 シャワーでも浴びているのかしら? そう思いながら寝返りを打つと、ふたたびまどろみはじめた。


 次に目を覚ましたときには、自分が部屋でひとりきりだということを確信した。

 置いていかれてしまったのだろうか……不安にかられながらも慌てて身支度を整える。

 そこへノックの音が響いて、マーガレットはびくっとした。

 てっきりファハドだと思って笑顔でドアをあけると、そこに立っていたのはファハドの執事、トマスだった。思わず顔が赤くなる。

「おはようございます。朝食の用意ができておりますが、お部屋までお持ちしたほうがよろしいでしょうか?」

「え? ああ、ありがとうございます……あの、ファハドは?」

「ご主人さまは急きょナディールへお帰りになることになりまして、未明のうちに飛び立たれました。あなたさまには、くれぐれもお詫びしておくよう申しつかっております」

 トマスがそう告げると、すぐに侍女が朝食をワゴンにのせて運んできた。

 典型的なイングリッシュ・ブレックファースト。シリアルと盛りだくさんのフルーツ、ポーチドエッグ、ソーセージにベーコン、トースト、マーマレード、そしてもちろん紅茶はポットでたっぷり。

「コーヒーをご希望でしたらすぐにお持ちします。では、どうぞごゆっくり。お済みになりましたら、わたくしどもの車でご自宅までお送りいたします」

 そう言ってトマスは部屋を出て行った。ひきつづいて退室しようとした侍女が、意味深な視線を向けたことに、マーガレットはまるで気づいていなかった。

「急に帰国してしまうなんて……いったい、なにがあったのかしら?」

 ずらっと並んだ朝食を前に、マーガレットはすっかり食欲をなくしていた。急にコーヒーが飲みたくなり、侍女にお願いできるか部屋のドアをあけてみた。

 すると、長い廊下の隅で誰かと小声で話す侍女の声が聞こえてきた。

「……なに言ってるの、あんな女がご主人さまの結婚相手なわけがないじゃない……せいぜい、第二夫人におさまるのが関の山。やっぱり第一夫人はカサンドラさま……」

 とっさに自分が噂されているのを察したマーガレットは、ドアをそっと閉めるしかなかった。


   * * *


 週があけて、またいつもどおりのウィークデイが始まった。

 あれから自宅に戻ったマーガレットのもとにも、ファハドからはなんの連絡もなかった。わけがわからぬまま早朝に出勤したが、やっぱり社長室にもファハドの姿はない。

 自分の席につき、真っ先にメールをチェックした。

 ファハドからのメールがきている。急いでメールを開いた。すると……


 〝急な帰国はカサンドラとの婚約式のためだ。

  きみとのことが誤解されないよう、独身生活に終止符を打つことにした。

  ファハド〟


 一瞬、マーガレットは頭のなかが真っ白になった。

 谷底に突き落とされたように心臓が沈みこむ。と同時に、怒りもわいてきた。

 わたしってなんてバカなの!

 もちろん、彼には将来を約束したひとがいるのはわかっていた!

 でもあの瞬間、わたしはヘンな魔法にかかってしまった……。

 たぶんファハドもそうだったはず。

 でなければ、あんなにふたりで燃え上がったりしない……。

 だけど、あの一夜は、ファハドにとっては戯れにすぎなかったというの?

 こんなの、ひどすぎる!


 ふと、デスクのわきに積まれた、きょうの朝刊に目がいく。情報収集のためにスタッフが朝いちばんで届けておいてくれる、主だった新聞が揃っている。

 なかにはイギリスの社交界ネタを得意とするタブロイド紙もある。その一紙に衝撃的な見出しが躍っていた。

〈砂漠の王国から来た馬主、ついに結婚!〉

 ファハドの婚約をスクープしたと得意げに書かれている記事だった。

 マーガレットは、寒くもないのに震えを感じ、自らを抱きしめた。

 心が通じあったと思った相手が、ごく当然のように結婚話も進めていたとは……。

 もっと悪いのは、相手がいると知っていて彼を愛してしまった自分だ。

 そう、わたしはファハドを愛してしまった! 

 マーガレットは、そんな自分が許せなかった。腹立たしかった。

「もとはと言えば、親切にされてすっかり舞い上がってしまったせいだわ。冷静に考えれば、こんなことになるとわかっていたはずなのに……」

 誰もいない室内をぐるぐると歩きまわる。自業自得とは言え、彼を思う気持ちを急に振り切ることはできない。めったにひとを好きになったことのないマーガレットにとって、初めてとも言える恋だ。そして、こんな気持ちのままで、ふたたびファハドの下で何事もなかったかのように仕事をするなんて……無理だ、ぜったいに!


「あの女、このメールを読んで、心臓がとまっちゃえばいいのに……」

 ディスプレイの前で不敵な笑みを浮かべ、カサンドラがつぶやいていた。

 マーガレットが受け取ったメールは、カサンドラの仕業だったのだ。

 彼女は以前から、自分に味方する使用人をファハドの屋敷に送りこんでいた。

 自分ひとりで彼の動向を探ろうとしてもタカが知れている。彼の関係先に密通者を送りこんでおけば、彼に接近しようとする女の存在にいちはやく気づける。

 もちろんスパイたちには、たっぷり報酬をはずむ。だからこそ、これまで要注意の女が現れたら、ファハドが気づく前に追い払うことができたのだ。

 ただ、今度ばかりは勝手が違った。

 これまでなら、ファハドのほうにはその気がまるでないのが幸いだったけれど、いま彼のマーガレットを見つめる視線は、カサンドラの気持ちを激しくかき乱した。

 どんな手段でもいいから、はやく手を打たないと、取り返しがつかなくなると思ったのだ。

 だから、侍女のひとりから、ファハドのレストハウスでの様子が報告されてくると、すぐに行動に移した。

 ファハドがロンドンを出発したことを知るや、マーガレットに偽装メールを送っておいた。もちろん、前もってマーガレットのアドレスは入手していた。

 懇意にしている新聞記者に、スクープ記事を書かせたのもカサンドラの差し金だった。


 かたやマーガレットは、ファハドのプライベートアドレスを知らないせいで、ファハド本人から送られたメールだとすっかり信じてしまったうえ、タブロイド紙のスクープ記事に動揺しきってしまったのだ。

 やはり合併が決まった段階で、会社を離れるべきだったんだ。それなのに欲を出して、社長秘書の辞令を受けてしまった。

 なんて、浅はかだったんだろう……。

 マーガレットの心は揺れに揺れた。

 このままファハドに会わずに会社を辞めたりしたら、無責任だと責められても仕方ない。でも、ファハドも理由を察するのでは?

 ダメダメ……恋愛感情を仕事に持ちこむ女だと思われるなんて不本意だ。

 けれども、もう一度ファハドの顔を見て、自分の心を抑えて仕事をすることなどできない……。


 翌日、マーガレットは体調不良を理由に会社を欠勤しようかと考えたが、公私混同することを自分に許すわけにはいかない。

 無理にでもベッドからいでて出勤した。ただし、昨夜のうちに退職を伝える旨を手紙にしたためてはいたが……。

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