最終章

第二十八話

 年が明けてしばらくすると、世間は少し落ち着きを取り戻したように感じる。


 テレビのニュースも保護していた朱鷺が餌を自分で捕まえたとか、今年小学生になる子供たちがランドセルを選んでいる姿とか、明るいニュースばかりで重苦しいものはなく、大晦日に三十代の男性が自殺したという報道が新聞の片隅に小さく書かれていたのがおそらく最後だった。


 お餅による事故も今年が一番少なかった。雪像大会の参加者が一番多かった。今年は去年とは違うぞ、という気概がこの細長い列島を流れているようだった。


 始業式を行った体育館はやや寒く、手を擦る音が校長先生の話に重なっていた。先生方も連休で疲れがとれたのか、柔らかい表情で普段は注意するようなことも今日だけは許しているような節がある。そういった雰囲気を悟ったのか、体育の少し暑苦しい印象がある先生だけは、いつも以上に気を張っている。


 そんな、人それぞれ。個々が持つ感情に一つ一を関心を向けてみれば心の解剖は難しくない。何故ならそれは、大なり小なり私たちの中に眠るものを組み立てただけだからだ。


 外が晴れれば気分はよくなるし、自分以外の誰かが怒られていると周りには謎の統率と思いやりのようなものが生まれる。


 まったく不思議なことではないし、理解もできるから、そういった感情の変化やこれまで過ごした日々の違いにいちいち目を剥くことはしない。


 しかし。まったく、自分の中に存在しない感情を誰かが持っているのも事実だった。


 始業式が終わり、三年生である私たちが先に体育館をあとにする。体育館の真ん中を歩き、二年生の横を通り過ぎる。日陰ひかげは赤みのかかった茶髪の女の子に話しかけられていて、私には気付いていなかった。


 長時間立っていることに疲れたのか、片足をあげてその子に持ってもらっていた。


 仲がいいんだな、と安堵する反面。あの日の出来事はいったいなんだったのだろうと不安になる。


 去年の冬、私と日陰は久しぶりに二人きりで駅前まで遊びに行った。その帰りに日陰は亮介くんの家をジッと見たまま動かなくなったのだ。


 あれから数分後、日陰のまぶたがピクと痙攣したかと思うと、ゆっくりと顔ごと私に向けて「帰ろうか、お姉ちゃん」と何事もなかったかのように言った。しかし、その時に見た日陰の静けさすら感じる笑みが脳裏にこびりついて仕方がない。


 日陰はいったい、何を考えているのだろう。


 私は十数年生きてきてはじめて、妹の行動が理解できなかった。


 ただ、その時に見た日陰の、猛禽類のように鋭い眼は。


 あの日の、墓場での出来事を思い出させる。それほどまでに、同じような輝きを放っていたのだ。鈍く、重い、ナイフの刃先のような輝きを。


 今日まで何も起きなかったことを考えると、特に心配する必要はない私の思い込みなのかもしれない。そうであって欲しいと、廊下を歩きながら思う。


 ドサ、と私が通り過ぎたあとに大きな音を立てて屋根から雪がずり落ちた。


 そういえば昔、ユキという金魚を飼っていたことを思い出す。私が学校から帰ってくると水槽からいなくなっていて、私はその時はじめて生物の死というものを理解した。


 私のあずかり知らない場所で、私の知らない心を持った私とは違う体が、私には到底分かり得ない慟哭を最期に朽ちていく。


 それがきっと、死ぬということなのだな、とランドセルを担ぎながら涙ぐむ目尻の向こうで思う。日陰も、同じだっただろうか。


 ペットというものはそういうものだ。小動物というものは、死ぬことで、命の尊さを私たちに教えてくれる。日陰も、教えてもらっただろうか。


 その日、学校はお昼で終わった。


 正月に祖父母の家に行きお年玉をたんまりと貰ったのか、これから遊びにでかけるという人が大半だった。遅れて私もカバンを整理していると、後ろから亮介りょうすけくんが声をかけてきた。


小春こはる。このあと俺らもどっかいかね?」

「いいよ。お昼がてらね」


 どこに食べに行こうか、と相談しながら席と立つ。


 立ち上がっても、視線はほぼ変わらない。背の高い亮介くんに見下ろされながら、私はカバンを肩にかけて靴のかかとを直す。


「あれ? 亮介くん今日眼鏡なんだ?」

「ん? ああ、いい機会だしな。コンタクトって結構めんどうだし」


 そう言いながらも、亮介くんは恥ずかしそうに私から視線を逸らした。


「似合ってるよ」


 亮介くんが一番気になっていそうなことを先に言ってあげる。といっても嘘ではなかった。黒縁の丸眼鏡は亮介くんの小さな輪郭に合っている。刈り上げた側頭部はこれまで少々不真面目な印象を与えていたので、かえって素朴なデザインは好印象だった。


「ちょう真面目な生徒みたい」

「喜んでいいのかわかんねー」

「あはは、そこは任せるよ。不良くん」


 眼鏡をしていると、亮介くんの瞳が大きく映し出される。細かく泳ぐ黒目が面白い。犬の尻尾を眺めるように、亮介くんの喜怒哀楽を探した。 


「そういえばやっと工事終わったよ」

「水道管の工事だっけ? 大変だったね。原因はなんだったの?」

「わかんねーけど、なんかが詰まってたんじゃないかって言われた。調べた時はなんも詰まってなかったけど、水道管が中から傷ついてたからってさ、保険うんぬんは母ちゃんがなんか言ってたから大丈夫だったんだけど。まートイレにいけなくて大変だった」

「そっか、お水流せないもんね。亮介くんの家だけだったの?」

「運悪く。でもリフォームできたわけだしかえってよかったかもしんね」

「前向きなのはいいことだ」


 先生みたいな口調で言うと、亮介くんは反応に困ったように苦笑した。


「家の前にまだ公衆トイレ置いてあんのだけは勘弁して欲しいけどな。なんであれだけさっさと撤去されないんだろ」

「年末に降った大雪のせいとか?」

「それもありそう。あーあ、臭いんだよなー公衆トイレって」


 鼻をつまむジェスチャーに、今度は私が苦笑する。


「そうそう、雪の影響といえばさ。小春んちは屋根大丈夫だったか?」

「うん。一応、新築だし」

「いいなー。うちなんてさ、どっかに穴あいてんだか染み込んでんだかわかんねーけど雨漏りしてるみたいなんだよ」

「雪の重みで空いちゃったのかな」

「多分なー。しかも俺の部屋の近く。勉強してるときはずっと無音だから気付くんだけど、母ちゃんと父ちゃんは耳が悪いからさっぱり気付かないみたいなんだ。どんだけ言っても信じてくれなくて、まるで幽霊にでも憑かれた気分だよ」

「勉強中にそれはやだね」

「だろ? こっちは必死に勉強してんのに、ずっと聞こえてくるんだよ」


 両手を垂れ下げて幽霊のポースをする亮介くんが、低い声で言う。


「ぴた、ぴた。ってさ」

「・・・・・・・・・・・・早く直るといいね」

「まったくだ」


 そのまま学校を出て灰色混じりの雪を踏む。中からコンクリートが顔を出している。もうじき、溶けるだろうか。それとも再び積もるだろうか。


 広大な青空も突然閉鎖的な雲に覆われる。天気に想像や憶測など追いつかない。それは私たちが過ごす日々でも同じことを言えた。


近くのファミレスに向かい、私はスープパスタ、亮介くんはハンバーグとパンとシチューを頼んだ。男の子だなって思った。


 待っている間、スマホを弄っている亮介くんに話を振る。


「ごめんね。最近、あんまり会えなくて」


 ピク、と亮介くんの指が止まる。そもそも気付いてすらいない。そんな風だったら楽だったのだけど、その動きは 心当たりがあるものだった。


「日陰の、妹のことがちょっと心配で」

「あー、うん。分かってるよ。メッセージでも教えてくれてたし」

「うん。でも、やっぱり私たちって付き合ってるわけでしょ? それなのに妹のこと優先する彼女なんて、変だよねって、思って」


 自虐的に呟く私を、亮介くんは上目遣いで見ていた。


「いや、んなことないって。俺は一人っ子だからよくわかんねーけど。色々あるんだろうなって思うよ。それに」


 亮介くんはスマホをロックして、両手をテーブルに置く。先に亮介くんの頼んだシチューが届いたけど、構わずに話を続けた。


「このまえ、小春の妹さんのことを悪く言っただろ? あれさ、マジで、ごめんな」


 亮介くんは手を合わせて頭を下げた。パン、という乾いた音がした。


「俺さ、あのあと家に帰っていろいろ考えたんだよ。なにがおかしくて、なにが変ななのかって。でもそれってさ、結局俺の価値観っていうか、俺の物差しっていうかさ。すげえ一方的なものだったって思うんだ。難しいことは俺もよくわかんねーんだけど、でも、手放しに誰かを否定するのってよくないよな。日陰ちゃんさ、足が悪いのにすごい頑張ってるだろ。それを思うとさ、なんか申し訳なくて、俺がすげーちっちゃい人間に見えてさ。あー、まとめらんね! つまりさ、撤回するよ。俺の視野が狭かった。ごめん」


 私は、きっと口を開けた状態で止まっているんだろう。


 日陰の件についてはすでに亮介くんからその日のうちに謝罪は受けている。だから私はもう気にもしていなかったのだけど、もしかしたら亮介くんはそれをずっと負い目に感じていたのかもしれない。


 湯気の立ったハンバーグとスープパスタが運ばれてきて、箸を取る。


「食べよ、亮介くん」


 私にも、彼を許すなんて仰々しい真似はできない。だから仲直り、じゃないけれど、その代わりに一緒にご飯を食べる。


 亮介くんは晴れ晴れとした表情で頷き、子供のようにハンバーグを頬張る。黒縁の眼鏡が、湯気で曇っていた。


 亮介くんは、いい人だ。


 こんな私を好きになってくれたし、こんな私に気を許して、信頼してくれている。


 亮介くんは本当に素敵な人で、それでいて、きっと、これが普通なんだろうなと。


 私はどこか、遠い目で眺めていた。

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