#09 夢をかなえるために大事なことは?

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レースの熱狂と興奮に酔いしれて、マーガレットは思わず自分の夢をファハドに語っていた。彼女の馬への情熱に感じ入るファハド。ふたりの距離はぐっと近くなる。そして、怒りに燃えるカサンドラが打った手は……。

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 マーガレットは、強い視線に気がついた。

 ファハドにあやしい儲け話をもってきた先ほどの男が、とがめるような視線を自分に向けている。

 ひょっとしたら、わたしの意見でファハドが心を変えたことに気づいたのかもしれない。だが、マーガレットはこの世界の住人ではない。二度と会うことなどないだろう。

 そう思い、気づかないふりをしているうちに、男の姿は消えていた。


 レース後、マーガレットとファハドはバースペースに座り、馬の勝利を祝ってシャンパンで乾杯した。

「……それにしても、わたしをだまそうとするなど、いい度胸だ。マーガレット、きみは乗馬だけじゃなく、競馬界の事情にもずいぶんとくわしいようだが?」

「日ごろから集めていた情報が役に立ってよかった」

 マーガレットがシャンパンを口に運びながら言う。ほんのり頬が染まっているのは、初夏の日差しを浴びたせいでも、シャンパンのせいだけでもない。どこか高揚する気持ちになっていた。

「それもこれも、夢を実現するためで……」

 少し酔った勢いで、つい口にしてしまう。

「競馬界のビジネスに興味があるのか?」

「ええ、少し……」

 本当はすごく。

「夢と言ったが、どんな夢なんだ?」

 ファハドの顔がぐっと近づいてきた。

 黒い瞳に射抜くように見つめられると、ごまかしは許されないという気がした。

「いつか、世界中の優秀なサラブレッドをイギリスはもちろん、ヨーロッパじゅうに紹介する仕事をしたいと考えているの」

 気づくと、誰にも打ち明けたことのない夢を語っていた。

「たしかに最近は、南アフリカや日本で優秀な馬が生産されていると聞いている。つまり、コーディネーターとして独立したいというのか?」

 ファハドが問いかけると、マーガレットが小さくうなずく。彼は続けた。

「きみならよくわかっているだろうが、そう簡単なことじゃない。この世界はまだまだ男尊女卑だ」

「もちろんわかっているわ。でも、わたしはそれを追いかけたいの」

 否定されたような気がして、反発の目を向けるマーガレット。

 その意志の強い瞳を見て、ファハドが片頬でにやりと笑った。

「だが、夢をもつことは大事だ。男だろうが女だろうが関係ない。大事なことは、あきらめずに夢をもちつづけることだ。そのための努力を惜しまないこと。それを忘れなければ、必ず夢はかなう……ただし――」

 生まれつきすべてに恵まれているシークに、ちっぽけな夢だと笑いとばされるんじゃないかと身がまえていたマーガレットは、真剣に話を聞いてくれたことに驚いていた。

「――夢をかなえるために大事なことを一つ教えよう」

 ふたたび、いたずらっぽい目を向けてきた。

「それは、ひとの言うことに素直に耳を傾けるということだ。きみにはそれが、少し欠けている」

「ご忠告ありがとうございます。以後、心して耳を傾けるようにするわ。ああ、それより次のレースが始まってしまう。バルコニーへ急ぎましょう!」

 気がつけば、今度はマーガレットのほうがファハドの手を引いていた。


 もともと馬が大好きなマーガレットは、アスコットの独特の雰囲気にすっかり魅了されていた。ファハドの言葉に気を許し、いつのまにか起業の具体的なプランを熱心に語っていた。

 そしてファハドもまた、馬のことをいきいきと語るマーガレットにすっかり魅せられていた。

 日ごろは常に決断を求められ、事業にも祖国のことにも追われている。だが、馬のこととなると話は別だ。

 馬の素晴らしさは、わが祖国ナディールの民族がいちばんよく知っている。そういう自負をもって馬と接してきた。

 世間では、競争馬を持つことは金持ちの道楽にすぎない、あるいは投機の対象にしか見ていないと言うだろう。

 たしかに、そんな馬主もいる――だが自分は違う。自分は純粋に馬が好きなのだ。馬は美そのものなのだから。

 そして自分と同じように、こんなにも馬を愛する女性がいたことが、ファハドは心の底からうれしかった。

 ファハドは、マーガレットにこう伝えた。

「わたしはこの五日間、馬主としてアスコットに滞在する。だが、きみにはまた明日からしっかり仕事をしてもらわないといけない」

「もちろんです。きょう、ここにこられただけで十分楽しかったわ、本当にありがとう」きらきらとした瞳でマーガレットが答えた。

「そう言ってもらえると招いたかいがあるというものだ。だが、ロイヤル・アスコットの最終日は土曜だ、その日にぜひまた来てくれ。土曜なら丸一日たっぷり楽しめる」

「ホントに?」

 マーガレットも、こんなに素晴らしい時間があまりにも名残り惜しかった。だからつい、喜びの言葉が転がりでてしまった。

「それでは、お言葉にあまえてぜひ……」

 はじめのためらいが消え、マーガレットは天にものぼる気分だった。

 超一流の馬を間近に見て、そして馬についてファハドと語ることが、こんなにも楽しいなんて!

 でも、このひとはいずれ、ナディールの女性と結婚するのよ! 心の片すみで警告の声がした。

 もちろん、そんなことはわかっている。決して彼のことが好きになったわけじゃないわ。未来の仕事のためよ……。

 マーガレットは、警告の声が聞こえなかったことにした。


 翌朝。

「なんなの、あの女!」

 カサンドラはベッドまでメイドに運ばせた新聞を怒りにまかせて床に投げ捨てた。

〝シークはイギリスの美女がお好き?〟〝新恋人か? 話題のシークと謎の美女〟

 新聞に躍る見出しの横には、ファハドと、そして美しく変身したマーガレットが写っていた。この、あまりの変貌ぶりには、たとえ家族であっても気づかないだろう。

 だが、カサンドラは気づいていた。

 あの女は、ファハドの新会社設立パーティーでこそ地味なスーツに身を固めていたが、実ははっとするほど美しい顔立ちだということに。それと同時に、彼女の心のなかで、緊急警戒警報が大音響で鳴り響きつづけていたのだ。

 ファハドの秘書に抜擢されただけでも、カサンドラにとっては許しがたい事態だというのに、こんなかたちでふたりのことが公にされたら、わたしの立場はどうなるの!

「なんとかしなくちゃ……」カサンドラはぎりぎりと爪を噛みつづけるのだった。


   * * *


 ロイヤル・アスコット初日からさらに二日後。

「おじいさま、ただいま帰りました。ご機嫌はいかがですか」

「おお、カサンドラ。どうした? アスコットはまだ終わってないはずだが?」執務机からサシャークが顔をあげた。

 カサンドラにとって、散々なイベントとなったロイヤル・アスコット。

 初日のファハドの態度に彼女はすっかり逆上し、取り巻きも振り捨ててナディールに戻ってきたのだ。

 イギリス滞在中は最新流行のファッションを追いかけているカサンドラも、さすがに故郷に戻ったときは別だ。

 申し訳程度にスカーフと長袖姿、まして祖父の前では彼女なりに精いっぱい地味な服装を心がける。自分が祖父のお気に入りであることを彼女は十分自覚しているから、そこは手を抜いたりしない。

「実は、ちょっと困ったことが……おじいさまにご相談したくて、急いで帰ってきたのです!」

「困ったこととは、はて、なにかな?」

 孫娘にはあくまでもやさしい長老の言葉を受けて、カサンドラはおおげさなくらい感情的に、ファハドが女の秘書を特別扱いし、秘書もまたファハドにとりいろうとしていると訴えた。

「このままでは卑しい身分の女にファハドが騙されてしまいます。ねえ、おじいさま、どうか一刻も早く私たちを結婚させてください!」

「カサンドラよ、前々から言っておるが、おまえのように甘やかされて育った娘には、ファハドの伴侶は荷が重すぎる……わしがこの国でおまえにふさわしい夫を見つけてやるから、ファハドをあきらめ、国に残っておとなしく花嫁修業を積むがよい」

 いくらかわいい孫娘とはいえ、わがままが過ぎるカサンドラのことを、サシャークはファハドの妻にふさわしいとは思っていない。

「おじいさま、あんまりです! こんなにもこの国と民のことを思っているわたしなのに」

 カサンドラは当然ながら納得しない。ここぞとばかりに泣きながら訴えた。

「カサンドラよ、わたしはふさわしいものにふさわしいものを与えるのが務めだ。そうでなければ部族はおさめられない」

 そう言うとサシャークは執務机に視線を戻し、話は終わったとばかりふたたび仕事に集中しはじめる。

「おじいさま……」いかにカサンドラであっても、こうなっては祖父に話しかけることもできない。ぎりぎりと奥歯を噛みしめる。

「いいえ、そのご判断がまちがっていると、命にかえても証明させていただきますわ」

 不吉な言葉を残し、カサンドラは長老の部屋をあとにした。

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