第十九話

 その後は柚原さんが冬コーデに合う靴下が欲しいと言うのでわたしも付いて行った。というよりも、話しながら歩いていたらそういう運びとなった。


 わたしはお姉ちゃん以外と歩くといつも遅れるか、誰も追随しないか。その二択だったのだが、柚原さんはわたしの手を引いていろいろな場所へ連れて行ってくれる。


 靴下を買い、小さなビニール袋をぶらさげたままゲームセンターへ行き、なにをするのかと思ったら黄色いマレットを手渡されて緑色の台へと手招きされた。


 コインのような形をした平べったいものをがわたしの方へ飛んできて、それを打ち返す。


 あちらのゴールに入れれば良いというのはなんとなく分かったので、一度エアで動くキャップを押さえ狙いを定めようとする。けど、手首でそれを弾いてしまい、自分のゴールに入れてしまった。


 それを見た柚原さんが、お腹を抱えて笑っていた。わたしはその隙に柚原さんのゴールめがけて打ち込んだ。無人のゴールで、カランと音が鳴る。


 台から出ている空気がなくなり、表示されたスコアが点滅する。


 終わる頃にはわたしは汗をかいていた。運動して汗をかいたのなんて、中学生の時以来だった。汗に濡れた前髪は、しっかりとヘアピンにとめられてわたしの視界を邪魔しない。


 腕まくりをした柚原さんがマレットを戻してわたしのほうへやってくる。


「ボコボコにしようと思ったのに。藤宮って運動神経いいの」

「わかんない。でも昔陸上はやってたよ」

「似合わなすぎでしょ」


 柚原さんは胸元を開けて制汗スプレーを吹いた。せっけんのにおいがした。


「あんたも使う?」

「ううん。いらない」

「うらやましいね」


 自嘲するように笑った柚原さんは、今度は太鼓のバチを持ってわたしを呼んだ。


「知ってる曲ある?」

「・・・・・・アンパンマンマーチ」

「子供か」


 言いながら、柚原さんが太鼓を叩くとドン、という音と共に画面が切り替わる。レーンが二つ表示され、その上を赤い音符が流れていく。


 わたしが何をすればいいか分からないで立っていると、柚原さんがわたしの手を握って太鼓を叩いた。


 赤いマークが弾けて、花火のように散っていく。青いマークがきたら太鼓のはじっこを叩いて、細長いマークが来たら連続で叩く。


 だんだんと自分の右手がなにを叩いて左手がどこへ向かっているのか分からなくなってくる。それでもマークは止まってくれない。急いで、バチを打ち付ける。前のめりになって、気付けば必死に右手ばかりを動かしていた。


 終わってみれば、スコアはわたしの勝ちだった。さっきのゲームでもわたしが勝ったし、柚原さんはそこまでゲームが上手というわけではないらしい。けれどわたしの中に生まれたのは優越感ではなく、達成感だった。


「楽しいっしょ」


 わたしは息を切らしていた。返事をすることも忘れて、脈動する心臓に手を当てる。一瞬の圧力がわたしの全身に血液を送り、それが脳まで届くと、喧噪と電子音の中に混じるわたしの吐息が熱いものになっていることを認識する。


 無機質な伝達が毎秒何億と繰り返し、ドロドロのゼリーのような脳が、概念のない不透明な感情を処理してそれを感知した心臓が痙攣するように動き出す。一方通行ではない血の巡りに、肌が焼けていくような感覚を覚える。


 滲みだす汗はその残滓のようなもので、拾い上げると雨粒のように軽く触れただけで指先に同化する。


 わたしは頷いた。


 すると、柚原さんは嬉しそうに白い歯を見せた。


 頭蓋骨に守られた脆い肉の固まりが表情筋を釣りあげただけなのに、それを見るだけでわたしの口元にも力が入らなくなってくる。


 自分の体が誰かに操られているかのような感覚に陥るが、それは不快なものではなかった。


 柚原さんの後を、わたしは付いて行った。次は、どんな楽しいことが待っているのだろう。足を引きずっていることにも気付かないで、わたしは歩く。


 前みたいにはなれないかもしれないけど、もう一度だけ速く走ってみたい。そう思った。


 ゲームセンターを出て、デパートが立ち並ぶ道を通る。大きな螺旋階段を登って映画館の屋上に設置された公園に入る。


 柚原さんが奥で開いている屋台へ向かうと、両手にクレープを持って戻ってきた。ベンチに座って、舌を運ぶ。生クリームの乗ったバナナがひんやりと冷えていて美味しい。こんなに甘いもの、久しぶりに食べた。


「ナメクジより、美味しい」

「なに言ってんの」


 クレープの皮が喉に張り付いて咳き込むと、柚原さんがハンカチでわたしの口元を拭いてくれる。


「ゆっくり食べなって」

「うん」


 外の気温はやや低い。服から露出した肌が冷たい空気に触れて逆立っていく。もうじき雪が降る、そんな予感をさせた。


「あ、お金」

「いいって、奢るよ」

「でも」

「あんたは金貯めときなよ。プレゼントするんでしょ、お母さんに」

「うん。わかった。ありがとう柚原さん」

「どういたしまして」


 口にクレープを含んだまま、柚原さんがくぐもった声をこぼす。犬歯がいちごを噛み砕く様子を眺めていると、目が合った。長いまつ毛が眼球を披露するカーテンのように揺れ動く。ずっと見ていると、柚原さんが先に目を逸らした。


「友達?」

「なにが」

「わたしと柚原さんって、友達?」

「さあ、広いし。友達って」

「どれくらい広い?」

「藤宮ってさ、話題ひろげんの下手でしょ」

「言われたことない」

「じゃあ今言っとく」


 柚原さんは食べるのが遅かった。わたしがたいらげた後も、小さな唇でちょこちょこ食べている。


「なんで友達になってくれるの? 柚原さんは友達が欲しいの?」

「欲しいってわけじゃないけど」

「じゃあなんで?」

「そういうのってさ、気になっても黙っておくもんじゃない?」

「気になったら聞かないとわかんないよ」


 ベンチは狭く、柚原さんの二の腕がわたしの肩に触れる距離だった。服が擦れるたび、乾ききった音が鳴る。滑らかなものでは決してなかった。よく見たら、わたしが着ている服の肩口に穴が開いていた。


 柚原さんもそれに気付いたようだが、口から出てきたのは別の話だった。


「父親がさ、ヤクやって死んだんだよね」

「ヤク?」

「薬」

「薬なら、わたしもやってるよ」

「そういうんじゃなくてさ、もっと。非合法なもの」


 わたしは首を傾げた。


「最初に異変に気付いたのは高校に入ってすぐ。あたしが学校から帰るとさ、父親がテーブルに画用紙をたくさん広げてそれを手で破ってんの。なにしてんのって聞いたら、草むしりしてるってギンギンに開いた目で言ったんだ」


 柚原さんのクレープを食べる手は止まっていた。わたしはそんな手元をジっと見ていた。


「ヤバイよね。でもそういうもんなんだって。あの時、たぶん父親の視界は緑一色に染まってたんだよ」

「どうして分かるの?」

「それから少し経って、雪が積もってるって叫びながらビルから飛び降りたから。その時あたしも一緒にいてさ、ほんとに、ただ演奏会を見に行っただけなのに。急に、急にだよ。あの時みたいに目を見開いて、鍵のかかった窓を開けて七階から飛び降りたんだ。すごい音がした。今でも覚えてる」


 そうして、柚原さんがわたしを見る。


「この世にはさ、あたしたちには見えない世界を見てる人間がいる。どれだけ止めても、病院に連れて行っても、ダメだった。もう、父親にあたしの声なんてとどいちゃいなかった。でも恐ろしいのがさ、父親にとってはそれが正しい世界だったってことだよ。あたしね、父親が飛び降りた時、すぐにビルを降りて外に飛び出したんだ。父親はもちろん死んでたけど。ねぇ、藤宮。その時父親は、どんな顔をしてたと思う? 笑ってたと思う? 泣いてたと思う?」


 クイズかな、とわたしは考える。ちなみに正解率はゼロパーセント、と柚原さんが付け加える。


「分からなかった?」


 わたしが答えると、柚原さんは困ったように、けれど笑いながら頭をかいた。


「そんな高い場所から落ちたら、きっと頭は割れるから、どんな顔しているかは分からなかったんじゃない?」

「・・・・・・正解。うつぶせになっててね、あたしが体を起こしたら、腐ったいちじくみたいな頭が出てきて、顔なんてどこにもなかった。当然ニュースにもなったし、調べれば新聞の記事のひとつやふたつ出てくると思う」


 柚原さんはクレープの中に眠る真っ赤なイチゴを見て、食べずに紙にくるんだ。


「正しいのはさ、それでもこの世界だと思う。父親が雪が積もってると思っても、そこにはコンクリートしかなくて、頭が割れて、死んだんだから。父親が間違ってる。父親がオカシイだけだった」

「うん、わたしもそうだと思う」

「藤宮なら、分かる? 父親が最後、何を想っていたか。即死だったのか。それとも意識がゆるやかに遠のていったのか、その時、後悔したのか。やっぱりオカシイまま、死んでいったのか」

「わかんないよ。わたし、柚原さんのお父さんじゃないもん」

「そりゃ、そうだ」


 夕焼けは一瞬に、すぐ夜を運んでくる。昼間の時間が短くなると、一日が短く感じる。


「まわりはさ、父親のこといかれてたとか、オカシイとか、そんなことばっかり言ってたよ。でも、あたしはそうは思わない。たしかにあたしたちとは見てる世界が違ってたかもしれないけど、変わってたわけじゃない。だってさ、父親はどれだけ視界が幻覚に溢れても、一度も誰かを傷つけることはしなかった。あたしの目に見えてた父親は、昔の、優しい父親のままだった」


 屋上から人が減っていく。まるで、わたしたちから逃げていくようだった。


「・・・・・・・・・・・・藤宮、あんたもそうでしょ」

「え?」

「あんたの世界には、なにが見えてるの?」

「柚原さんが見えてるよ」

「あたしの髪の色、なにに見える?」

「赤っぽい、茶色」


 言うと、柚原さんは悲し気に笑った。


「助けたいんだ」

「誰を?」

「藤宮を」


 じっと、見つめ合う。


 柚原さんの手は震えていたが、細く鋭い瞳は強い光を宿している。


「たしかにこの世にはさ、人を簡単に殺せて、それでも何も思わないような狂った人間がいるよ。それこそ、この間起きたバラバラ殺人みたいに。でも、あんたはそうじゃないでしょ」

「そうじゃないって?」

「踏みとどまれるでしょ。誰かを殺したいなんて、誰でも一度は思う。けど、そこで踏みとどまれるかどうかでしょ。ねぇ、藤宮。あんたは、あたしの父親と一緒でしょ?」


 柚原さんの指が、わたしの前髪に触れる。ヘアピンがずれて、頭皮が引っ張られる。 


「見てる世界が違くたって、誰かを殺したりしない。本当は優しい、普通の人間でしょ」


 柚原さんの腕が、影となりわたしの顔を隠す。


 わたしは棚橋を殺したい。殺したいという行為に意味があるわけじゃない。ただ、お姉ちゃんからあいつを遠ざけるには、存在を消すしかない。存在を消すには、殺すしかない。殺す以外に何か方法があって、それが殺すよりも簡単なら、きっとそっちを選ぶ。けど、そんなものこの世には存在しない。


 緑色の手足を引きちぎったときに、それは分かった。


「緑色・・・・・・」


 そのとき、わたしはふと思った。


 わたしが殺していたのは、本当にカエルなのだろうか。

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