第二十四話

「日陰!? どうしたの!?」


 私は急いで駆け寄り、その軽い体を抱き起した。何度か揺らすと、日影がゆっくりと目を開ける。


「お姉ちゃん・・・・・・おかえり」


 日陰の口元には白い泡がついていた。服をめくると、背中には夥しい数の切り傷と焦げ跡、それから青あざが生々しく残っている。見える箇所に明らかな傷を付けない。ふとした時に垣間見えるずる賢いところが、不気味さを助長していた。


 完全に気が動転した暴力であればまだ人間味があるのに、これではまるで傷つけ生かし、ごく自然に世の中で生活するスリルを楽しんでいるようじゃないか。


「・・・・・・もうすぐご飯だって」


 私は日影を背負ってリビングまで連れていく。


 怒りも、悲しみも湧いてこなかった。


 この光景が、もうずっと前から当たり前のことになっていたからだ。


リビングにいたお母さんも、生命の活力が削ぎ落されたように衰弱した日陰を見ても何も言わなかった。


 一緒にご飯を食べ終わると、お母さんは少しおめかしをして家を出て行く。鼻腔が詰まるようなポマードの臭いに顔を歪めながら見送った。


 お風呂をあがるころになると、日陰は少しだけど元気を取り戻して、顔にも歳相応の艶やかな赤みが増している。日陰がそのまま自室へ向かったので、私はドアから顔を出して手招いた。


「日陰、傷は大丈夫? もう痛くない?」

「大丈夫だよお姉ちゃん。心配してくれてありがとう」


 ろうそくの火のような笑みを浮かべて、日陰が首をやや引っこめながら私の部屋へと入ってくる。所在なさげに部屋をくるりと回ったあと、ベッドに座る私の隣に腰かけた。


 時計の音でもあればよかったのだが、電子的な数字を映し出すだけのデジタルな世界に、人を思いやる温もりなどなかった。


 私は何も言わず、日陰の頭を撫でた。


「あのね、お母さんにネックレスを渡したんだ」

「うん。前から言ってた、柚原さんと選んだものだよね」


 日陰には最近、友達ができたらしい。まさか、と思ったけど、この前旧校舎へ向かう途中の廊下から日陰が話しているのをみかけて、本当のことなのだなと思った。


 よく付けているヘアピンも、その柚原さんから貰ったものらしい。そうやって大切な人、大切な物が増えていくのはすごくいい兆しだ。私や、この家以外にも楽しみを見つけられたら、きっと日陰の世界も様々な色に染まっていくはず。それはひとり立ちという意味でもそうだし、なにより人として大事なものを教えてくれると思ったのだ。


「でも、怒られちゃった。どこで盗んできたのって、何度もバイトして、お金を稼いで買ったんだよって言ったんだけど信じてくれなくて。お母さん、わたしに殺されるって思ってるみたい」

「・・・・・・なんでまた、そんな」

「首のね、大きさを聞いたの。店員さんがオーダーメイドにしたらどうかって言ってくれたから。最初はお母さんもね、ふつうに教えてくれたんだけど、今日はものすごい怒られちゃった。お母さんを殺すつもりだって。首を絞めて、殺すつもりだって」

「日陰・・・・・・」


 散らばっていた、蒼い宝石を思い出す。


 ――ひどい。


 日陰はあんなに頑張ってアルバイトをしていたのに。何度も面接をして、そのたびに落ちて、それでも諦めずに日陰は働き先を探して、ようやく見つかった場所で精一杯お金を稼いだのだ、それは誰のためでもない、お母さんのためなのに。そんな救われないことがあっていいのだろうか。


 日陰は、いつものように黒ずんだ瞳を虚空に投げて何かを見ていた。日陰は今、どう思っているのだろうか。悔しい、悲しい。そういった鋭い感情は見えない。けど、怒りや憎しみも、また、見えなかった。


「お姉ちゃん、わたし。お母さんを喜ばせたかったのに怒らせちゃった。やっぱり、ダメなのかな。わたし、どこかオカシイのかな」

「ううん。そんなことないよ日陰。おかしいのは」


 おかしいのは。


 そう、奥歯を軋ませていると、日陰が手の中から小さな指輪を出しておずおずと私の目の前に差し出した。


「日陰? どうしたの?」

「これ、お金が余ったからね。お姉ちゃんに買ってきたの。どんなものがいいのか、聞けばよかったのかもしれないけど、サプライズがいいって、思って」

「私、誕生日じゃないのに」

「でも、お姉ちゃんに、あげたくて、プレゼント。いつもありがとうって」

「・・・・・・・・・・・・ッ」


 私はその小さな体を抱きしめた。


 バスの中で見た、小太りの偉そうな男性を思い出す。


 なにが、なにが情性欠如だ。そんなもの、どこにもない。この優しい子の、どこにそんなものがあるというんだ。


「お姉ちゃん、痛いよ」

「うん、うん。でも、日陰は」


 日陰は、大丈夫だ。心理学だかなんだか知らないけど、そんなものに私の日陰が分かってたまるか。見知らぬ人を勝手に解剖して、知った気になるような、そんな人間に、日陰の気持ちを理解されてたまるか。


「優しいね、日陰は。ありがとう」


 指輪は、小さく、私の指にはうまくハマらなかった。それを見ると、日陰はひどく残念そうな顔をして項垂れる。


 私は無理矢理、骨が軋むのを我慢して指輪を通した。うっ血しそうなほどの圧迫感さえ、充足感に変わりつつあった。


 指輪をかざして、その輝きを誇りに思う。これは優しさの証だ。日陰と、私の、寄り添い合った輝きだ。


 もうちょっとだけ待っててね、日陰。


 私がもっと勉強して、頭がよくなって、一人でも生きていけるようになったら、こんな家出て行ってやる。


 そして、ここに棲み付く悪魔の何もかもを暴露して、然るべき手段で、行くべき場所へ行ってもらう。


 いま警察に通報しても、きっとすぐには対処してくれないだろう。それよりも、通報したと知った瞬間、お母さんが私たちに何をするか分かったものじゃない。


 だから、もっともっと、私が立派になって。もっと、普通の、人間に、普通の、幸せを手にしたその暁に――。


 ガタン。


 その時、家の中でなにか物音のようなものが聞こえた気がした。


 日陰に目くばせをすると、青紫色の唇が私に迫ってくる。


 あっという間に重なった唇は、もう何度目だろう。慣れにも近い感覚が、私を支配していた。


 私はベッドに押し倒されて、両腕を頭の上で組み伏せられる。どれだけ必死に抵抗しても、日陰の腕はビクともしない。どこにそんな力があるのだろう。日陰の腕には、青白い血管が浮いていた。


 だけど私は、日陰のすべてを受け入れてしまっていた。


 日陰がもし、これで救われるのだとしたら、いいって思った。背中に手を回すと、カサブタとなった箇所が指に引っ掻かる。


「ごめんね、私がもっと早く、帰ってきていたら」

「お姉ちゃんのせいじゃないよ、これはお仕置きだから。わたしが全部悪いんだもん」


 日陰はどんな目にあっても、人のせいにはしない。自分が悪いって、そう思い込んで、思い込まされて、生まれるはずの感情を制御されている。


「・・・・・・今週の土曜日、一緒に遊びにいこっか」


 本当は亮介くんとの約束があったのだけど、それよりも今は日陰の傍にいてあげたいと思った。


「お姉ちゃん、やっぱり、わたしと同じだね」


 日陰の口元が、糸に釣りあげられたように歪んでいく。そのまま裂けてしまうんじゃないかと思うほどに開き、並びの悪い歯がカタカタと音を鳴らす。


「行きたい、お姉ちゃんと、遊びに、行きたい」

「約束ね」

「嬉しい。ありがとう、お姉ちゃん」

「・・・・・・・・・・・・うん」


 日陰が私の胸に顔を埋めて、小さく吐息を漏らす。私は天井を見ながら、日陰の後頭部に手をやった。


 ボコ、とへこんだそこを、埋めるように、私は日陰を抱きしめた。

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