第十六話

 フクシュウ。


 そう、フクシュウだ。


 習ったことをもう一度振り返り、内包したものが泡ぶくとなって消えないように手に収める。


 わたしはこれまで、いろいろなことを教わった。してはいけないこと、してもいいこと、するべきこと、してはいけないがしても咎められはしないこと。細い平均台の上を歩くような行動理念思想概念の数々を人虫動物魚命に教わった。


 それを忘れないように、わたしは今ここでフクシュウをしなければならない。


 マイナスの符号はきっと今まで、ゼロについていたのだ。


 ユキも、カタツムリも、カゲロウも、ハムスターも、カエルも、ワタも、わたしにとってゼロにしか過ぎなかったのだ。


 ゼロにどれだけかけても、ゼロのまま。なら、この男は。


 わたしにとって邪魔で、害悪で、切除しなければならない大きな大きな腫瘍であるならば。陰湿に塗れた憎悪と悪意と殺意と憤怒と遺恨、なにもかもが地に付くほど墜ちたものであれば、それはゼロの境界線を超えた形ある数に含まれる。か細いそれに刃を突き立てて、抉った血肉を散りばめた時、マイナスはようやくプラスになる。


 ようやく分かった、この世の仕組み。いろいろな人が教えてくれたヒントを頼りに、わたしはようやく答えに辿り着く。


 腹奥で煮立つように沸騰する感情でこの男を殺してこそ、わたしはようやく、百点でもゼロ点でもない、誰に怒られることもない点数を出すことができるのだ。


「日陰ちゃん?」


 わたしを見下ろす眼球に、その刃先を突き立ててやろうと思った。躊躇はなかった。正当な理由で下された殺戮は、罪に問われないと確信があった。誰もが赦してくれる、誰もが喜んでくれる。誰もがわたしを褒めてくれる。お母さんだって、ようやく笑ってくれる。


 それに、お姉ちゃんも。


 ――日陰は、大丈夫だよ。


 お姉ちゃんの声が聞こえた気がして見上げると、満点の夜空がわたしを照らしていた。


 星の一つ一つがこの地上から朽ちた命であるならば、どうしてそんな羨ましげにわたしたちを見下ろすのだろう。あれだけ輝いているのに、魂魄を焼きつくしてでも伝えたいなにかがあるのだろうか。それとも、取りこぼした忘れ物に、嫉妬しているのだろうか。


 合計十個の星が連結し、集合体となってわたしの視界を埋め尽くす。


 ゲコ、と、また。鈍い音がお姉ちゃんの声に重なった。


 ハサミを握る手に力が入らなくなる。


 お腹の底で、なにかが蠢いていた。


 何度も喉奥が痙攣して胃酸を吐き出すが、先ほど出すものは出してしまったので、胸が震えるばかりで口からは酸っぱいような異臭しか現れない。


 棚橋がわたしに手を差し伸べた時、舌の根元に何かが絡みいてきて、奥歯で拾い、地面に吐き出した。


 粘液に塗れ、形を歪ませ融解しきったドロドロの死体が、コンクリートの上に横たわった。


 棚橋が小さな悲鳴をあげたのが聞こえた。差し伸べた手を引っこめ、一歩。また一歩と後退していく。


「ごめんなさい。吐いちゃって、ごめんなさい」


 ほとんど本能的に出た言葉だった。喧噪は、わたしに赦しをくれることはない。


「なんで、口からそんなものが出てくるんだよ」


 棚橋の青ざめた顔が白昼灯に照らされて、ヤドクガエルのような色になっていた。


「殺しちゃって、ごめんなさい」

「なんで、いきなり泣いてるんだよ」

「ごめんなさい、ごめんなさい・・・・・・ああ、あああああ」

「お、おい・・・・・・」

「死ね、死ね死ね死ね」


 零した涙は八粒。傘を滑り落ちる通り雨のように地面を濡らしたあと、わたしの瞼を晴れ晴れとしたものにする。


「そんな気はしてたけど、お前。やっぱおかしいよ」


 熱のない言葉は、わたしの頭を蹴とばすようだった。いなくなれ、消えろ。どっかいけ。わたしは念仏のように唱え続けた。


 気付けば棚橋は姿を消していた。


 咳き込みながらも、わたしは立ち上がり、人込みをかきわけて家に帰った。


 玄関にはお姉ちゃんの靴が置いてあったが、とても顔を合わせる気分ではなかった。お姉ちゃんに会いたかったはずなのに、どうにも矛盾した自分の意思に疑問を持つ。


 けどそれは、右往左往し血管のように入り乱れる思想が伸縮し、結び、解かれた証拠でもあった。


 これもフクシュウであっただろうか。


 裁縫バサミを自分の人差し指にあてがって、思い切り取っ手を握りしめた。皮が切れ、果実が弾けるような音と共に血が跳び散る。硬いものに当たり、刃が通らなくなる。


 わたしは先生に言われた通り、根元を支点に指を切り落とそうとした。


 だけど、それより先まで進むことができなかった。


 ・・・・・・痛かったのだ。


 お仕置きでは味わえない自己中心的なものに翻弄される痛覚は、辛味に痺れた唇を熱湯に付けるかのように我慢しがたいものだった。


 わたしはハサミを布団に突き刺して、綿を取り出した。血が染み込み、涙が赤を薄め、純水に近づけていく。


 痛みに支配された世界はどうにもこうにも不快で不可解で、けれど。


 やっぱりお姉ちゃんに会いたい。そう思わせてくれた。



 わたしがバイト先から解雇を通告されたのはそれから一週間ほど経ってからだった。


 なにかをして、それがきっかけで言われたわけではなかった。暇な時間を見つけ、横川店長がわたしを呼び、そこでゆっくりと、緩やかに、整然と、説明を施した。


 これまで受けた損害を指摘され、うちには置いておけないと横川店長は言った。丸眼鏡の奥で光る瞳は常に茶色のテーブルに向けられていて、光彩は濁っていた。


 わたしは自分の行いを振り返る。怒られたのはくじの件を含めて計四十七回。そのどこに決定的ななにかがあったのかは分からない。


 ただ、わたしはなんとなくだけど、着替えている所を横川店長に見られた頃から態度が急変したような気がしてならなかった。


 露出されたわたしの背中を見た横川店長の顔は、指先で潰した赤虫のように閑散としていた。


 すべての話を終え、わたしはこれまで働いた分の給料を横川店長から受け取った。千円札が、七枚ほど入っていた。


 わたしは茶封筒をカバンに仕舞って、席を立つ。


「これは、わたしが悪い事をしたから、そのお仕置きですか?」


 それなら納得がいく。そう思って聞くと、そこで初めて横川店長が顔をあげてわたしを見た。太い喉仏が中にゴリっと埋め込まれ、額に汗が滲みだす。横川店長は、なにかを恐れているようにも見えた。


「違うよ藤宮さん。これはね、処置というんだ」


 あくまで義務的なもので、私情を挟んでいるわけではない、と横川店長が付け加える。 わたしは別に、そういうことが聞きたかったわけじゃないんだけど。


 このまま問いただしてもきちんとした答えを聞き出すことはできそうになかったので、わたしは両手をお腹の前まで持ってきて、深く頭を下げた。


「ありがとうございました、店長。いろいろ教えてくれて、すごく嬉しかったです。それから、迷惑ばっかりかけてごめんなさい」


 横川店長は唇を少し動かして、わたしを呼び止めるような仕草を見せた。けれどそれは段々と形を崩していき、伸ばしかけた手はシワの寄った口元に運ばれていった。


「すまない・・・・・・けど・・・・・・」


 扉を閉める際、横川店長の、小さな呟きをわたしの耳は確かに捉えた。


「君と関わっていてはよくないことが起きる。そんな気がするんだよ・・・・・・」

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