第十七話
双頭の蛇、単眼の豚、顎から顎の生えた魚、羽のない鶏、鼻が額に付いている猿、足が六本ある牛、角ではなくイボが生え出た鹿、前頭部が割れた犬、腹に頭があるカマキリ、体が桃色に染まったカブトムシ、花弁が縦長に伸びたコスモス、茎がめしべの三十倍ほどに膨れ上がったタンポポ。
この世界には生まれたその瞬間から他とは違う部位を持った個体がいる。
けれど形が違うだけで、中身は同じだ。中身というのは、遺伝子、本能、そういったもののことであり内蔵や骨格など形あるものではない。
それぞれの個体は、自分が他と違うことになんてまるで気付いていないように一緒に餌を食べたりしている。溶け込むように、群れの中にいる。それは外から見れば、オカシイことだった。
でも、きっとそれでもいいのだろう。何故ならそれらの個体は他の健常な個体と共に成長していくわけではないから、自動的に淘汰されていくから。どうだっていいのだ。
やがて口がなくなり餓死して、飛べないため天敵に捕食され、鼻が目と同化して息ができなくなり、骨が心臓を貫通し、内蔵機能が異常をきたしホルモンが狂って過剰分泌され、鮮やかな色は太陽の光をマトモに喰らい、雨を受け取れない花弁は腐っていく。
同じように生きるなんて、無理なのだ。それはどうしようもなく、最初から最期まで決まっている。
当然人間にも、同じことは言える。
どれだけ必死に、健気に、生きようとしても。
形は違えど、中身は他の子となんら変わらない無邪気なものだったとしても。
そういった個体は、他の健常な個体と同じ道は辿らない。
わたしは砂を手で払うと、そこに屈んで、小さな蟻が行列を作って穴に入っていく光景を眺めた。
前に死んだちょうちょうはもうどこにもいない。いるとしたら、きっとこの穴の中だろうか。穴の中にいる女王蟻の、お腹の中だろうか。そういう風に、宿っていることを願うしかない。
どちらにせよ、飛べないちょうちょうに未来はなかった。どうあがいても、どれだけ生きたくても、仲間たちが羽ばたく空に憧れても。未来はなかった。
胴体から羽が取れていく瞬間、ちょうちょうは何を思ったのだろう。きっと、死にたくない、生きたい。
そんなこと、微塵も思わなかったのだろう。
だって、蜘蛛の巣にひっかっかった瞬間から、そのちょうちょうはクルッテいたのだ。
正常状態を失った精神が生むものに、理解など到底及ばない。
わたしは蟻たちの前に、保健室でもらった飴をひとつ置いた。においに釣られて、黒い塊が集まってくる。
もし、その小さな体のナカに、まだあのちょうちょうがいるのなら、わたしは言ってあげたい。
異常正常そんな概念、どこにもない。みんな、正常なフリをしているだけで、それができるかどうかの違いでしかないのだ。
殺したいくせに殺さない。そんなような存在ばかりで成りたった世界に、絶望も希望も持ちやしない。だから、いいんだよ。独りぼっちじゃないんだよ。
あなたの家族だけは、きっと同じだから。
特別棟に渡る廊下を歩くお姉ちゃんに、わたしは手を振った。お姉ちゃんは絶対気付いてくれるだろうなって思った。
やっぱりお姉ちゃんはこちらを見て、顔を綻ばせて手を振ってくれた。
隣にいた棚橋は、わたしを見ると顔を歪ませてこちらからは見えない場所へと隠れた。
対照的な態度だけど、それでもいい。どうせお前には、分からない。
先生にも怒られてばっかりだけど、バイトもクビになっちゃったけど。
わたしとお姉ちゃんだけが一緒なら、もう、それでいいのだ。
「殺さないの?」
突然肩を叩かれて、わたしはびっくりしてすっ転ぶ。お尻が硬い地面に当たって痛かった。
見上げる空に重なったのは赤みを含んだ茶色の髪。柚原さんだった。
「殺したい」
わたしは廊下を見上げたまま、呟いた。
「そっちじゃなくて、こっち」
柚原さんは地面に転がる飴玉を指差して、近くに屈んだ。柚原さんの口には、棒付きの飴が咥えられていた。
「蟻は殺さないよ」
「なんで?」
「殺す理由がないから」
「じゃあ、さっき睨みつけてた人は?」
「殺してやる」
すると、額に小さな衝撃が走った。まぶたをあげると、柚原さんの細い指先がわたしに向いていた。
「あんたさ、急に瞳孔開くの怖いからやめたほうがいいよ」
「どうこう?」
「普段はうさぎみたいにひょこひょこしてんのに、急に猛禽類みたいになるってこと。クラスのみんなも怖がってるから、それ」
わたしが首を傾げると「自覚ないんか」と呆れられた。
「あたしのも食うかな、蟻」
「食べると思うよ。でも、お腹いっぱいになっちゃうかも」
「虫のくせに贅沢なこと言うな、ほら、食え」
柚原さんは口から飴を取り出すと、せっかく綺麗に隊列を組んでいた蟻の上にそれを落とす。当然蟻は飴玉に埋もれてしまい、動けなくなっている個体もいた。粘ついた飴から逃れることは、蟻には難しいことだった。
「たぶん死ぬねこの蟻」
「別にいいっしょ、いっぱいるんだし」
「そういう問題じゃないよ。一匹一匹、生きてるんだから」
柚原さんはポケットからもう一つ、飴を取り出して再び口に含んだ。マスカットの爽やかな香りがした。
前もそうだったけど、柚原さんからはいろんな香りがする。
「藤宮はこれから帰り?」
「うん。ほんとうはバイトだったんだけど、昨日クビになっちゃった」
「ふーん」
柚原さんは相槌を打つだけだった。お姉ちゃんだったらきっと、もっと優しい言葉をかけてくれる。だってお姉ちゃんはわたしのことが好きなのだから、当たり前だ。
「わたしって、オカシイから」
「知ってるけど、そんなん」
「でも柚原さんは、前に変人ぶるなって言ったよね」
矛盾しているなって思って聞いてみると、柚原さんはやはり表情を変えず目も合わせなかった。高い鼻がスンと鳴って、口火を切る音となる。
「藤宮はオカシイよ、ちょうオカシイ奴。けど、変ではないっしょ」
「それって、違うことなの?」
「オカシイ奴、人とは違う奴。いるけどさ、変ではないじゃん。それもそれで、そいつもそいつじゃん」
柚原さんの言っていることを咀嚼して理解しようと頑張ってみるけれど、いまいちわたしには分からなかった。
けれど柚原さんの抑揚のない声は、これまで聞いてきた人のものとは少し違う気がした。怒鳴るような大きさもない、𠮟りつけるような甲高さもない。お姉ちゃんのように、優しいものでもない。それなのに、まるで乳母車に乗せられているかのような安心感があった。
「足、だいじょうぶなん? あれからなんも来なかったけど」
「一回スタンプ送ったよ」
「え、あれ来てくれって意味だった? もしかして」
「ううん。これからよろしくねって意味で送った」
「そっか、そりゃどうも」
「田尻さんと北鯖石さんは?」
「あいつらは先帰ったよ。北鯖石は親がこれだから」
柚原さんは手の甲を上に向けて口元まで運んだ。お金持ち?
「田尻は知らんけど、なんかペットショップに行ってんのを一回見たから、またそれかも」
「猫、やっぱり寂しいのかな」
「大事にしてたからなあ」
柚原さんはよいしょと腰をあげる。わたしは柚原さんの顔を追って、そのまま見上げる形となる。視界に入ったのは、中庭で見た時と同じ、白い絹だった。
「・・・・・・なんでスカートめくりあげてんの」
「おかえし?」
「いらないから」
パンツを見られるのは恥ずかしいってお姉ちゃんが言っていた。だからわたしも、スカートの奥にはいつしか恥じらいを持つようになっていた。そんなものを覗き見てしまったのだから、わたしも柚原さんに見せなきゃと思ったのだ。
それも余計なお節介だったらしく、わたしはスカートの丈を膝下まで調整しなおす。
「藤宮、バイトしてたんだ。なんか欲しいものでもあんの?」
「お母さんがもうすぐで誕生日だから、プレゼントを買いたくて。一応七千円は貰えたんだけど、お母さん喜んでくれるかな」
「どうだろうね。母親ならなんでも喜んでくれそうだけど。ネックレスとかだと、嬉しいかもね。普段から身に着けられるし」
「ネックレス・・・・・・」
そっかネックレスか。いいな。宝石がいっぱい首を囲むお母さんの姿を想像すると、すごく綺麗だった。
けどネックレスっていくらぐらいするんだろう。七千円で買えるのだろうか。
わたしが悩んでいると、柚原さんがカバンを背負って肩をあげた。
「あたし今日は暇だし、これから見に行く? ネックレス」
「いいの?」
「いいよ、あたしも欲しいアクセあったし、ついで」
柚原さんの耳に付いた銀色のピアスが太陽の光を反射する。わたしはそういったものに疎いので、付いてきてくれるのはすごくありがたかった。
けど、それなら、お姉ちゃんと一緒に行きたい。
お姉ちゃんとお母さんへのプレゼントを選ぶほうが至極当然で、潤滑で、阻むものがない。
「ほら、どうすんの」
「・・・・・・うん、行こ」
少し考えて、見に行くだけならいいかと結論付けた。
「ありがとう、柚原さん」
お礼を言うと、柚原さんがわたしの背中を軽く押した。わたしはよろめいて、片足でピョンピョン跳ねる。
わたしの視界に、追うものはなかった。
柚原さんがやや遅れてわたしの隣を歩く。
「人を殺したがるくらいで、変人ぶんな」
頬を人差し指で突かれる。前も同じようなことを言われた。
そういえば裁縫ハサミを教室の裁縫箱に仕舞ってきたことを、わたしは思い出していた。空いたポケットをまさぐると、貰った最後の飴玉が出てきた。
柚原さんの真似をしたわけじゃないけれど、包装を解いてひとつ、口に放る。
それは柚原さんのものと同じ、マスカットの香りがした。
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