第二十五話

 ぴた、ぴた。という音が廊下から聞こえる。


 日陰の足音はとても分かりやすく、日陰がドアを開けるより早く私が迎え入れる。


「準備できた?」


 頷く日陰は明るい水色のバックを両手で大事に持っている。白生地のワンピースまで青く澄んで見えるような錯覚を覚え、黒のソックスがその鮮やかさを一層引き立たせていた。


 ばらけていた後ろ髪はゴムで止めてあり、前髪は右に流し、柚原さんに貰ったという黄色のヘアピンがぶら下がって外れそうになっていた。おそらく自分でセットしてきたのだろう。


「こっちおいで」


 日陰を化粧机の前に座らせて、ライトをつけるとその重たげな瞼が驚いたように一瞬あがる。鼻先がピク、と動いて日陰が私の持った肌色の布生地を凝視した。


「晴れたのはいいけど、きちんと対策はしなくちゃね」


 柔らかい頬を撫でると、日陰は片目を閉じて口を開こうとして失敗する。薄く化粧水を塗ったあとに、ファンデーションを肌になじませていく。


「これなに?」

「かわいくなる、魔法の道具」

「なんでかわいくなるの?」

「なんでって、それ、どっちの意味?」

「ぽんぽんしただけで、かわいくなるの?」

「なるよ。だって、女の子だもん」


 日陰は鏡に映る自分を見つめながら、私の大雑把な言い分を聞き入れていた。


 ポケットのスマホが震えて、見てみると亮介くんからのメッセージだった。『ごめんね、また今度ね』そう返して、スマホをしまう。


 とれかけたヘアピンが髪を引っ張ってしまわないよう優しく抜き取り、後ろ髪を解いてから手櫛で流してあげる。何度も何度も引っかかり、何か切れたような感触が手に残る。


 私は、何度も水を吹きながら日陰の髪を流す。痛みや淀み、厭わない気持ちも今までたくさん持ってきた。でも今日は、そういった後ろ向きなものよりも、ただ日陰をかわいくしてあげたい。そう思ったのだ。


 髪を少し濡らしてから、タオルを頭に乗せて軽く乾かす。毛の流れに逆らうようにドライヤーを当て、根元から髪をふんわりした仕上がりにしてから大き目のコテで巻いていく。傷んでしまわないよう、なるべく早めに外し、今度は逆方向に巻く。それを繰り返して、熱が取れたら手で無造作にほぐしていく。


「うん、できた」

「なんだか、わたあめみたいだね」

「日陰の髪動きやすいから、サラサラ系よりは持ち上げたほうがいいと思ったんだ。おそろいだね」


 鏡に映る日陰と私。髪は私のほうが長いけど、ふんわりとしたヘアアレンジは一緒だ。


「おそろい。うん、お姉ちゃんと、一緒だ」


 日陰は嬉しそうに目尻を下げた。かわいすぎて、町に出てナンパでもされたらどうしよう、なんて冗談交じりに思ってしまうけれど、それぐらい今日の日陰はかわいくなっていた。


 服装もあいまって、お嬢様みたいだ。日陰は慣れてないせいか少し落ち着かない様子ではあったけど、何度もスカートを翻して鏡に映る自分を見る姿はとても愛らしかった。


「日陰、寒いからコート着ていったほうがいいよ」


 黄土色のコートを持って日陰に渡す。


 一昨日の水曜日には雪が降り一度積もったりもしたのだけど、まだ輝きの衰えない太陽に負け、雪は密かに消えていった。


 日陰は丈の長いコートを首を隠すように着て、袖からなんとか出たというような指がぴょこぴょこ動いていた。


「まだおっきいね」

「二つ上のサイズだったしね。でもいつかぴったりになる日が来るよ」


 このコートは小学校の頃、親戚のおじさんから貰ったお年玉を握りしめて日陰と初めて服屋さんに行った時に買ったものだ。


 貰ったお小遣いでは買えるコートがあまりなく、どうしようとさまよっていた時に安売りコーナーに売っていたのがこのコートだった。日陰はまだSサイズの服しか着れず、Lサイズであるこのコートを買ってもしょうがなかったのだが、初めて服屋に二人で行ったという興奮もあってつい買ってしまったのだ。


 日陰がポケットめがけて手を突っ込むが、収まることはなくそのまま下へすり抜けていく。そのコートにはポケットがなかった。それから、肩の部分が重く、可動範囲も狭い。あげく耐水性はなく、ほぼ見せかけだけのコートだった。安売りの理由が、買って少し経ってから分かった。


 また新しいのを買いに行こうと提案しても日陰はこれでいいと言った。ポケットも耐久性も、柔軟性もないけれど、温かいから、これがいいと。ダボダボの袖で口元を覆いそう言うのだ。


 だから日陰の指が袖から出るようになった時はすごく嬉しかった。


 いつか、いつか日陰が大きくなってこの安売りのコートを着こなせる日が来る。明るみになった未来が、待ち遠しかった。


 外に出ると、やはり眩い太陽が地上を焼いていた。その上をスニーカーで歩く。ひんやりとした冷気を足裏に感じ、素肌と布団が擦れた時のような感慨を抱いた。


 日陰の肩が何度も私の二の腕に当たり、そのたび軽い体重を支えて待ってあげる。


「手、つなごっか」


 私が手を差し出すと、日陰がそれを掴む。私の手がコートの袖に引きずり込まれていくようで、見ていて面白かった。


 私が笑っていることに気付いたのか、日陰が体を寄せてきて、心なしか足取りが軽くなる。


 何度もひしゃげる足首も、力強く見えた。


「今日はどこ行くの?」


 日陰がそう聞いてきたので、私は意地悪く笑って答える。


「実はね、特に予定なし」

「え、そうなの?」

「そうなの。さてさて困ったね、日陰。どこへ行こっか。欲しいものとかあったりする?」

「あんまりない」

「そっか。日陰はあれだね。お金のかからない良い子だね」


 日陰が首を傾げたのが見えたので、私は繋いだ手を置き去りにしないよう、ウインドウショッピングを堪能することにした。


 どこ行く当てもなく、ただ歩き、目線にある幸せを見て、笑う。なにかの、縮図のようだった。振り返れば憂うばかりで、遠くを見れば言いようのない不安が襲い掛かる。


 それでも、日陰が歩いて、そのやや後ろを私が歩く。時々振り返る日陰が私を探して、目が合うとひっそりと笑顔になる。


 カラオケに行き、そこで出てきたポテトでお昼をすませた。きっと正しくはないのだろうけど、道から外れた場所にも楽しいことはたくさんある。


 日陰がコップいっぱいにメロンソーダを入れてよたよたと歩いてくる様子は、まるで蟻がせっせと荷物を運んでいるようで微笑ましかった。


 いつでも手を差し伸べればいいわけじゃない。日陰もきっと、それは望んでいないことは長年そばにいてなんとなく分かっていた。


 無事にテーブルまで辿り着いた日陰が達成感に満ちた表情でメロンソーダをすすり、私はマイクを手に取る。


 私と日陰の選曲はほとんど同じだった。


 小さい頃一緒に見ていたアニメの主題歌。一緒に踊りを覚えようとしたテレビで流行っていたJ-POP。合唱コンクールで歌った曲。そのすべてが私と日陰の思い出であり、過去でもあった。


 なんの淀みもない、純水であった頃が、確かにあった。


 日陰と一緒に草原を走り、桜の下でお父さんとお母さんが笑いながらビールを飲んで、桜の花びらを拾い集めて、作ったフラワーブーケに乗せてシャワーのように被って、はしゃいで。ちょっとはしゃぎすぎて花見に来ていた他のお客さんに怒られて、私がその人の真似をすると、日陰が泣くくらいに笑い転げて、そんな日々が、確かにあったのだ。


「お姉ちゃん?」


 曲の途中に嗚咽が混じり、マイクのスイッチを止める。


「ごめんごめん。次なに歌おうか考えていた」

「そうなんだ。じゃあ次あれにしようよ」


 日陰がパネルを操作して、アニメの主題歌を入れる。早口言葉のような歌で、まともに歌いきれたことはなかった。それでも、二人して食いついていく様が面白くて、いつもその歌を帰りの車の中で日陰と一緒に歌っていたのを思い出す。


「ちっちゃいでっかいおっきいちっちゃいちゃいなのしゃいなおねえさんぷるれうぃ・・・・・・」

「お姉ちゃん噛んでる」

「やっぱり難しいよ! これー!」


 わーんと私の声をマイクが拾う。


 次いで日陰が二番を歌う。


「うりうりうりぼうも棒にあたるたるソースのむすびやぴ、まりゃ」

「あはは、日陰。最後のほうズルくない? 誤魔化そうとしたでしょ」

「うりゃうりゃむにむに」

「ちょっと日陰、あははっ」


 もう音程もなにもなかった。


 ただ声を出して、体の中に溜まった何かを出して。心が軽くなるのなら、それでよかった。


 私も一緒に乗っかって、最後は日陰とデュエットした。日陰は高音が苦手で、私は息が続かない。それも昔から、ずっと変わらない。


 それでも最後まで楽しく歌い切ろうと精一杯声をあげる。


 私と日陰の声を拾ったマイクが、部屋に反響する。けたたましいハウリングが、鼓膜を揺さぶった。


 けど、気にはならなかった。


 マイクの音量を下げれば、それも消えてなくなる。

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