第十五話

 小さな弁当箱に入った硬い白米を歯で削りながら飲み込むと、喉に血のようなものが滲む感覚がして、ケチャップのかかったウインナーを口の中で転がすと人の指でも嚙みちぎっているかのようだった。


 ブロッコリーに付着したマヨネーズは焦げていて、ミートボールに突き刺さった剣を模したピンからしたたる赤褐色のソースを唇につける。舌で舐めとると、隣のトマトの風味が混ざっていた。


 一人の昼食を終え、教科書と裁縫道具を持って家庭科室へ向かう。


 家庭科はわたしの大好きな教科だった。配られた布生地は肌触りがとてもよく、小さい頃使っていた毛布を思い出す。午後一番ということもあって温かい眠気がやってきて、こっくり船をこぐとミシンの角に頭をぶつけた。


 だいたい四人で一つの班を作る。わたしは田尻たじりさんと一緒だったので、隣に座って話しかけた。


「楽しいね、家庭科」


 浮き足立つわたしとは裏腹に、田尻さんはピンと張った糸のような目でこちらを睨んだ。舌打ちを込めて、ぶっきらぼうに「ねむい」と返事をする田尻さんに、わたしは詰め寄る。


「猫いなくなっちゃって、大丈夫?」

「はぁ?」

「猫って死んじゃったら、また飼いたくなったりしないの?」

「それ、どういうつもりで聞いてるの? 喧嘩うってるんだったら、やめて。すごく不快」


 田尻さんからわたしに向けられる嫌悪感は本物だった。わたしはしまったと思い、すぐに頭を下げて謝った。


「ごめんね田尻さん。でも、寂しいかなって思ったの。大事な猫が死んじゃって、大事なものって失うと辛いんでしょ?」

「やばいよね」


 わたしの質問には答えず、田尻さんは他の子に目くばせをした。話を聞いていた回りの子は、困ったように笑っていた。


 それから何回か話しかけたけど返事がなかったので、わたしは課題であるキーホルダー作りに専念することにした。


 ミシンも楽しいけど、わたしは一本一本の糸を紡いでいくのが好きだった。緑の生地を裁縫バサミで切って、形を作っていく。今回の授業では、くまのキーホルダーを作るつもりだった。カバンにつけたら、きっとかわいいなって思ったのだ。


 それに何かを取り出すとき、キーホルダーがあったほうが楽だし効率的だ。突然の事態にも対応できるようになる。


「切りづらかったら、ハサミの根元を使うといいわよ」


 悪戦苦闘しているわたしを見兼ねてか、家庭科の先生がそう教えてくれた。支点力点、そういった原理も含めて分かりやすく説明してくれたのですんなりと理解することができた。


 そうか、切れないものは、根元を使えばいいのか。


 わたしは緑の生地にハサミを押し付けて、押し潰すように刃を交えた。ジョリジョリ、ゴリゴリ。なにかを切るというよりは、切断するような感覚だった。


 何層にも重ねて、くまの形に近づけていく。圧縮するよりはところどころに空洞を作って柔らかさを出すことにした。それに見た目も、ゲームに出てくるキャラクターみたいでかわいい。 次に先生に声をかけられた時には、教室には誰もいなくなっていた。



「もう時間よ、藤宮さん」


 全然気が付かなかった。


 どうやら夢中になっていたらしく、時計はさっき見た時よりも半周程回っていた。それなのに、手元のくまはまだ頭の部分しか出来ていなかった。不完全な生首をぶらさげて、下から覗き込む。


「続きはまた今度ね。実践だけじゃなく、今日習ったことを家で復習することも大事よ」

「復習」

「そう、復習をしっかりね」


 くまの生首の中は、空洞だった。それは当然だ。生地で作ったのだから。


 だけどなんだか、物足りないというか。


 ああ、これは偽物なんだなとわたしは理解して、裁縫バサミをポケットに仕舞うと、少しの寂しさを残したまま家庭科室を後にした。

 


 放課後、バイトのシフトは今日は入っていなかったのでどうしようと教室を見渡すと、北鯖石きたさばいしさんが田尻さんと話をしているのが見えたのでわたしは走って声をかけた。


「なに話してるの?」


 二人の視線がわたしの首元に突き刺さる。それより上には、あげようとしなかった。床とわたしの首を交互に見ながら、田尻さんが「なに?」と反応してくれる。だけど上体は反れていて、わたしから逃げるようだった。


「わたしも混ぜて」

「あー、じゃ、そういうことだから、また明日なー」


 北鯖石さんはわたしを一度も見ることをせず、背中を向けて教室から出て行ってしまった。田尻さんも何か言おうとしていたようだが、北鯖石さんが消えるほうが早かった。


「そ、そうだ。今日は買い物してかなきゃだったんだ」


 次いで田尻さんも後を追うように走っていく。


「あ、待って」


 せっかくお話しできるようになったのに。もしかしたら友達になれるかもしれないのに。


 田尻さんたちを追いかける。


 けど、わたしの足は全然前に進んでくれない。


「わ」


 床に顔を打ち付けて、廊下に 乾いた音が響く。何人かがわたしを見たけど、手を差し伸べる人はいなかった。


 スマホで柚原さんにメッセージを送ることにした。


『一緒に帰ろ』


 返信はこなかった。


 そういえば柚原さんだけはホームルームが終わってすぐに教室を飛び出していた。なにか用事があったのかもしれない。


 お姉ちゃんの教室に顔を出したけど、姿は見えず、わたしは結局一人で家に帰った。


 なんだか最近、お姉ちゃんとあまり過ごせていない。


 わたしが家に帰ってもお姉ちゃんはいないことが多く、夕食後にようやく帰ってくることが多くなっていた。お姉ちゃんが帰ってこないことはお母さんも分かっているらしく、そういう時は決まって夕ご飯は納豆と味噌汁だけだった。


 お姉ちゃんの部屋に行ってもあまり相手にはしてくれなくて、ずっとスマホに夢中になっているお姉ちゃんの横でわたしは漫画を読むばかりだ。もう何冊も同じ本を読んでいる。お姉ちゃんのそばにいられるだけで幸せなのは間違いないのだけど、なにか、なにか今までと違う気がした。


 せっかくお姉ちゃんの正体を暴いて、一緒に場所に堕ちていくはずだったのに。


 夕暮れ時にようやく家に着く。やはりお姉ちゃんは帰ってきてなかった。


 わたしは寂しくて、お姉ちゃんの部屋へ向かった。


 ベッドの毛布はいつもより乱れていた。スリッパも反対になっていて、急いで家を出て行ったことが窺える。


 カーテンの締め切った部屋では心地よい暗闇がわたしを包み込む。布団に腕を入れて、感じる冷たさが快感に似たなにかを連れてくる。


 そんなことをして遊んでいたら、気付けばドアが開いていた。いつから開いていたのだろう。わたしの頭上にはお母さんが立っていた。


 わたしはお母さんに服を脱ぐよう命令され、制服のリボンを解いた。ブラウスのボタンを外しているあたりで強引に脱がされて、蹴り飛ばされた。


 正座をさせられて、目の前にコップが差し出された。中では黒いものがウヨウヨと動いている。


「飲みなさい」


 コップを逆さにして飲み干すと、喉がそれを拒絶した。


 ゲェ、と吐き出された吐しゃ物の中で、黒いものが悶えるように動く。粘ついた糸がわたしの口と繋がって、酸っぱいにおいが鼻をついた。そのにおいが尚更お腹の深い部分を刺激して、再び内容物を吐きだした。


 お母さんはそれを見て激怒した。床に顔を押さえつけられ、無理矢理それを舐めさせられた。


「ねえ日陰、あなたはお母さんのこと、信じてるわよね? なにも疑っちゃいないわよね?」


 すべてを飲み込んだあと、わたしはお母さんに言った。


「うん」

「そう、よかったわ。てっきり日陰は、お父さんのことが大好きだったのかと思って」


 どうしてここでお父さんが出てくるのか、わたしには分からなかった。


 お父さんと離ればなれになってから随分経った。過ごした思い出はあまり多くなく、覚えているのは、横川店長のように、特徴的な丸眼鏡をかけていることだけだ。


「そうよね、あなただけは、おばあちゃんの料理を食べていたものね。でも、それじゃあ困るのよ日陰。おばあちゃんの料理の味を覚えていてもらっちゃ。だから吐き出さないで」


 さっき飲んだものが、喉の奥で暴れている。


「そうじゃないとお母さん、安心できないの。日陰、分かってくれる?」


 そのままお母さんは泣き崩れてしまった。痛ましいほどに歪んだ表情を見て、わたしはお母さんの頭を撫でた。


 お母さんは今、すごく苦しいんだ。辛いんだ。


「わたしはお母さんのこと大好きだよ」

「・・・・・・そう」


 トボトボと去っていくお母さんの体はとても小さく見え、はやく元気になってもらいたいと、わたしは思った。


 それから数時間経っても、お姉ちゃんは帰ってこなかった。



 しかしそれどころではないくらいの激しい腹痛がわたしを襲った。冷汗が止まらず、痛みは背中から肩へと、全身に広がっていった。トイレで下痢を何度も繰り返して便器を汚した。


 謝ろうと思ってお母さんを探すと、車がない。どこかへ出かけたようだった。お母さんもここ最近、夜に出かけることが多くなった。


 深夜の二時頃に帰ってきたのを見かけたこともある。


 わたしは鍵を閉めて。お母さんを探すことにした。


 どうしてみんな、いなくなっちゃうんだろう。


 お姉ちゃんも、田尻さんも、北鯖石さんも柚原ゆずはらさんも、お母さんも。


 いつ頃からだろう。


 そういえば、たしか。


 棚橋が家に来てからだっただろうか。


 今もおどろおどろしい音と共に痛みが巡回する下腹部を抑えながら、わたしは歩いた。


「あっ」


 駅前の通りで、人込みに流されたわたしは膝から倒れてしまう。近くに掴まれるものがなく、なかなか立ち上がることができない。


 どうしてなんで、そんな境遇に対する疑念を頭の中で整理すると、手のひらに汗が滲むのをやめられなかった。


 鼻の奥がツンとして、それが喉を伝い、胸に触れ、胃の中に落ちていく。キリキリと痛むそれは、奥歯を噛みしめるのに充分だった。


 そのような感情を、憎悪や、殺意というのなら。人は存外、簡単にできているのだと思った。


 無意味な殺戮でぐちゃぐちゃになった緑の物体がわたしに話しかける。


 殺すことに意味があるのではなく、殺したことに意味があるのではないか、と。


「大丈夫ですか? って、あれ?」


 わたしとぶつかった相手が、声をかけてくる


「日陰ちゃんじゃん、どうしたの? こんなとこで」


 わたしはそいつの顔を見て、喉の奥で鈍い唸りが鳴るのを感じた。


「立てる? さっきまで小春と、あ、君のお姉ちゃんと会ってたんだけど、もしだったら呼び戻そうか? 今ならまだ間に合うと思うけど」


 棚橋が、わたしの目の前にいた。


 こいつのせいで、わたしとお姉ちゃんとの時間が減ったのだ。


 こいつが、お姉ちゃんを天使に堕落させたのだ。


 カラン、と鉄が鳴るような音が地面を叩いた。


 手で探ると、指先に冷たいものが触れる。


 大きな裁縫バサミの刃が、街灯の光を無機質に反射させていた。


 わたしは、先生の言葉を思い出していた。


 先生は、何をしろと言っていたんだっけ

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