エピローグ

 銀行員になったというと誰もが羨みすごいと褒め、多少の妬みを含んだ視線を向けながらも尊敬の眼差しで接してくれた。


 給料もよく、待遇もいい。なにより、世間からのレッテルがあった。


 そこで何をしようと、どんな人間でいようとも、この称号さえあれば柔軟に生きていけた。


 もっとも、それなりの努力と勉強に時間を費やしてきたので、それくらいの報酬があってもいいと思った。


 激動の高校生活は、もう思い出したくもないほどに痛烈な日々だった。


 銀行員として働き三年ほど経つと、保険窓口での受付に回された。保険なんてまだ入る歳でもないし、馴染みのない職種は知識もなければ思い入れもない。はっきりいって居心地の悪い場所だった。


 なにより、朝一番に山積みになった用紙を見て頭を掻く係長のふけが机の上に落ちているのが一番嫌だった。


 風呂に入ってほしいし、入らないのならそんなに掻きむしらないでほしい。


 いったい何を見ているのかと一度覗き見たことがあるが、人名と年齢、それから職業コードとなにかを表す番号だけが記載されていた。享年、と書かれていることだけは、理解できた。もうそれを見ようとは思わなかった。


 保険窓口ではどういうわけか十二時過ぎになると厄介な客が増える。


 今日も奥の応接室から怒鳴り声が聞こえてきて、お茶を出すよう言われると嫌でも顔に出る。これも練習だからと先輩に言われて、しぶしぶお盆を持つ。


 失礼しますと頭を下げると、肩幅の広い男が足を組ながら椅子にふんぞり返っていた。お茶を目の前に置くと、標的がこちらへ移る。


「おい! お前! 俺は今そうとうキレとるんや、それくらいわかれや! 茶なんて飲ませてどうするつもりや!」

「申し訳ありません」


 頭を下げると、物腰の低さを看破したかのように捲し立てる。唾が飛んでいく様を、ジッと見つめる。真っ赤になった顔に、血管の浮いたこめかみ。木の幹ほどの太さの二の腕、飛行機のエンジンのようにけたたましい怒声。まるで人を殺めたこともであるような物騒な話まではじめて、ほとほと嫌気が差していた。


 係長がこちらを心配そうに見るが、まったく意に介さなかった。


 全然怖くない。ただうるさいだけで、その言い分、もしくは触れた琴線は、すべて理解に及ぶものだった。


 こちらに落ち度があるものもあれば、あちらが必要以上に騒ぎ立てている箇所もある。話し合いでもすれば早いんだろうけど、それも通らなさうだ。


 係長は、おそらく相手に言うだけ言わせて満足したら交渉をはじめるつもりなのだろう。ならばそれにのっとって、こちらも合わせるしかない。


 男は散々怒鳴ったあと、喉が乾いたのか冷たい茶を口に含んだ。そうすると、頭の冷えたようで少し大人しくなった。この部署に移ってからマニュアルを読んだときに、クレーマーには温かい飲み物を出してはいけないとあった。なるほどこういうことか。


 単純だ。水をかけたら冷えるなんて。簡単で、理解の範囲内。それならどれだけ騒ごうが好きにしたらいい。


 定時前になると、係長が出張から帰ってきた。昼間のクレーム男の家に出向き、話し合ってきたらしい。その顔には相当な疲れが見え大きなため息が長い戦いであることを予期させていた。


「まいったなぁ、なに言っても先に怒りだしてしまう」


 やはり、ふけが落ちてきた。


 机に倒れ込んだ係長の元にベテランの上司が赴く。


「アレ、頼んじゃいます?」


 アレとは、どうしても交渉に応じない厄介な客、もしくは違約金狙いの詐欺師や、不当な保険金を受け取ろうとする企業などに解約書を届けてもらう業者のことだ。話し合いに一切応じなければこちらが先に折れる。そう思っている輩にぶつける最終手段のようなものだ。いったいどんな手口で言い聞かせているのかは知らないけど、どうせロクなものでもないのだろう。


「いや、ちょっと穏便にやりたいなぁ。なんか事情ありそうだし」

「またですかー? あの、善人ぶるのもいいですけどねーこっちの身がもちませんよ」

「それでもさぁ、あっちも困ってるみたいだし、それなりの手助けはしたいんだ」

「あれだけ怒鳴られたのに、ようやりますわ」


 呆れ果てた様子の上司と係長は、まだまだこれから仕事があるらしい。


「お疲れ様でした」


 そんな面倒ごとになど付き合っていられない。そそくさと頭を下げて、会社を後にしようとした。


「あ、ちょっと、柚原ゆずはらくん」

「なんでしょうか」


 呼び止められて、あたしは足を止めて振り返る。


「今夜これいかない? あそこの焼き鳥屋さんでさ。明日休みだし」

「いえ、今日は用事があるので。失礼します」


 今度こそ、視線を受けながら自動ドアを突っ切った。


 帰りの電車が空いているうちに帰りたい。今はもう、誰にも会いたくないし、誰の声も聞きたくないんだ。


 隣の車両で、女性と男性が言い合っているのが見えた。触った触っていない、そういう会話なのは扉越しにも分かった。


 どうも男性のほうは話し合いをしようと言っているようだけど、女性のほうは目を真っ赤にして泣き喚いている。


 ああなってしまえばもう、言葉は何も届かない。スーツを着たサラリーマンが助け船を出そうと割り込んでいたが、どうせ無駄だろうとあたしは視線を外した。


 係長も、あのサラリーマンも、何も分かっていない。


 この世には、理解できない。あたしたちとはまったく別の人種が存在する。


 どれだけ分かったつもりでいても、どれだけ寄り添ったつもりでいても、それは所詮。あたしたちの物差しで計った価値観だ。


 制服を着た女子高生が、あたしの目の前を通過していく。そのたびに、心臓がわしづかみにされるように痛くなる。


 もし生きていたら、あいつも、あたしと同い年で、もしかしたらいまだに連絡を取り合って、仕事終わりに酒を飲み合う仲になっていたんだろうか。


 もし、生きていたら。


「・・・・・・なんでだよ」


 もうずっと前の話だ。過去の記憶だ。けど、絶対に忘れられない。


 ずっと信じてた。あたしの声は届いてるって思ってた。あたしの言葉を理解してくれているって思ってた。


 けど、あいつは、あたしの声なんて聞こえてすらいなかった。


 あいつはあたしの父親と、同じ末路を辿ってしまった。


 あたしは、あいつを助けられなかった。


 それも所詮は、あたしの物差しか。


 自嘲気味に、笑う。


 あいつにとっての助けは、きっとあたしの思い描くようなものじゃない。


 父親が意気揚々とビルから飛び降りたように、あいつにもまた、別の幸せがあったのだろうか。考えるだけで、胸やけがした。


 どうしてあたしだけが歳を取って、息をしているのか。あいつとあたしの、何が違ったのか。もう、二度と分からないのだろうか。


 家に帰ると、電気もつけないままパソコンをつけた。


 時刻は二十時。丁度いい。


 買っておいた縄をベッドにくくりつけて、水を飲む。ただの水なのに、やや鉄を含んだ味がした。


 これが、死の味なのだろうか。近づいた気には、なれなかった。


「こんな世界・・・・・・」


 誰も助けられない。救いなんてない、絶望だらけの無秩序な世界。息が苦しいだけだった。


 生きたくない。なんで生きているのか分からない。あたしは、死ぬことを決意していた。


 窓から空を見上げると、星が綺麗に瞬いていた。そのどこかに、あいつや、お父さんがいるとは考えられない。


 鏡で自分の顔を見る。ひどく薄汚れていた。髪の色も抜け落ちて、化粧も適当だ。スマホが光って、メッセージを受け取る。


『今度飲みいこー』


 アイコンには子猫が二匹写っていた。相変わらず、猫が好きらしい。


 なんと返そうか悩んだけど、どうせもう会わないのだから、返信は不要だろう。スマホをゴミ箱に投げ捨てた。


 遺書も書こうと思ったが、稚拙な文章しか書けなかったのでやめた。ダサイのは、嫌いだ。


 最後くらい、謎のまま死んでもいいかもしれない。そうすれば、あたしを見つけた人間が、一生あたしを引きずって生きていく。そうやって意思というものをこの世に繋いでいくために、自殺というものはあるのかもしれない。


 自分で自分の命を断つなんて、昔は考えもしなかったのに、まさか理解できる日が来るなんて。


 こんな風に、あいつのことも理解できてあげられたら、よかったのに。


 あたしはパソコンでインターネットプラウザを開き、自殺サイトを閲覧した。参考にしようと思ったのだ。


 サイトにはいろいろな自殺の仕方が書いてあり、自殺した人の写真も貼ってあった。どこまでが本物かどうかは分からないけど、このどれかが自分の数分後の姿なのかと思うと落ち着かない。


 ふと、まとめサイトへのリンクが貼ってることに気付いて、それをクリックした。何故か、惹かれるようなものがあったのだ。


 記事のタイトルはこうだ。


『数年前の東船場姉妹母親刺殺事件って覚えてるやついる?』


 あたしは、ハッと息を飲んだ。


 下へスクロールしていくと、それぞれレスがついていた。


『なんぞそれ』

『女子高生が母親殺したあとに姉妹そろって焼身自殺したって事件。明らかな事件性とショッキングな内容でテレビでは一度しか報道されなかったけど、実際に起きたマジの事件。ちな第一発見者』

『突然の自己紹介で草』

『知ってるわそれ。てか地元やん。あれだろ、妹が母親刺したってやつ』

『なんで妹が刺したって分かるんだ? 死んでるのに』

『なんでも妹は事件前からも周りから気味悪がられてたらしい。言動がちょっとおかしかったとか』

『やっぱ分かるもんなんだな人殺すようなやつって。うちの職場にもそういうおっさんいるわ』


 マウスを握る手に力がこもる。


 やっぱり、母親を刺したのはあいつなのだろうか。


 事件を聞かされた朝のことを思い出す。


 最初は信じられなかった。だって、あいつはあたしと約束したんだ。誰も傷つけないって、約束したんだ。


 けど、学校のやつらは全員口を揃えて妹だろうと言った。警察も特に不思議にも思っていなかったようで、証言を集めたらすぐに妹が母親を刺し、その後姉と心中をはかったと報道された。 


『あの時撮った写真が残ってるから載せようと思う。さすがに時効でしょ。消されたらスマン』

『はよ』


 それから時間が経ち、まるで勿体つけるように間をあけたあと、無言で画像が張り付けられていた。


 あたしも前のめりになりながら、画像を見た。


『これマジ?』

『グッッッッロ』

『さすがに偽物でしょ』


 そこには、丸焦げに焼けた人間。らしきものが写っていた。


 らしきもの、というのは、人間の形をしているだけ、を意味する。髪の毛もなく、服も着ていない。言うなればシルエットだけが重なり合っているような状態だった。


『人間を燃やしただけじゃここまで綺麗には燃えない。よってこれは作り物』

『殺人ニキおるやん』

『怖くて見れない。誰か詳細だけ教えてくれ』

『真っ黒こげの死体が抱き合ってる。マジで真っ黒だから意外とそこまでグロくはないぞ』


 様々な憶測、意見が飛び交っているようだった。


 あたしは。


 それを見て、どうしてか。泣いていた。


 涙が止まらなかった。


 悲しいからではなかった。


 瞼が降りない。目が充血しきって、痛い。それなのに、目を閉じることができなかった。


『てか背中から伸びてるのなんだ?』

『手じゃね? 抱き合ってたっぽいけど、死後硬直で伸びたんでしょ』

『生々しいな・・・・・・やっぱり本物か? これ』

『吐き気してきた。マジで無理だこういうの』


 画像をクリックして、拡大する。


 ――日陰。


 あたしは、あんたのこと。信じていいの?


 意を決して、大きく表示された画像を見る。


 もう、黒焦げで、どちらがどちらかなんて分からないはずなのに。


 あたしには分かった。


「ああ・・・・・・」


 ため息のようなものと共に、大粒の涙がキーボードの上に落ちた。


『そうか? 俺は美しいと思うけどな』

『サイコパスおって草。ヤバすぎやろ』

『いやいや、だってさ』


 あたしはパソコンの前で泣き崩れた。


 嗚咽を吐きながら、けれど口元は、笑っていた。


 ああ、たしかに。


 美しい。


 だって、


『背中のこれさ、』


 それは、


『まるで』


 まるで、





 ――天使の羽みたいだ。

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天使の羽などもいでしまえ 野水はた @hata_hata

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