第二十九話
恋人と別れたあと部屋に戻ると寂しいと感じる。閑散とした静けさに自分の肩を抱いて何かを誤魔化すように身を縮めるが、本当にそれが亮介くんがいなくなった事によって生じるものなのかは疑問だった。
二の腕に立った鳥肌を何度も撫で、家族の帰りを待つ。お母さんは町内会の集まりで遅くなると言っていたから、今日のご飯は私が用意しなければならない。
日陰が帰ってきたら何を食べようか聞こうと思っていたのだけど、日陰はいまだに家には帰ってきていなかった。
メッセージも未読のままだし、どうしたんだろうとベッドに横たわってスマホを見つめる。
空いた指を無心で滑らせていくとアルバムの日陰というフォルダに差し掛かって、日付はこの間クリスマスツリーの下で撮ったものから三年前にまで遡る。
私が高校に受かって、お祝いに買って貰ったスマホを日陰に見せると、日陰はやや興奮気味に液晶をタッチして変わりゆく画面に夢中になっていた。その時の様子を撮ったのが、最初の写真。日陰の顔立ちもまだ幼く、髪型もおかっぱになっている。
写真を撮るから止まってと言っても日陰はふらふらと動くからどれもブレて撮れてしまっているが、それもまた躍動感を生みなかなか味のある一枚となっている。
写真はいい。どれだけ経っても褪せないどころか、こうして数年後に振り返って熟成された思い出を見ると楽しい気分になる。
次はいつ写真を撮ろうかな。そんなことを考えながらスマホを眺めていると。
『小春。ごめん、いま、これる、なんかいる』
亮介くんからのメッセージを知らせる通知バーが画面上に表示された。
しかし私は、まず文面に首を傾げた。
なんだか言葉が途切れ途切れのような気がする。いつもの亮介くんなら記号や絵文字を多く使うのだけど、今回のは少し様子が違うようだった。
『どうしたの?』
『いえのそとに、誰かいる、こっち見てる』
『工事の人とかかな?』
『ぜったいちがう、あれは』
『わかった。今すぐ行くから、近くにいったらまた連絡するね?』
『ごめん』
『全然いいよ』
どうしたんだろう亮介くん。
なにかあったら、電話でもいいのに。
私は時計をみやって、日陰に電話をかける。
コールはなるが、やはり日陰は応答しなかった。亮介くんの家に行くという趣旨だけメッセージで伝え、私は着替えてから家を出た。
七時頃ではあるけど外は暗く、街灯なしでは足元が見えなかった。たしかにこの暗さで誰かと目が合ったら、ちょっと怖いかもしれない。
さっき来た道をまた戻る。一度通ったはずなのに、すれ違う人たちはどこか慌てているようにも見える。ともすれば私の足取りが速いだけなのか。
バスに乗り込み、座席に座って車窓を見ると、向こう側に張り付いたカエルがじっと私を見つめていた。
鼓動するお腹が柔らかそうで、触ってみたい衝動に駆られる。窓に指を立ててお腹を撫でるように動かした。
すごいね。
私には、窓に張り付くことなんてできない。お腹をそんな風に動かすことも・・・・・・ちょっとはできるかも。けど、カエルのほうがよっぽど上手だ。
カエルは私の指に反応するように追いかけた。ぺたぺたと窓を伝い、太い指先が懸命に動いていた。
かわいいな。
つぶらな瞳が黒い光を宿して私を見つめる。
カエルがもう一つ、私の指に近づこうとすると、横を通り過ぎたトラックの風圧によって引き剥がれ飛んでいく。
いなくなった窓には、赤い雫が付いていた。
私は、空いたその指で、整理券と、運賃分のお金を掴むことしかできなかった。
バスを降り、冷たい風を浴びる。どちらがよかったかなんて、私には分からない。
ただ、きっと今頃コンクリートに横たわっているであろうものを考えると、脆いという感想しか述べようがなかった。
亮介くんの家に着くと、連絡をするより前に亮介くん本人が一目散にこちらへ走り寄ってきる。
その慌てようは明らかに普段の亮介くんとはかけ離れていた。
「どうしたの亮介くん。家の外に誰かいるって」
「違う違う、中に入ってきたんだ」
「え? どういうこと?」
亮介くんは私の肩を押してしきりに辺りを気にしていた。手は震えていて、きっとうまくタップができなかったのだろうと途切れ途切れのメッセージを思い出す。
「最初は外からこっちを見てたんだけど、いきなりいなくなって、そしたら階段をあがってくる音がしてっ」
「うん、うん。落ち着いて。それで外に出てきたんだね?」
「ああ、窓から逃げ出したよ」
「ご家族の方はいないの?」
「母ちゃんも父ちゃんもまだ帰ってきてない。だから鍵を開けておいたんだけど、入ってきやがった、クソッ!」
声が住宅街に響くと、亮介くんはハッとして口を手で覆う。この住宅街はどこか静かで、明かりがついている家も少ない。大通りから遠いこともあって車が通る音もあまり聞こえず、靴がコンクリートを踏む音が嫌に大きく感じた。
「ご家族が帰ってきたんじゃないの?」
「違う。母ちゃんも父ちゃんも帰ったらまずリビングに行くんだ。けど、あいつ、家に侵入したら真っ直ぐ階段を登ってきやがった。俺の家に、いていいやつじゃない」
私が話を聞きながら状況を整理していた時。
ふと、亮介くんの家の二階に明かりが灯った。
「お、俺の部屋だ・・・・・・」
亮介くんは完全に恐怖で腰が抜けてしまっていた。私もその異様な光景を目の当たりにすると、事態の緊急性が見えてきた。
一瞬、影が見えた。けれどすぐに電気は消え、再び辺りが暗くなる。
「やばい、小春。早く逃げないと、マジでヤバイって!」
「う、うん。でもどこに」
「わかんねーって! でも、ここにいたら絶対やばい。俺、警察に連絡するよ」
そういって亮介くんはポケットをまさぐる。
「って、あれ。スマホ、スマホがない! 部屋に置いてきちまった!」
「落ち着いて亮介くん、私が電話するよ」
亮介くんに言ったつもりではあったけど、本当は私自身もどうすればいいか分からなく軽いパニック状態になっていた。焦る指先を抑え、こういう時こそいつも通りに、とゆったりとした動きを意識する。
いち、いち。そこまで入力したところで、亮介くんが悲鳴をあげる。
リビングに明かりが灯った。
黒い影が窓に張り付き、カーテンの隙間から覗く眼球が、私たちを見ていた。
すぐに電気は消えて、亮介くんが私の腕を引っ張って逃げようとする。
私はコールのボタンを押そうと指を伸ばすが、突然表示された通知バーに阻まれて画面が変わってしまう。
『カエルさんはね、簡単に死んじゃうんだよ。手をもげば肉が飛び出て、目玉をくりぬけば胃を吐いて、潰すと内蔵が出て、引き裂くと動かなくなる。でもおたまじゃくしは殺さないんだよ。臭うから、すぐにバレちゃうでしょ。でも、大切な命だから、お祈りはしなきゃだめなんだ。でもね、人間って逆なんだよ。知ってた? お姉ちゃん。手足をもいで殺すんじゃなくて、殺してからもがなくちゃ。なにも教えてくれないよ。ただね、みんな優しいから、いっぱい血を出してくれるんだ。体の中には糞や尿が詰まってるから、不快にさせないように臭いを中和してくれるの。たくさん教えてもらわなきゃね、まだ知らないことばっかりだから』
・・・・・・・・・・・・。
「おい小春! どうしたんだ! 早くいかねーと、警察には電話したのか!?」
その時、家の扉がガタガタと音を立てゆっくりと開いた。
私と亮介くんは急いで家の裏側に周り息を潜めた。
少しでも声を出したら終わりだ。互いにそれを悟って、目を合わせたまま口を手で抑え続けた。手のひらはヨダレで汚れていた。臭い。
臭いがする。
おたまじゃくしは、殺さない。
ゆっくりと、顔をあげる。
十メートルほど離れた家の物陰から、猛禽類のような鋭い瞳が私たちのことをジッと見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます