#07 手を取りあいウィナーズサークルへ!
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ファハドのエスコートで、マーガレットはおそるおそる社交の場へ歩を進める。
誰が見てもまぶしいカップルの姿に、カサンドラは怒りの視線を向けていた。
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ひといきれ、そして慣れない高さのハイヒール。
マーガレットは気を失いそうなほど緊張していた。
初夏らしい日差しの下、アスコットの鮮やかな芝地に映える、色とりどりのドレスで着飾ったレディたち、ともにエスコートするジェントルマンたちが談笑するなか、ファハドとマーガレットは、腕を組んで歩みを進める。
驚くほどしっくりなじんでいる彼の筋肉質な腕と、頼りなげに添えられた彼女の手。
マーガレットの緊張がファハドにも伝わってくる。
「おい、大丈夫か? 顔がこわばっているぞ」
「大丈夫です。ただ、足元が少し……」
顔は前を向きながらも、かたい声で返すマーガレット。
「もっと気を楽にしろ。それとも怖いのか?」
「そんなこと言わないで」
きっとなってファハドを見ると、からかうような笑顔を見せている。
「ただでさえ、まわりの視線が痛いくらいなのに」
そう言い返したところで、気持ちが落ち着いてきた。
ふたりは、周囲が見とれるほど美しく目立つカップルだった。
エキゾチックな正装のファハドが人々の目にとまり、次に、その男がいまや飛ぶ鳥を落とす勢いの実業家だということに男たちが気づく。
ほぼ同時に、かの有名な独身でリッチなシークだと女たちも気づき、その視線はおのずと隣へ移り、「あの女はだれ?」というささやきが交わされる。
カメラマンたちも、すかさずふたりの写真を撮りはじめた。
ファハドと軽く会釈しあうだけですれ違うひともいれば、気軽に声をかけてくるひともいる。
「おや、きょうはお美しいレディとご一緒で。ところで、馬の仕上がり具合はいかがですかな?」
「ええ、すべて順調ですよ。あなたの馬も調子がよさそうですね」
今回ファハドは、ロイヤル・アスコットに「プライスレスジェム号」はじめ、数頭を出走させることになっていた。
イギリスの競馬関係者にとって最も栄誉ある舞台と言えば、なんと言っても同じ六月に開催されるダービー(同じニューマーケットのエプソン競馬場)だが、やはりロイヤル・アスコットの雰囲気は独特で、晴れ舞台なのだ。
「おたがいよい一日にしたいですな。では」
「では」
馬主同士はあたりさわりのない会話を済ませた。ここは勝負の世界、余計なことを言わないのが暗黙のルールだとマーガレットは推測した。
いったい、これからだれに会うのだろう。
いまはただ、はやくレースが始まってほしいと思うばかりだった。
すっかり舞い上がっているマーガレットの手にファハドが力をこめたので、彼女ははっとした。
「なんでしょう?」
マーガレットの問いかけに、ファハドは視線を前に向けたまま小声でささやいてきた。
「いいか、しっかり前を見ろ。管弦楽団の前のテーブルに白髪の紳士がいるだろう? あの紳士はドイツの運輸王アルベルト・ボームだ。ユーロ圏を牛耳っている。彼は馬主でもあり、そしてなによりGエクスプレス社の大陸進出の足がかりをつくるうえで、懇意にしておきたい相手だ。あの男をよく覚えておいてくれ」
「わかりました」
そう答えて、前方で談笑する紳士の姿を目に焼きつける。その真摯な眼差しに、ファハドは笑みを浮かべて言った。
「どうだ、覚えたか? 彼はめったにマスコミに姿を見せない。だが、これからどんな会合でも、姿を見かけたら接近したい」
「ええ、大丈夫。ひとの顔はすぐに覚えられるので……」
隣で談笑している女性の姿もしっかり覚えておこうと、マーガレットは見つめた。
「よし、それを聞いて安心した。今回の仕事はこれで終わりだ」
「え、これだけ……?」
「そうだ。仕事はこれで終わりだ。ここからは、存分にロイヤル・アスコットを楽しもう」
ファハドは晴れやかな笑みを浮かべた。
マーガレットはあっけにとられていた。そして、そのとき気がついたのだ。これがファハドなりの「お礼」だということに。
ファハドの策略に半分腹が立ちながらも、青空と初めてのロイヤル・アスコットはマーガレットを笑顔にした。
そうよ、二度とないこの機会を存分に楽しもう!
もちろん、将来の夢のためにもきっと役立つはずだわ。そう思うと、ファハドの腕に添えた手に力が入った。
笑みを浮かべたファハドが振り向く。そこには目を輝かせたマーガレットがいた。
ファハドは一瞬見とれると前に顔を向け、ふたりで芝生へ向かって行った。
午後になると、ロイヤルファミリーが馬車数台を連ねて競馬場に姿を現した。開催初日のセレモニーが行なわれると、ほどなく第一レースが始まる。
最終レースのスタート予定は五時半過ぎで、そのあとは音楽隊と合唱隊に見送られての退場、これで一日が終わる。これが五日間続くのがロイヤル・アスコットだ。
とは言っても、セレブたちが毎回レース結果に一喜一憂しているわけではない。
ここはあくまで社交の場。管弦楽の生演奏をBGMに、よく冷えたシャンパンやワインを飲み、有名レストランによるケータリングの料理をつまみながら噂話に興じたり、ときおりレースに声援を送ったり、場内にある高級レストランからサーブされるフルコースに舌鼓をうったり、気ままで楽しい初夏のひとときをすごすのだ。
だが、ファハドにとって今回は真剣勝負の場だった。持ち馬の勝利が馬主にとって最大の喜びだ。
この日は、メインレースにプライスレスジェム号が出走することになっていた。スタート前の予想では、去年の勝利馬が一番人気、プライスレスジェム号は三番人気だ。
レース開始を告げるファンファーレが高らかに鳴り、出走馬がすべてゲートにおさまる。
ゲートが開き、全頭そろってきれいなスタート!
ダントツの一番人気だった馬はコース中盤で早くも馬群から抜けだし先頭に立つ。このまま逃げ切るかと思われたが、スタート時は後方についたプライスレスジェム号が最終コーナー手前からじわじわと前に出て、ゴール手前で先頭にいた馬を見事に差し切った。
「やった!」とファハド。
「やったわ!」とマーガレット。
勝利の瞬間、ふたりはそろって歓声を上げて立ち上がり、思わずきつく抱きあっていた。
はっとして、離れるふたり。
「さあ、戻ってくる馬と騎手をねぎらいに行こう!」
ほどなくファハドは、マーガレットの手をとりウィナーズサークルに向かった。
重ねた手は、さっきまでとは打って変わって、ごく自然なものになっていた。
「もう、どうしてこうなっちゃうわけ!」
カサンドラは、混雑するロイヤル・エンクロージャーのエリア内で、ファハドとマーガレットが手をとり堂々と歩く姿を遠くに見つけて、地団駄を踏んでいた。
ファハドに自分の魅力を見せつけようと大勢の取り巻きを連れてきたのがあだとなり、ファハドのところまでなかなかたどりつけなかったのだ。
場内でまんまと迷わせたと思っていたマーガレットは、いつのまにかファハドのもとにいて、見事なレディに変身していた。
それも腕まで組んで……。
そして、なんと持ち馬が勝った瞬間、ふたりは抱きあっていた!
まるで、あの女と付きあっているようにしか見えないじゃない!
イライラと視線を向けながら、カサンドラは人波を押し分けて進んだ。
しかも遠目からでもファハドがマーガレットを見つめる目は、あきらかにこの前のパーティーのときとは違っている――。
ようやくふたりの前にたどりついたとき、カサンドラは我慢できずにマーガレットに詰め寄り、氷のような声で言い放った。
「あなた、用事が済んだらもう帰っていいのよ」
すかさすファハドが口をはさんだ。
「なにを言っているんだ、カサンドラ。彼女はきょう一日、ここにずっといてもらう。彼女は私が招待したのだから」
「ファハド、こんな日にまで仕事をしなくてもいいでしょう?」
ファハドには媚びた声を出すカサンドラ。
「ああ、もちろん仕事は終わっている。彼女に楽しんでもらうために招待したんだ。失礼な言い方はよすんだ、カサンドラ」
ファハドがたしなめたことで、カサンドラはすっかり逆上してしまった。
「ファハド、そんな言い方ってないわ! ホントに後悔することになるわよ!」
彼女は吐き捨てるように言うと、なんとか落ち着かせようとする取り巻きの男たちを振り払って、アスコット競馬場をあとにしてしまった。
このままではいけない。すぐにあの女からファハドを引き離さなくては。
「こうなったら、おじいさまに直接訴えるしかないわ……」
カサンドラはきつく唇を噛みしめていた。
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