第二十六話
喉に乾きを覚えた頃にカラオケボックスを出てまだ夕焼けの遠い活発な火の光を浴びる。さっきまで浴びていた電子的な輝きとは違い、肌を通して全身に浸透していくようだった。
先に階段を下りた日陰が私を見上げる。黄色のヘアピンが光を反射して、日陰の頬は心なしか上気していて血色がいい。唇の色も健康的なものとなっていった。
長い丈のコートがマントのように靡いて覗く白い足がせっせと前へ進もうと動く。日陰は私の手を引いて「次はどこにいいくの?」と目を輝かせた。
「どこへでも」
抽象的な答えに、けれど日陰は笑ってくれる。
でも、本当のことだった。日陰となら、どこへだって行けるし、行ってあげたい。
先にこの世に産まれ落ちた私の使命。そんな大袈裟なものを多分に含みながら、繋いだ手が離れないよう、歩幅を合わせる。
もうじきクリスマスということもあって街はイルミネーションで溢れていた。昼間でも見える赤や青の彩りが、視界を鮮やかにしていく。まるで夢の世界を歩いているようで、自然と足取りも軽くなる。見るものすべてが綺麗で、美しく、胸が高鳴る。
スピーカーから流れるクリスマスソングとベルの音をバックに、大きなツリーの前で写真を撮った。
私と日陰は頬が潰れるくらいに顔を寄せて、ぴーす、とポーズを決めた一枚をスマホに保存する。
ベンチに座ると、目の前をシャボン玉が通っていく。
「ほ」
日陰が変な声をあげて立ち上がる。休憩のつもりで座ったのにな、と思いながらも、一人で進んでいく日陰の背中を追いかけた。
「昔から好きだったね、シャボン玉」
「うん。綺麗。虹色好き」
一歩踏むごとに一つの単語を言う。ちょっとカタコトになりながらも、日陰は宙を舞うシャボン玉に手を伸ばす。
日陰の手のひらをシャボン玉が滑って、ドーム状に変形して止まる。ぷるぷると震えて、プリンにも見えた。
私もシャボン玉に手を伸ばしてみるけれど、すぐにパチンと弾けて消えてしまう。
「日陰はシャボン玉捕まえるの上手だよね」
「簡単だよ? シャボン玉が乗ってくれるのを待つだけだもん」
「それが難しいんだよ」
もう一度チャレンジしてみるけど、肌にシャボン玉が触れた途端、私の指は動き、その儚い泡を破壊する。
「嫌われてるのかも」
「大丈夫だよお姉ちゃん。わたしも嫌われてると思うから。ほら、手のひらで震えてるでしょ? きっと逃げたいんだよ。どうせ消えるなら、目指した場所で消えたいって、思ってるんだよ」
日陰は時々、無機物や小動物と言葉を交わせるんじゃないかと思うくらいに不思議なことを言う。その感性は私にはないもので、すごく素敵なものだ。
だからきっと、日陰はシャボン玉を捕まえられて、私には捕まえられないのだろう。
自分の手のひらを眺めて、自嘲気味に笑う。
「お姉ちゃん、一個あげる。手出して?」
水をすくうような形で両手を差し出すと、そこに日陰がシャボン玉を一つのせる。日陰の両手にはまだまだたくさんのシャボン玉があった。なんだか売り物みたい。
「まあ、なんて素敵なシャボン玉。けど私にはこんな高価なもの買うお金はありませんの」
「お金なんていりません。あなたが笑ってくれたらそれでいいのです」
「ありがとう。けど、こんな綺麗なシャボン玉もいつかは消えてしまうのね」
「心配いりませんお姫様。それは僕たちも同じです」
「分かってたのね、ずるい方。まるでどこかの王子様みたい」
小さい頃に好きだった絵本のセリフをなぞる。互いに打ち合わせをしていたわけではなかった。
それでも繋がるセリフ。私も日陰も、まだ覚えていたことがおかしくて「なんで覚えてるの」とおどけたように笑う。「忘れないよ」と日陰も恥ずかしそうに、けれどほんの少し、誇らしそうに胸を張った。
徐々に風が冷たくなり、人通りも、これからが本番というように来る夜に胸を踊らせている大人が増え始めた。
互いに身を寄せ合い、手を繋ぐ。私と日陰も例外ではなかった。もしかして、私たちもカップルかなにかだと思われたりしているのだろうか。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「えっ? あー、うん。あはは、なんかちょっと、ね?」
カップルという単語の変わりを探す。恋人? 余計に仰々しくなってしまった。
「仲の良い姉妹に見られてるかな」
そういえば通りかかる人もカラオケボックスの店員さんも、どこか温かい目で私たちを見ていた気がする。
「見られてるっていうか、姉妹だよ」
「それもそうだね。日陰、今日は夜ごはん食べて帰ろ? お母さんには私から連絡しておくから」
「うん。でも、どうせならお母さんとも一緒に来たかったね」
日陰がか細く口元を綻ばせる。私はそれに、はっきりとした返事ができなかった。
「でも楽しみ。わたしお寿司食べたいお寿司食べよお姉ちゃん」
わがままに、だけどちょっと甘えん坊に、強引に、迫ってくる日陰のおでこを手で抑える。はしゃいでヒートアップする犬をしつけているみたいだ。
気付けば日は落ちて、イルミネーションがライトアップされる。夕日がなかった。元々、冬はないのだったか。唸ってみても、思い出せなかった。
お寿司屋さんに向かう途中、白いレースが視界の端に止まった。それはドレスショップに飾られた、ウエディングドレスだった。
まだブライダルの季節ではないけど、人はまばらに出入りしていた。予約のPOPも飾ってあり、これから予定を立てているような人も多かった。
一人で来ている女の人や、落ち着かない様子であっちこっち駆け回る男の人もいた。いろんな人がいたけど、どの人もすごく幸せそうな顔をしていた。
「ね、日陰。ちょっと入ってみない?」
「え、いいの? わたしたち結婚してないよ」
「ダメって言われたら諦めるからさ。一回入ってみようよ。ね?」
日陰は戸惑いがちに頷いたけど、その視線は飾られたドレスに釘付けになっていた。
中に入ると「わ」と声を出して驚いた。
まるで、雪が積もっているかのように見えたのだ。
純白のドレスがずらりと並んで、白い壁に、白い天井。明るい照明がそれらを照らし、下からライトアップされたドレスは今にも動き出して舞踏会に赴くようだった。
スーツを来た店員さんが話しかけてきて「もしかしてレンタルドレスをお探しですか?」と聞いてきた。
偉そうに言った私だけど、夢心地の中ハキハキとした応答はできずに、無言で首を振った。
「すみません。ちょっと中が見たくて。えっと試着とかって」
「申し訳ございません。試着は十七時までとなっておりまして」
「そうなんですね。分かりました」
「何かありましたら気軽にお尋ねください」
そう言って店員さんは繋いだ手と日陰の足元を一瞥し、私たちの次に入ってきたお客さんの応対を始めた。
「試着したかったね」
「うん。でもしょうがないよ」
「せっかくだし、見て帰ろ」
そうは言っても、ドレスショップというのは私たちのような高校生がいるにはやや敷居の高い場所で、しかも用事もない野次だとくれば居座るのに勇気と、多少の非常識が必要だった。
十分ほどで苦しくなり、店を出た途端に大きく息を吐く。どうやらずっと息を止めていたみたいだった。
「緊張したー!」
解放感に煽られてつい声をあげてしまう。
「私たちにはまだレベルが高かったね」
「うん。わああって、背中押されたみたいだった」
「あ、ごめんね日陰。それ私かも」
「ほんとに押されてた」
「押してた!」
互いに見合って、口を大きく開ける。
「でも綺麗だったー! すごかったね、キラキラしてて、こんなに長かったよ」
「お姉ちゃんにすごく似合いそうだったね」
「えー? 日陰のほうが似合うよ。私はほら、あんまりね、ピシっとしたのは。恥ずかしいし」
二人で手を繋ぎながら、星の見えてきた夜空を見上げた。それがまるで、私たちを祝福している光に見えて、鼻の奥にツンとしたものを感じた。
「けど、うん。いつか着てみたいな。ウエディングドレス。好きな人ができて、プロポーズされて、結婚して、子供を産んで、色々苦労して、でもおっきくなっていく子供をみるのが嬉しくて、よぼよぼのおばちゃんになって、さ」
それがきっと、人としての最高の幸せ。大切な人と過ごす、大切な日々。
「わたしは・・・・・・着れるかな」
「着れるよ」
日陰が不安そうに言うので、私は今度こそ。ハッキリっと言う。
「日陰にも誰か好きな人ができて、あのドレスを着てバージンロードを歩く日が必ず来るよ。あ、結婚式のスピーチは私に任せてね? ビシっと感動的なこと言っちゃうんだから」
「・・・・・・・・うん」
「だから、いつか。着ようね」
それで、幸せになろうね。
指を絡ませて、私と日陰は肩を寄せ合う。
どこか夢のようで、憧れにも近い景色に少しアンニュイになってしまう。
けど、そのあとに行った回転寿司で流れてきた小さな新幹線を見て、テンションはすぐに上向きになった。
日陰がドバドバお茶の粉を入れるのも面白かったし、途中から炙りにハマってたくさん頼んで、どれがエビでどれがサーモンか分からなくなって、炙ってマヨネーズつけたら全部同じだよと豪快に頬張る。でも結局口の中が脂っこくなって、さっぱりしたものをたくさん頼んで、お腹がいっぱいになる。
そんな一時を過ごした。
まだウエディングドレスは着れないけど、まだ、全然、子供のまんまだけど。
これも確かな幸せなんだな、と。
目の前でくしくしと笑う日陰を見て、そう思った。
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