第二十七話

 コンビニで買った紅茶は、カイロ代わりにするには冷たくなりすぎていた。温度の感じないそれを握りしめながら、昼間も来たベンチに座って星空を眺める。


 どれがどういう星座で、何光年先にあって、そこにはなにが在るのか。分からないことばかりなのに、漠然とした光に心を奪われる。黄色に光るものもあれば青が滲んだものもある。真っ白にけたたましく光るもの、消え行くような淡いもの。地上で光るイルミネーションと彩りは似ているけど、見上げたほうがやはり美しかった。


 果てしない先にある憧憬のようなものに縋っているのか、それとも未知を探る好奇心か。根底にあるのは稚拙な感情で、私自身、あの輝きにある意味なんて一つも理解していなかった。


 それでも、綺麗なものを綺麗だと感じる、自分の目を愛した。歪んだレンズで世界を見ているわけではないという安心感が、やや乾いた夜を過ぎていく。


「いっぱい遊んだね。すごく久しぶりな気がする。いつ以来だろこんな遅くまで遊んだの、小学校の頃だっけ?」

「違うよ、中学校の頃。わたしがお祭りでくじ引きを無料だと思って勝手に引いちゃったときあったでしょ。そのときがたしか、一番遅かった」

「あー! あったね、屋台のおじさんがすごく怖くて、本気で走って逃げたんだよね」

「お姉ちゃん、ちょっと泣いてた」

「だって、本当に怖かったんだよ? 売ってる鬼のお面みたいな形相で怒鳴られたらさ、泣いちゃうに決まってるよ。日陰は怖くなかった?」

「ぜんぜん」

「そうだよね。なんか日陰、余裕っていうか、むしろ楽しそうだったもん」


 綽々と神社の敷地に入って腰かける日陰は、そこに棲み付く精霊のようだったのを覚えている。だからこそ隣にいてくれる日陰が頼もしくて、その日を境に、私はもっとお姉ちゃんらしくなろうと決めたのだ。


 懐かしい。


 憂う。


 けれどやっぱり、楽しい思い出。


 また数年後、振り返って、この星空を思い出すときが来るだろうか。昔話をしながら、夜遊びをして、ウエディングドレスを見て、お寿司屋さんでお腹いっぱいに食べて、まだまだ子供だったねって。


「どうしたの? お姉ちゃん」


 見つめていたからか、日陰は怪訝に私を覗き込む。私は首を振って、なんでもないと日陰の頭を撫でる。


 私はたしかにお姉ちゃんかもしれない。でも、たとえ私が後に生まれていたとしても、日陰に対する思いはきっと変わらないだろう。


「お姉ちゃん、今日。まだだよね」


 日陰の手が私の手に重なる。オレンジ色の照明が頬を照らし、息を飲むとそれを掻き消すようにベルが鳴る。


 景色に飲まれていくかのように、私は目を閉じて、日陰を受け入れた。


 恋とか、好きとか、甘酸っぱいものはここにはないけれど、日陰を思う私の気持ちはきっと、もっともっと大きいものなのだろう。


 これをもしかしたら、愛。というのかもしれない。


 ただそれも、友愛、親愛、家族愛。様々だ。整然とした出口を見つけられないまま、私から離れていく唇を見つめる。私を抱く細い手が、満足そうに笑う口元を拭う。


 形なんて、いらないのかもしれない。


 もう一度空を見上げて、どこにあるのかもわからない不透明な星の輝きに、今の私達を重ね合わせた。


「さてと、そろそろ寒くなってきたね」


 時計台に飾られた大きな針は十時の方向を指していた。


 帰ろう、とは言わなかった。心のどこかで、こんな時間がずっと続けばいい。そんな淡い希望を抱いていたのかもしれない。


 日陰も頷くばかりで、行き先を聞くことはなかったが、つま先は家の方へ向いていた。


 やや後ろを歩き、力無い手を握る。背中を追従して、時々振り返る日陰に笑いかける。


 人通りはすでに少なくなっていて、代わりに住宅街に佇む家の光が数を増す。通りかかる窓から、子供の声と、せっけんの香りがした。曇りガラスに映る大きな影が、お父さんなのだとすぐに分かった。


 空港通りの交差点を過ぎ、焼肉店の隣にある眼鏡ショップの看板の光が、丁度目の前で消える。


 そういえば、私のお父さんも眼鏡をかけていたなとすでに薄くなりかけている記憶がふいに顔を出す。背が高くて、黒縁の丸眼鏡は、清涼とした瞳をより柔和なものにしていた。


 私と日陰は、どちらもお父さんには似なかったらしい。目もいいし、背も高くない。それがいいことなのか悪いことなのかは分からない。


 夜道を抜けると、すでに閉店したおまんじゅう屋さんがあって、私はここが亮介くんの家のすぐそばだということに気付く。


 バスセンターに向かいながら、私は道のりに見えた亮介くんの家に視線をやる。

 近くに停まった仰々しい工事用の車を見て、近くの水道管が破裂して、今は工事中だという話を亮介くんがしていたのを思い出す。


 二階の窓には明かりがついていて、亮介くんがいるのはすぐに分かった。大学に行くために最近は勉強を頑張っているらしい。今もせっせとペンを走らせているのかもしれない。


 想像すると、微笑ましく、心が温かいものに包まれていく。


 これが男女の間に生まれる恋なのだとすると、なるほどそれは、いいものなのかもしれない。だから人はそれを求めるし、憧れ、安堵する。恋に恋をして、誰かを思い、鼓動を高くする。それが普通の人間。狂気に満ちていないという証でもあった。


 ――そんなことを考えていた時だった。


 風を切る音が聞こえた。


 そう思えるほどの、ものすごい速度で。


 日陰がこちらを振り向いたのだ。


「ど、どうしたの? 日陰」


 あまりにも俊敏な動きは、飢えた野生動物のようでもあった。私は驚きながらも見開かれた日陰の瞳に問いかける。


 けれど日陰は、ピクリとも動かない。


 開けきった瞼は赤くなっていて、広がった白目は充血している。


「なにかあった?」


 日陰の視線を追って、そこにあるものを探す。


 獰猛ともいえる目線の先には、小さく明かりがついていた。


 日陰は、亮介くんの家をジッと見つめていた。


 どうしたんだろう。私は日陰に亮介くんの家の場所を教えたことなんてないし、もし日陰が知っていったとしても、こんな風に凝視する理由が分からない。


「日陰、おーい、日陰ー」


 おどけるように、冗談交じりに、日陰の前で手を振る。けれどそれは、羽虫程度にも及ばない。


 日陰はただ一点を見つめたまま、動かなかった。


「もう日陰、はやくしないとバスに乗り遅れちゃうよ」


 私は悪いと思いながらも日陰の手を引っ張った。


 けれど、まるでビクともしない。


 カブを抜くように両手で引っ張るが、私が息をあげるだけで状況は一向に変わることはなかった。


「もう、どうしたのひか――」


 背筋が凍った。


 冬の夜風のせいではない。明らかにそれは、恐怖という感情から起因するものだった。


 目の前の儚い存在に空いた、小さな穴から漏れ出す禍々しいガスのようなものを見た。


 どれだけ引っ張っても、ビクともしない。


 日陰はまるでなにかに憑りつかれたように顔を上げて。


 ゲコ、と小さく呟いたのだ。

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