#06 ファハドからの意外な招待状

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マーガレットのもとにイギリスの社交界の人々が集う、アスコット競馬場への招待状が届く。てっきり仕事の呼び出しだと思った彼女は、ファハドによって見事なレディに変身する。

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 ロイヤル・アスコット競馬の開催前夜。

ロンドン市内のフラットに住むマーガレットのところに訪問客が現れた。

「夜分に失礼いたします。わたくしはファハドさまの執事をつとめるトマスと申します。ご主人さまからこれを直接お届けするように申しつかってまいりました。恐縮ですが、この場で内容をご確認いただけますか」

 いかにも執事といった風情のトマスなる人物が、そう言って彼女に手渡したのはGエクスプレス社の印章がおされた封書だった。

 けげんな顔でマーガレットが開封すると――。

「業務上の緊急確認あり。明朝アスコット競馬場まで来られたし」

という指示が書いてあった。

そして封筒の中には、ロイヤル・アスコット期間中の特別パス(区域内入場許可証のようなもの)が同封されていたのだ。

「あの、競馬場まで行かなきゃならない確認って、いったいなんでしょうか?」

「申し訳ございません。お手紙の内容につきまして、わたくしは承知いたしておりませんもので。では、明朝九時にお迎えのお車を寄こします」

 そう告げると、トマスはさっさと帰ってしまった。

「執事って、いまも本当にいるのね……それにしても、明日朝九時に車が迎えにくる、ですって? アスコットまでなら鉄道でだって行けるのに……」

 まして「緊急確認」とは、いったいなんだろう?

 マーガレットはこぢんまりしたリビングに戻って、愛用のソファに座る。

 だが突然、それ以上に重要なことに気づいてしまった。

「ロイヤル・アスコットと言ったら、国じゅうのセレブが集まる場じゃないの! ロイヤルファミリーもよ! ちょっと、なにを着ていったらいいの?!」

 ソファから突然立ち上がると、彼女はベッドルームに駆け込んだ。

 クローゼットを開けて、なかにある服を眺めて呆然とする。

「だめよ、これじゃ! 着ていく服がないわ、いったいどうしたらいいの?」

 どうもこうも、明日の朝のことなのだから、いまから服を買いにいくわけにはいかない。手持ちの服でなんとか取りつくろうしかないのだ……。

「そういえば、ロイヤル・アスコットってドレスコードがあったんじゃ? さっきのパスにはなんて書いてあったかしら?」

 急いでパスの注意書きにある「ドレスコード」の項目に目を走らせる。

「ええと、『女性のスカートは膝丈かそれ以上……ストラップレスドレスはNG……帽子は必須……ただしグランドスタンドの場合は……』ということは、観戦エリアによってドレスコードまで違うのね? いったい、わたしはどうすればいいの? これじゃ、今夜は眠れないわ!」


 翌日。

 初夏にふさわしい青空が広がっていた。

 六月はイギリスの一年のなかでも気候が安定している。この日も、これから始まるイベントを祝福するかのような、すばらしい天気になりそうだ。

 毎年六月半ばに五日間だけ開催されるロイヤル・アスコットは、競馬界のみならず、イギリス社交界の人々にとって晴れ舞台でもある。

 一八世紀当時、熱心な競馬ファンだったアン女王が王室のために開いた競馬をルーツとし、代々のイギリス王室が引き継いできた伝統のイベントだ。

 現エリザベス女王の競馬好きも有名で、毎年必ずと言っていいほどアスコット競馬場へお出ましになるばかりか、自身の所有馬が勝利して、おおいに話題になったこともある。

 そんなロイヤル・アスコットの数日間は、イギリス社交界のレディたちにとっても真剣勝負の場だ。

 とびきりのドレスや帽子で華やかに着飾り、マスコミの注目を浴びるために集う。遠方からプライベートジェットで乗りつけるセレブも少なくない。

 イングランドの上流階級のひとたちにとって競馬とは、たしなみであり、重要な娯楽のひとつなのだ。


 朝一〇時半の開門と同時に、着飾った男女が次々とアスコット競馬場内へ吸い込まれていく。

 だれもがいつもより背筋をのばし、華やぎ浮かれたような足取りだ。一般客用エリアのひとたちも精一杯のおしゃれをしている。

 なかには、やりすぎなファッションのひともいて、入場前に、むきだしの肩にかけるためのストールを渡されているひとや、帽子をもたないひとが注意を受けて係から借りたりしている。

 そうした観客たちをインタビューしたり撮影したりしようとするカメラマンや記者、テレビクルーたちも、いつもよりフォーマルなスタイルできめている。


 なんて華やかなのかしら! それに引き換え、わたしときたら……。

 前夜、さんざん悩んだあげく、マーガレットはオーソドックスな夏のワンピースを着ていくことにした。

 ストラップレスドレスなど、もともと持っていない。だが、帽子は……まさか乗馬のキャップをかぶるわけにもいかず、時代遅れは承知で、母の形見の帽子をかぶってきたのだ。

「どこをどう見ても田舎モノ丸出しだわね……でも、仕方ない!」

 アスコットはドレスコードにあわない客の入場を堂々と断れる、と但し書きがあった。万が一、追い返されでもしたら、それこそファハドから任務放棄と受け取られかねない。

「そうよ、こっちは仕事で来たのよ」

 小さく胸を張ってみる。いくらマーガレットがニューマーケットの牧場育ちとはいえ、アスコット競馬の、まして特別区域に入るのは初めてなのだ。

「ロイヤル・エンクロージャー」と示されたエリアは、選ばれたものしか入れない。

 王室関係者や長年競馬場に多大な貢献のあるひとしか招待されない、まさに「囲い込み」という区域だ。さすがにファハドは、それだけの力をもっているということなのだろう。部下にさえ入場を許可するパス(バッジ)を発行させたわけだから。

 正直に言うと、そのエリアに足を踏み入れる資格がないことくらい、自分がいちばんよくわかっている。だからつい足が震えそうになってしまうのだ。


「あ~ら、珍しいひとがいるのねえ」

 幸いにも入場を拒否されはしなかったが、ファハドに指定されたボックスまでたどりつけず、迷っていたマーガレットに、だれかが声をかけた。

 声が聞こえたほうを振り向くと、そこにいたのはカサンドラだった。大勢の取り巻きをしたがえている。

 ストラップの細さもスカート丈もコードぎりぎりのドレスが、彼女の細くて長い手足を際立たせていた。帽子のほうは、造形美を誇るデザイナーによる作だろう、日除けというよりも鑑賞物のようで、大きくウェーブをかけたロングヘアのうえにちょこんと載っている。

 若い彼女にとっては厳粛さなど関係なし、美しさと自信がなくてはとても着こなせないファッションで着飾っていた。

「ミス・アルシャハデ、おはようございます。社長がどちらにいらっしゃるかご存知ですか? わたくし、場内にくわしくなくて……」

 挨拶するマーガレットにむけたカサンドラのまなざしに、ちらりと苛立ちが浮かんだ。

「そうね、ここは、あなたみたいなひとが来る場所じゃないもの」

 トゲのある言葉を返したあと、値踏みする視線を向けた。

「それに、その服! いったい今日がどんな日か、わかっているのかしら?」

 カサンドラの言い方に内心むっとしながらも、マーガレットは自分を抑えた。

「ええ、承知しています。ただわたしは、社長から緊急の呼び出しを受けて来ただけですから」

「あら、そう……」

 なにか思いついたカサンドラ。

「ま、仕事なら仕方ないわね。あの通路を右に曲がった先に階段があるから、そこを上がればすぐにわかるわよ」

「ありがとうございます! では先を急ぎますので」

 カサンドラに礼を言ってマーガレットは駆けだした。

「ふん、せいぜい迷いなさいな。能無し秘書さん……」

 そう、カサンドラは、わざと違う方向を教えたのだ。


 完全に迷子になってしまった。

 マーガレットは途方に暮れ、華やかなひとの群れを呆然とながめていた。すると、たくさんのひとたちの向こうに見覚えのあるファハドの執事、トマスが見えた。

 あわてて大きく手を降ると、トマスが気づいてやってきた。

「よかったです、ミス・ローパー、あまりにも遅いのでファハドさまからお探しするよう申しつかってまいりました」

「こちらこそ助かりました。すっかり迷ってしまって……」

「でしたら、周囲の方にお尋ねになれば楽でしたのに」

「すみません、なれない場所で舞い上がってしまって」マーガレットはカサンドラに会ったことは黙っていた。

「とにかく、急いでまいりましょう。ささ、こちらです」


「なんだ、遅かったな。社長秘書は時間厳守が鉄則じゃないのか?」

 トマスの案内でとあるスペースに入ったマーガレットに、とがめるような声がかかった。声がしたほうを向いたマーガレットは、はっとした。そこには、シークの正装をしたファハドが立っていたのだ。

 今日はイギリス紳士の正装だとばかり思っていた。ところが目の前の彼は、白い長衣(カンドーラ)にシルクのジャケット、そしてシルクのスカーフを肩からかけている。豪華な細工がほどこされたベルトには、ナディール国での正装に欠かせない、ジャンビーアとよばれる短剣がさしてある。

 その装いは、黒い瞳とエキゾチックで凛々りりしい顔立ちをいっそう引き立て、いつにも増して彼を魅力的に見せていた。

 どこから見ても〝砂漠の国からきた王族〟だ。マーガレットは自分が呼ばれた理由も忘れて、思わず見とれてしまっていた。

 一方ファハドは、彼女の全身を容赦なくながめてから言った。

「これから重要人物と会うから、礼儀を尽くすためにも着替えてくれ」

「え? この服では問題がありますか?」

「ぐずぐず言わずに、これは社長命令だ! トマス!」

 けげんな顔をしたままトマスに案内されて別室のドアをあけると、マーガレットは思わず息をのんだ。

 そこには、最新の流行をとりいれた、品のある美しいドレスと帽子、靴、バッグ、手袋が、数点ずつ用意されていたのだ。

「すごい……」

 鏡の前で戸惑っていた彼女は、ファハド家の侍女たちにせきたてられて、あっという間に着替えさせられてしまった。メイクもプロのメーキャップアーチストによって入念に直され、髪もエレガントにセットされていく。

 完璧にセットされた頭には、アスコット競馬を観戦するレディには欠かせないエレガントな帽子。広いブリムと優雅な曲線が目を引く「キャペリン」と呼ばれる種類で、クラウン(帽子の山)には、植物を思わせる飾りがあしらわれている。不思議なことに、どのアイテムも彼女のサイズにぴったりだった。

「これが、わたし?」

 鏡の前で唖然とするマーガレット。

「さあ、お嬢さま、ファハドさまがお待ちですから、お急ぎください」

 侍女のひとりが、にっこりほほ笑んで声をかけた。


 すっかり支度を済ませたマーガレットがふたたび姿を現した。

 ファハドは、想像以上に美しく変身した彼女の姿にどきりとした。

 互いの視線が熱くからみあう。

 その瞬間、自分がこれまで女性に対して感じたことのない感情がわきおこっていることを、ファハドははっきりと自覚した。

「着るものが違うだけで、レディに見えるものだ」声に熱がこもる。

「これが緊急の業務と、どう関係があるんです?」

 毅然と返したつもりだったが、あきらかに賞賛をこめたファハドの視線を浴びていると、マーガレットは顔が熱くなり、どうしても声が震えてしまう。

「ロイヤルファミリーも出席する英国競馬界最高の日だ。ドレスコードにのっとってもらったまでだ」

 視線をはずさないファハド。

 部屋の空気が急に濃く感じられ、マーガレットは息苦しさにくわえて、全身まで熱さを感じていた。

「だが……なにか足りないな」

 ファハドはそうつぶやくと、室内に飾られた豪華な花束から真紅の薔薇を一本取り上げ、ふいに身を寄せてマーガレットの胸元に飾りつける。

「あ……」

 自分の心臓の鼓動を聞かれそうなくらいファハドが近づく。彼の体の熱を感じてマーガレットの身がすくむ。

「よし、これで完璧だ。さあ行こう」

 耳元でささやくとふいに身を離し、ファハドがすっと腕を差しだした。

 これも仕事よ。

 マーガレットは心のなかで言い聞かせ、ぎこちない動きで彼の腕に手を添えた。

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