最終話
死んでほしくない。生きていてほしい。日陰は私の大事な妹だ。大事な家族だ。一緒に生きていくと誓ったのだ。
それなのに、こんな場所で、こんな奴に、殺されておわるなんて、あってたまるか。
だって日陰は、ずっと私のそばにいたのだ。生まれてから今日まで、ずっと二人で歩んできたのだ。
ハイハイができるようになって、言葉を覚えて、何も分からないまま保育園に通って、下の階で泣いている日陰を気にかけていつも教室を移動した。日陰が寂しくないようにお父さんのを迎えを待って、積み木で遊んで、日陰が作ったお城を先生に自慢して回った。
私の妹ね、すごいんだよ。って。
まだ小さいのに算数もできて、積み木を積むのが上手で、運動会ではいつも一着で、まるで自分のことのように誇らしかった。
小学校に通い始めて最初に泣いたのは私だった。授業を抜け出して保育園に行ったこともある。日陰に会いたかった。日陰も泣いてるんじゃないかって不安だった。
日陰に悲しい思いをして欲しくなかった。
卒業式では、日陰から大きな花を貰った。近くの公園から摘んできたのだという、立派な花だった。
私はいつも、日陰を置いて先に進んでしまう。振り返ると日陰が追いかけてきて、けど、その差は決して縮まることはない。時間とは、そういうものだった。
だからそれを埋めるように、私たちは家での時間を大事にした。
日陰が陸上部で結果を出してからは、毎日が煌びやかであるように感じた。並走する日陰が、私を追い越していく。時間すらも跳躍するその足は、なによりも頼もしい。
それがへし折れて、血の通わぬ死人の足になると、私の周りのすべてが変わっていった。
私はお母さんの秘密を知り、お父さんが家を出て、日陰はプレハブ小屋に軟禁されるようになった。何もかもが、離れていく。
けれど私は、日陰だけは手放さないと決めていた。どれだけ両親が自分から乖離した存在に成れ果てたとしても、どうでもいい。私より早く生まれて、私の知らない世界を生きた人間の行く末など知るものか。
私は私の、今まで歩んできた道のりだけは守りたかった。
日陰。
どうしてお母さんがそう名付けたのかは分からない。私が小春日和なのだとしたら、もしかしたら皮肉のつもりで命名されたのかもしれない。
太陽に焼き焦がされない強い力を持っているからこそ、陰というものは出来上がる。光すらも通さない、緩やかで、涼やかで、誰も傷つけない、優しい暗闇。
そんな場所を、私はずっと守りたい。
日陰、大切な人。
日陰、大切な妹。
日陰、私の愛する家族。
カポ、とペットボトルをひっくり返したような音がした。
「お姉ちゃん」
耳元で、日陰の囁く声がする。
ああ、日陰の声が聞こえる。日陰がそばにいてくれている。
なら私は、まだお姉ちゃんだ。守るからって約束したあの日の私はまだ、ここにいる。
そこにいる。
「もう死んでるよ」
開いた腹は、捌いた魚のように真っ赤だった。
ここから私たちが生まれたなんて、考えられなかった。
手を離すと、包丁が床にゴト、と落ちる。
お母さんは目を充血させて、朗らかに笑っていた。しかしそこに慈愛のようなものはなく、何枚もの三面鏡を重ねた、その最奥にいる、歪んだ姿を映し出しているかのようだった。
「私」
自分の手を見る。赤黒い血液がまだ艶やかに滴っている。
馬乗りになった太ももにはいくつもの引っ掻き傷ができていて、手首には歯の痕が付いていた。
「あれ」
ようやく、鮮明な音が帰ってくる。
聞こえたのは、荒だたしい自分の息だった。一秒に三回ほども吸っているだろうか。けれどそれは呼吸とはいえず、肺がただ痙攣しているだけにも感じた。
自分がさっきから瞬きをしていないことに気付く。それでも乾きは覚えず、むしろ潤いに満ちている。大袈裟に手は震え、直面した事実を通り過ぎ、まったく無関係のことを考えてしまう。
「ゲームしよっか日陰ゲーム。ね、ゲームほら、ゲームやろうよ」
作った笑顔は異様に表情禁を痛みつけた。奥歯が空気に触れて染みる。
日陰は体中から血を流しながら、頷いた。
「でもたくさん血が出てるね救急車呼ぶ? 私私が呼ぶよ、うん大丈夫大丈夫もう遅いから全然いいよ、本当に」
ゲームを起動して、コントローラーを握る。ロード中も、私の口は絶えず動いた。
「この画面ね懐かしいね最初ここくねって中に入るって思ったんだけど、そんなことないよねこれもできなくなるのかな。そうだよね、知ってるけどやろうよ平気だから」
日陰が屈むと、ゲーム機に血が落ちた。それでもゲームはしっかりと起動し、キャラクターを選択する。
ボタンを押す音がやたらと大きく感じた。廊下から誰かが見ている気がして私は立ち上がって、なんでもないと再び座る。
窓を全部閉めて、カーテンも閉め切った。部屋を暗くして、テレビだけつける。
昔やった、協力ゲーム。パネルを踏んで、赤に染めていく。赤、赤、どれも赤。赤に染まる。ボタンを確認するために手元を見ると、手が血に塗れている。すでに乾いてしまって。擦っても滲むことはなかった。そのかわり、皮膚に張り付くようでパリパリと剥げていく。
どうやっても無理だった。
何度試しても、どれだけ頑張っても、普段のように画面が見えない。まるで宙に浮いているような不完全な感覚が体を支配し、動きを止めることができない。
じっと正座する日陰と比べると、私の多動は一目瞭然だった。
「お姉ちゃん、どうしたの? キャラ止まっちゃってるよ?」
日陰が不思議そうに私を見る。
私にはもう、画面が見えてなかった。
「殺しちゃった」
事実をなかったことにするなんて、無理だった。
「お母さんのこと殺しちゃった」
お母さんの死体が転がる家で、ゲームをするなんて、私には無理だった。
「どうしよう」
もっと尖って歪んだ人間性を持てたらどれだけ楽だっただろう。
「どうしよう日陰殺しちゃったお母さん殺したよ私」
手が震える。痙攣なんてものじゃなかった。紐かなにかで吊るされたように、腕は左右に激しく動いていた。
そうか、私は。お母さんを殺したのか。
ついに殺したのか。
夢ならいいな。絶対に違う。
私の体を流れる血液と遺伝子が、そう言っている。
「でも、違うの。私、日陰が死んじゃうって思って。それで、死んでほしくないから、助けるためにっ」
私は、誰かを守るために肉親を殺せる人間だった。
家族を殺せる人間だった。
それは、お母さんと同じだ。
私は結局、この体を流れるものに、抗うことができなかった。
私はとっくに、狂っていたのだ。
――お姉ちゃんはわたしと同じ、悪魔だよ。
そうだね。
そうだよ。
日陰、私は肉親を簡単に殺せてしまう、悪魔だ。
そもそも、おかしいのだ。日陰の顔を、今になってみる。気付く。
歯が、ボロボロだ。顔は青あざだらけ。鼻は曲がり、唇は真紫に染まっている。
こんなの、どう考えてもおかしいのに、私は今まで、なんとも思わなかった。
これが当たり前だと思っていた。血が出るのが当たり前だと思っていた。
血を見ても何も思わない。悲惨な現状を苦としない。
私の倫理観は、どこかが欠けていた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
日陰が私を抱きしめて、呟いた。
「やっぱりお姉ちゃんは、わたしと同じだったね」
家族であるならば、同じであることが当たり前なのだろうか。
「でも、殺したのは悪いことだから、きちんと謝らなくちゃ。ほら、お母さんの前に行こ」
横たわる死体の前で、日陰が頭を下げる。
「殺しちゃって、ごめんなさい」
「・・・・・・殺しちゃって、ごめんなさい」
日陰に次いで、私も続ける。
腹が開いたお母さんの手が、一瞬動いたように見えた。けど、動くわけがない。これは紛れもない死体だ。
私が殺したのだ。
「ごめん、ごめんね、日陰」
ズン、と重い頭痛が襲う。目の奥が潰れそうなほどの痛みだった。
「お姉ちゃん、ちょっと出かけよう」
日陰は血の道を作りながら、よろよろと階段を降りていく。
コートを羽織り、外に出た。
外は暗く、すでに夜となっていた。いつのまにこんなに時間が経ったのか、不思議だった。ここにいる私は、本当に私なのか、自分という存在がひどく曖昧になる。
通り過ぎる人が全員私たちを見ているような気がした。恐ろしい。違う、私は。ぐちゃぐちゃになった感情を悟られないように、目が合った人に「こんばんわ」と挨拶をして回った。それが逆に不自然であることに気付いたのはしばらく経ってからだった。
「信号赤だね、赤は止まらなくちゃ。はい止まりました青まで待ちます」
なにか喋らないと私はこの場でどうにかなってしまいそうだった。
私の判断能力は、すでに決壊している。信号が青になると、私は手をあげて渡った。小学一年生のようだ。
「こんなはずじゃなかったの」
ついに私は横断歩道の途中で足を止めた。
「こんなはずじゃなかったのに」
私はただ、幸せになりたかっただけなのに。
私はただ、普通に生きたかっただけなのに。
「なんでこうなるの」
ぼろぼろと、涙が零れる。
「なんで私、普通でいられないの・・・・・・っ!」
後悔の波が押し寄せる。
後悔を抱くということは、私の情性は正常のはずだった。情勢欠如者ではない。そのはずなのに、どうして。
やっぱり、血なんだ。
私は狂った人間の腹から産まれ落ちた。だからどう足掻いても、狂うことは免れなかったのだ。
どう抵抗しようとも、この体を流れる遺伝子には適わない。
「ああ、あああああああっ!!」
私は空を見上げて泣いた。
ガラガラ声が、夜の町に響く。
「お姉ちゃん。泣かないで」
そんな私を、日陰が抱きしめる。
大きなコートの袖から小さな指が出て、私の頬を撫でた。
「ちょっとね、学校に行かない?」
私は日陰に付いて行き、夜の学校に忍び込んだ。
辿り着いたのは中庭で、羽虫が顔の辺りを飛び交う。
日陰はすでにおびただしいほどの出血をしているにもかかわらず、その足取りには活力を感じた。
「家族を殺すなんて、私。やっぱりおかしかったんだ」
「そんなことないよお姉ちゃん。カマキリや蜘蛛も、自分の子供や、恋人を食べるんだよ。全然、オカシイことじゃないよ」
「でも、私は、虫じゃないから。でも、人間でもないから、やっぱり」
「うん。きっとお姉ちゃんは、悪魔だよ」
日陰が石段に腰かけたので、私も隣につく。
「嬉しい。わたし、お姉ちゃんのこと信じてよかった。お姉ちゃんは、わたしと同じ。ずーっと同じ」
それは、なんとも心強い言葉だった。
この世界で、狂気に触れた人間が私だけじゃないということを知れて、ひどく安堵する。
きっとこの安心感に身を委ねてしまえば、あとは歪んで、ねじ切れていくだけで済むのだろう。
けれど私は、頷くことはできなかった。
「それは、違うよ。だって日陰は、誰も傷つけなかった。どんな辛い目にあっても、ひどいことをされても、誰かを殺そうなんて考えなかった」
「ううん、そんなことないよお姉ちゃん。わたしね、棚橋のこと何度も殺そうって思ったよ。邪魔だったし、憎かったから」
「じゃあ、なんで」
なんで殺さなかったのか、そんな愚問に、日陰は静かに答える。
「約束したんだ。誰も傷つけないって」
日陰は夜空を見上げながら、なにかを思い出すかのように笑った。
「だから、殺すのやめたの」
・・・・・・・・・・・・そうか。
「大切な人との、約束だから」
私にとっての大切な人は、きっと日陰だけだった。亮介くんとは普通を目指すうえでの工程にしか過ぎない紛い物の関係で、きっとそんな前向きなものじゃない。
私が持っていなかったものを、日陰は手にしたのだ。
それが、私と日陰の違い。
殺す者と、殺さない者の違い。
「ごめん、ごめんね、日陰・・・・・・・・・・・・」
目から水分が流れ出す。歯がガチガチと音を立て、嗚咽に混じる。
「私、日陰の未来を奪っちゃった・・・・・・。日陰はこれから、もっともっと楽しい日々を送るはずだったのに、もっともっと、幸せになるはずだったのに、それを・・・・・・私・・・・・・っ!」
凶器で解決できることなど、何一つありはしないのだ。
「ごめん日陰・・・・・・っ! 約束したのに・・・・・・一緒に幸せになろうって、決めたのに・・・・・・っ!」
もう、そんな未来は訪れない。私がすべて、この手で奪ってしまった。
「ごめん日陰、本当にごめんなさああ、ああぁ、ああ・・・・・・・・・・・・っ!」
野犬のような喚きを、日陰は優しく受け止める。
日陰はふと立ち上がり、池の前まで行くとその淀んだ水の中を眺めた。
「カエルからはカエルしか生まれないんだよ、お姉ちゃん」
日陰は、大人びた表情で私を見た。
「みんなそう。金魚からは金魚しか生まれない。ハムスターからはハムスターしか生まれない。カゲロウからはカゲロウしか生まれない。けどね、みんなそれぞれ、それで生きていくしかないんだよ。陸にあがれなくても、、檻の中から出られなくても、一週間で死んじゃう命でも、生まれ持った体で生きていくしかないんだよ」
「そんな、でも、じゃあ、私は。こうなることが最初から決まってたってこと?」
「うん、そうだよ。お姉ちゃん。ずっと前から、決まってた。生まれた時から、決まってた。だから生きている最中にどれだけ他の人に憧れても、他の動物を羨んでも、わたしたちはわたしたちの道を歩くしかない」
「じゃあ、私は、どうすればよかったの? これで、よかったの?」
「一週間で死ぬカゲロウも、百年長生きする亀も、愛した者に殺されるカマキリも、みんな、それを受け入れて死んでいくんだよ。それが自分という存在の、終わり方だから。けどね、幸せがないわけじゃないし、意味もなかったわけじゃない」
日陰は池を指差した。
「わたし、十匹のカエルを殺した。どうなるんだろうって、興味があって、簡単に殺した。それでね、なんにもならないことに気付いた。だから水槽に入ったカエルを全部池に返したの。そしたらね、いっぱいの卵を産んだよ。ほら、見える? この葉っぱについた数百個の卵、きっと、もっとたくさんあると思う。すごいよね。十匹殺したら、その倍以上に増えちゃった。わたしに殺されたカエルの、短い命にも意味はちゃんとあったんだよ」
「でも、私たちは人間だよ。私たちが死んで、なにになるの? 私たちが生きて、死んで、救われる誰かがいるの?」
「それはわかんない。でも、嘆いちゃだめだよ。人と違うからって、自分の命を呪っちゃだめだよ。そうでしょ?」
日陰は片手でピースを作り、笑った。
「マイナスかけるマイナスは、プラスなんだから」
「・・・・・・・・・・・・日陰」
すごいね、日陰は。
私の知らない間に、たくさん成長したんだね。
「だから、いいんだ。わたし、お姉ちゃんと一緒ならそれでいい」
日陰が、私の体を抱きしめる。
「ウェディングドレス、着たかった」
「うん」
「ウェディングドレスを着た日陰を、見たかった」
「うん」
「もっと幸せになって、普通の女の子として、笑ってる日陰が見たかった」
「うん」
「日陰・・・・・・」
「でも、これがわたしたちの人生だから」
木の上を、芋虫が這っている。懸命に生きようとしている。けれどそれは、やってきた野鳥に食われ、緑色の汁を吹き出しながら死んでいく。
もっと頑丈な体に生まれていたら、もっと前向きに歩ける足を持っていたら、もっと、長い生を送れたのに、もっと、もっと。
「お姉ちゃん、だから。安心して。悪魔は悪魔らしく、地獄に落ちよう」
「・・・・・・・・・・・・違う、それは違うよ。だって日陰は悪魔なんかじゃなくて――」
言いかけた言葉は、日陰の唇によって遮られた。
「えへへ、今日まだだったから」
すでに唇の感覚などなかった。けど、繋がりたい。繋がっていたい。そう思った。
「もう一回、いいよ」
「いいの?」
「うん」
「ありがとう。大好きだよ、お姉ちゃん」
「私も、日陰のことが、大好き」
「嬉しい」
茂みの上に倒れ込みながら、キスをした。
抱き合いながら、日陰の頬に触れる。
「日陰は、私といて。私と生きて、幸せだった?」
「もちろんだよ、お姉ちゃん」
「・・・・・・本当は、もっと生きたいんじゃないの? もっと、いろんなところに出かけて、いろんなことを知って、いろんな人と、楽しいことをしたいんじゃないの・・・・・・? ねぇ、日陰」
そう言うと、一瞬。日陰の頬がピク、と動いた。
しかしすぐに笑顔に変わり、日陰は呟いた。
「ううん。私は、お姉ちゃんと過ごせて、幸せだった。幸せだったよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そっか」
なら、いいか。
最後の最後だけど、ほんの少しだけ、救われた気がした。
だって、そうでしょ。
日陰は、嘘をつかないのだから。
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