第十四話

 その次の日の夜に電話が入った。今すぐ来て欲しいという横川店長の切迫した声に、わたしは急いで家を出た。


 満月に照らされた夜道はこの時間帯にしてはとても明るく、田んぼの向こうにある木々の一本一本が鮮明に見えた。


 途中でスマホも財布も持たないで出たことに気付いたが、それよりもずっと後ろにある気配にわたしは意識を向けていた。


 わたしが歩くごとに背中を追うように付いてくる音は、まるで枯葉が擦れるように乾いていた。後ろを振り向くと、音は止まる。


 これだけ明るいので、誰かがいれば視認できるはずだった。けれどいつまで経っても音の正体は現れない。次第に音も聞こえなくなったが、背中に突き刺さる確かな視線がわたしの足を止めた。


 わたしは引き返して、気配の正体を探した。電柱の裏、塀の向こう、茂みの中。人が隠れられる大きさの隙間を虱潰しに回っていく。


 春になると桜が咲く並木道を通って大きな公園に入る。滑り台を登って、中のトンネルをくぐると中は真っ暗で自分の手すら視えなかった。


 すると。


 ぴた、ぴた。と後方から音がした。手で這うような音だ。


 体の向きを変えるには小さな空間だったため、そのままトンネルを抜ける。ローラーの付いた坂道にお尻を乗せるとカタカタと音を立ててわたしは砂場へと降りていった。


 わたしが降りても、カタカタ、カタカタ、とローラーは鳴り続けた。


 振り向くと、トンネルの暗い空間がわたしを見下ろしていた。明るさなんて微塵もないそこは、奥がどうなっているかすら分からない。わたしはじっと、その穴を見つめ続けた。


 一瞬、影のようなものが動いたようにも見えたが、目の錯覚かもしれない。黒いもやのようなものがその後も視界を泳いでいた。


 耳を澄ませても聞こえてくるのは鈴虫の鳴き声と近くの民家ではしゃぐ子供の声だけだ。昼間は黄土色に見える砂も、今は灰色に見えた。手の甲に乗ったそれを払って、わたしは立ち上がる。


 公園を出て市民体育館をぐるりと回ってショッピングモールを通る。電灯の消えた場所を歩くも、後ろから音は聞こえなかった。粘つくような気配も消え、なんだったんだろうとわたしは首を傾げた。


 それからバイト先のコンビニへ向かうと、レジに夜勤番の比角ひづのさんがいるのが見えた。中に入って声をかけると、幽霊でも見たように比角さんは驚いた。


「うわ、藤宮さん。どうしたのこんな時間に」

「あの、店長に呼ばれたんです。店長はいますか?」

「呼ばれたって、こんな時間に?」


 時計を見ると、すでに十二時を回っていた。


「店長ならもう帰っちゃったよ。もしかしてあれ、くじの件?」

「くじ?」

「ほら、藤宮さんお客さんにくじを全部あげちゃったんでしょ? 昨日ソマさんが空っぽのくじ箱見つけてさ、店長に言ったら大慌てで監視カメラで確認してたよ」

「どうしてそれで大慌てなんですか?」

「いやー、全部あげるのはまずいっしょ。ちょっとならいいのかもしれないけどさー」

「一つと百個って、違うんですか? 一つならいいんですか? 百個だとダメなんですか?」

「それは明日店長が教えてくれるでしょ」


 比角さんは途端にめんどくさそうに顔を歪めて、わたしから視線を外した。


 夜のコンビニは静かで、昼間よりもチルドを囲むモーターの音がうるさく感じた。外されたエアコンのフィルターからは埃っぽい臭いがして、空気も少し乾燥している。


 横川店長が帰っちゃったなら、また明日来よう。わたしは比角さんに頭を下げた。


「頑張ってください。お疲れ様でした」


 一つの労いで誰かが喜ぶのなら、口を動かすことは億劫ではなかった。横川店長が言っていたことはこういうことだったのかなと逡巡してみる。


「あのさ、藤宮さん」


 わたしが店を出ようとすると、比角さんが口を開いた。


「さっき、店に来た?」


 変な質問だなって思った。わたしは今来たばかりで、さっきは公園にいたし、それよりもさっきまで遡ると家にいた。今日店に来たのは初めてだ。


 わたしが首を横に振ると、比角さんは不思議そうに顎に指を置いた。


「バックヤードで検品してたらさ、お客さんが入ってくる音がしたから急いで出たんだよね。そしたら誰もいなくておかしいなって思ってたんだけど。ドアが開いてて、閉まる瞬間に聞こえたんだ」


 比角さんが自動ドアを指差した。


「ぴた、ぴた。って。なんかを引きずるような音が。だからてっきり」


 視線がわたしの足元に映る。それから比角さんは何も言わなかった。わたしもどう答えればいいのか分からなかったので再度、頭を下げて店を出た。

 


 翌日、店へ向かうと今度こそ横川店長に会うことができた。わたしはまず挨拶をしたが、横川店長の第一声は「どういうつもりなんだ」だった。


 亀のような温和な瞳は、気付けば鋭さを宿している。


「昨日、電話で呼び出したはずだよね。そのあとも何度も連絡したのに、それにも出ないって。どういうことなのか、まずそこから説明してほしい」

「来る途中に誰かの気配を感じたんです。だから探してたら遅れてしまいました。ごめんなさい」

「あのね、謝ればいいってわけじゃないんだよ」

「・・・・・・・・・・・・」

「なんだい?」

「いえ」


 わたしは、横川店長の口を見ていた。開くたびに唾が糸を引いて、頬口がシワを伸ばしていく。伸縮する頬付近の薄い皮膚が紅色に染まっていて、そこに鋭利なものを突き立てたら根元から削げていくようで、鶏肉の皮を剥ぐときを思い出す。


 謝れることは良い事だと言っていたはずなのに、今日の横川店長はどこかおかしかった。言葉が支離滅裂とし、わたしを見る目も細い。


「気配だかなんだか分からないけど、時間通りに来る。呼び出されたのなら尚更だ。いいかい、それは生きていく上で当然のことで――」


 そうして、横川店長はわたしの足を見た。


「いや、うん。それはもういい。本題に入ろう。今やっている一番くじのことだけど、藤宮さん何か知ってるよね?」

「お客さんに全部あげました」

「心当たりがあるといことは悪いことをした自覚があるということだね?」

「違います。昨日比角さんが呼び出したのはそのことなんじゃないかって教えてくれたんです。あの、わたしがしたことは悪い事なんですか?」

「そうだよ。あのね、くじで交換するのは商品だよね。商品をお客さんに渡すということは金銭が発生しているんだ。その場では無料でも、あれはこちらがお金を出して、発注してるものなんだから。ラインナップの商品を注文して、くじの数に合わせているのに、くじがなかったらあの商品はどうなると思う? 売れ残りだよ。それにどれだけのくじが出て、どれだけの商品が交換されたかという情報を本部に送らなければならないし、それで店舗ごとの売り上げの情勢などを計るんだ。一番くじというのはね、ボランティアでやってるわけじゃないんだよ。藤宮さん、君がやったことは立派な犯罪なんだ」


 その単語自体、きっと横川店長も言い慣れていないんだろうなとぎこちなく唇の輪郭を見て思った。


「けど、店長も前に誰かにあげてましたよねくじ。じゃあ、店長も犯罪者なんですか?」

「僕はしたことないよ、そんなこと」

「え、でも十月二十日の十八時四分にレジでやってましたよ」


 正確な時刻を言うと、横川店長の表情が固まる。


「監視カメラで見てみます? えっと、ここの数を」

「やめなさい!」


 とても大きな声で怒鳴られて、びっくりして座っていた椅子が軋んだ。わたしが目を開いていると、横川店長が一つ咳を払う。


「悪かったね、驚かせて。けど、いいかい藤宮さん。君は今、いけないことをして、叱られているんだ。けど、これはなにも君を虐めているんじゃないんだよ。君はまだ高校生だし、きっと知らないこともある。うちで働く外国の人もね、最初はフライヤーの商品を手で掴んだり、業務中にスマホをいじったりしていた。廃棄のものを盗んでいく人もいたよ。けど、それは全部、言えば直るんだ。だって知らないだけなんだから。藤宮さんだって、悪事を働こうとしたわけじゃないんだろう? だからこれから、気を付けてくれさえすればいいんだ。いいかい? 分かったら頷いて、それでいいんだよ、藤宮さん」

「はい、分かりました」

「くじの件は、あのお客さんたちがこの店舗で交換してくれるのを祈るだけだね。そうすれば大きな問題はないんだけど、そういったことは、もちろん言ってないよね」

「言ってないです、ごめんなさい」

「うん。分かったよ。さっきの答えだけどね、僕もくじを知人に分け与えたことがあるよ。けどそれは、なるべくここの店舗で交換をという言葉を付け加えてだ。藤宮さん。僕がやってたから君もやっていいという風には、世の中ならないんだ。勝手が分かっている人がやっているからこそ統合性がとれていて、トラブルのリスクも少ない。けど、何も知らない人がマニュアル以外のことをすると必ず失敗する。重要なのは、仕組みを理解すること。これは仕事でも、学校でも同じだよね。今回のことでそれが分かったと思う。どうか次回から、気を付けて欲しい。もし自分で判断できなかったら、気兼ねなく誰かに聞きなさい。いいね?」

「はい。ごめんなさい店長。それから、色々教えてくれてありがとうございます」


 横川店長は、すべて言い切ったあと満足気に笑った。それは緊迫したこの空気を壊すためのものでもあるように感じて、その重苦しいものの出所は、どこなのだろうと探すと、深く長い自分の呼吸に気付く。


「そういうことだから。藤宮さんからはなにかある? 言いたいこと、というとなんか喧嘩腰だね。なにか、そう、聞きたいこととか」

「それじゃあ、一つ」


 わたしは椅子を横川店長の方に向け、正面から見据えた。


「仕組みさえ、分かればいいんですね」


 そう言うと、横川店長はやや背筋を後退させ、目を泳がせたあとに「ああ」と短く答えた。

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