第二十話
柚原さんがクレープを食べ終え茜色の陽ざしに横顔を晒していると、冷たい風が耳を撫でていく。冷たいはずなのに徐々に熱を帯びていくそれは、柚原さんのどこかに似ている気がした。
「藤宮」
「なに?」
「約束」
柚原さんが小指を立ててわたしの目の前に差し出してくる。
「絶対に、誰も傷つけないって約束」
「できないよそんなこと」
「できなくても、して」
おねがい、と柚原さんが最後に付け加える。柚原さんがどうしてそこまでわたしを気にかけるのかが分からなかった。もしかして、わたしに殺されることを恐れているのだろうか。だとしたらすごく回りくどいことをしていると思った。
わたしは言われた通りに小指を絡ませて、強く握った。柚原さんの手からは先ほどの制汗スプレーとは違う、レモンのようなにおいがした。
「・・・・・・・・・・・・」
柚原さんの顔を見る。そこに、悪意や憎悪のような腐敗した感情は見当たらない。それなのに、どうしてこんなにも、いろいろなにおいがするのだろう。まるで何かをひた隠すような、強い香りで覆われた綺麗な輪郭をなぞるように見定める。
手が血で汚れたら、わたしも真似しようか。
「あてっ」
あやうく舌を噛みそうになった。わたしの脳天にチョップをくらわした柚原さんは咎めるように眉を下げた。
「その顔やめなって」
「どの顔?」
「猛禽類」
「自分じゃわかんないよ。ふが」
今度は鼻をつままれた。息ができなくて、後ろにひっくり返りそうになる。
「誰かを殺すってことは、誰かの楽しみを奪うってことなんだよ。藤宮、今日は楽しくなかった?」
「ううん。楽しかった」
「また来たいでしょ」
「また来たい」
「じゃあ、殺しちゃだめじゃん」
「なんで?」
「それは誰にでもあるものだから」
柚原さんのお父さんのことを言っているのだろうか。だとしたらそれは、違う気がした。自分の意思で飛び降りたのだから、きっと上空から地上へと落ちる際に感じる風こそが楽しみだったのではないのか。
もしくは、自分の異常な行動により周囲の人間が眼を剥き感情が跳ね、今後の人生において枷となる呪いのようなものをかけるのが楽しかったのではないか。
ただ、仮にそうだとしてもわたしと柚原さんのお父さんが同じというわけではない。銃口を突きつけられれば怖いし、大好きなハンバーグの上にギロチンがあればきっと食べない。
わたしと同じなのは、この世でお姉ちゃんだけだ。
「藤宮、わかった?」
「・・・・・・・・・・・・わかった」
けど、今日みたいに遊ぶのはまたやりたい。なんだかこれまでにないような高揚感と幸せを覚えた。わたし一人じゃ決して味わえないそれを、奪うということはどうにも度し難い行為に思えて。
「殺すの、やめる」
振りかざしたものなど最初からなかったので、その手を降ろすことは簡単だった。
別の方法を探すのは億劫だけど、効率を計るよりも短い距離でお姉ちゃんを手に入れられさえすればわたしはよかった。
「ねえ、柚原さん。帰りに学校寄ってもいい?」
わたしは柚原さんを連れて学校の中庭に来ていた。
駐車場でひとつ、石を拾って焼却炉の前に行く。積み上げられた石の山に、拾った石を落ちないように優しく置く。
「なにそれ」
「ワタ」
「田尻の?」
「うん」
積み上げられた石はこれで十一個となった。最初は百個積み上げれば何かが起きると思っていた。けれど、きっと同じことを繰り返しても特別なことは起こらない。この世の中は勉強のように反復していれば上達するものとは違うのだ。
「カエルと、ワタ」
「石の大きさ同じでいいの?」
「同じでいいよ」
星空はまだ見えない。
あの日死んでいった命は雲の向こうでも輝いているだろうか。みんな一緒に殺してあげたから、きっと同じ場所で、家族みたいに過ごせているだろうか。
そう考えると、ワタもう少しだけ早く死ねば寂しくないのになんて思ったりもした。けど、田尻さんはまだ生きている。会いたいとは、もう思っていないのだろう。
柚原さんがわたしの隣に屈んで、並んだ石を眺める。
「もしあたしが死んでも、同じ大きさの石を置く?」
柚原さんは寂しそうに笑った。
「ちょっとだけなら、大きくしてもいいよ」
校舎の光が消え、当たりがいっきに暗くなる。どこかからミミズクの鳴き声が聞こえた。
「だって柚原さんのほうが体が大きいでしょ」
「命はみな平等、なんて言い始めたらどうしようかと思った」
「平等だよ。みんな首切れば、死ぬんだから」
地面を指でなぞる。爪痕が砂をかきわけ色濃く残る。指先に石がくっついて、それを息で飛ばすと遠くの柵に当たって落ちる。軽い。
柚原さんはその帰り、首を切り落としても一年以上生きたニワトリの話をしてくれた。
強い意志、諦めない心、誰かを慈しむ優しさ、勇気、奇跡。そんなような非現実的で科学的根拠のない空想論根性論感情論は電灯周辺を羽ばたくカゲロウのように滑稽だった。
血が固まって脳の一部が機能さえしていれば、生きるだけならきっとできるだろう。ニワトリの脳幹は小さいので、切り落とした箇所さえ噛み合えば体の機能も失われないはずだった。それも誰かの手助けがあってこそ。紐解いてみればいとも簡単なカラクリで、人工的で、脚色された作り話だった。
けれどわたしは、いつのまにかそのニワトリの話に夢中になっていた。
理由はわからない。
ただ、こうして遊んで、お話をして、帰る夜道は一人の時よりもすごく楽しくて。
不思議と左足を重いとは感じなかった。
「ばいばい、柚原さん」
家の前までついて振り返ると、柚原さんはわたしの後ろでポケットに手を入れたまま佇んでいた。
「また遊ぼうね」
「ん」
ぶっきらぼうな柚原さんに、今度はわたしのほうから小指を差し出す。柚原さんは照れくさそうに小指を絡ませてきた。
柚原さんが去ったあとも、わたしは家に入らず夜風に当たっていた。
手放し難く、かけがえのない。失ったらきっと悲しい存在を、たぶん。大切な存在という。お姉ちゃんが言っていた、わたしにもいつかできる、大切な存在。
それはもしかしたら柚原さんなのかもしれなくて、血の巡る指先と、ひきつくこめかみが、息をひそめたように静かになる。
ハサミを握るよりも誰かの手を握りたい。心細くなった手で触れたヘアピンは。
中庭で拾い上げたワタのように冷たかった。
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