第三章

第十三話

 靴が増え窮屈になった玄関を抜けコップに水を汲む。水道から出たそれは微量に泡立ち、鉄のような風味が鼻を抜けていく。鈍く、それでいて鋭利な香りは、家族団らんの夜を思い出させる。


 おぼんにはオレンジジュースの入ったコップが二つと、個包装されたチョコがいくつか乗っていた。これを運べばいいのかな。


 持ってみるとそこまで重くはなかった。落とさないように二階へ持っていく。


 六段ほど登ったところでつまずいてしまい、顔で雑巾がけでもするようにずり落ちていく。なんとかコップは割れないよう抱えたが、中に入ったオレンジジュースはわたしと一緒に落ちていった。手に持ったおぼんの中には、チョコが一つ残っているだけだった。


 タオルを持ってきて床を拭く。音を聞きつけてお母さんがリビングから飛び出してきた。後頭部に重力が加わって、そのまま床に顔面を叩きつけられた。顔を上げると頬を平手で打たれ階段の角にこめかみをぶつける。意識を一瞬手放して、視界が明瞭になった頃、指先は痺れていた。


 タオルが白くなるまで、わたしは外の水道で何度も洗った。けれど、こびりついたオレンジ色はなかなか取れてはくれない。


 時計を見るともうすぐでバイトの時間だったので、タオルをプレハブの中に入れて靴を履いた。


 わたしを雇ってくれたのは近くの駅前にある大手コンビニ店だった。求人雑誌には載っていなかったから分からなかったけど、入口にアルバイト募集のポスターが貼ってあることに気付いて直談判してみたら快く受け入れてくれたのだ。


 店長の横川よこかわさんはわたしの足を見ても頑張ってくれたらそれでいいと言ってくれた。あとで分かったことなのだけど、わたしが通うそのコンビニでは外国の人がたくさん働いていて、いろいろな人が働きやすい環境作りに徹底しているとのことらしい。


 わたしがレジから出なくても、走れる人が商品を取りに行き、日本語を話せない人の代わりにわたしが喋る。そんな風に店は回っていた。


 仕事に関してもそこまで難しいことはなかった。レジの操作も理屈は簡単で、ここを押せばここが開く。ここを通せば機械が読み込む。首を取ってしまえば喋らなくなり、足をもげば動けない。そんなような理路整然としたものに疑問は浮かばなかった。


 品出しの仕方は少しだけ手間取ったけど、横川店長に教えてもらった先入れ先だしという言葉の通りに商品を置けばなんとかなった。あとは検品作業や消耗品の補充、それから掃除とフライヤーの管理が主な仕事だったが、横川店長に褒められるくらいにはすでにできるようになっていた。


 バイトを初めて六日目。わたしはまだ痺れが残る指先でレジを打っていた。貰ったお金を受け取り、ホールに入れたら自動的にお釣りが出てくる。それをお客さんに渡して、深々と頭を下げる。


「お疲れ、藤宮ふじみやさん」


 後ろの扉から出てきたのは横川店長だった。背が高く、いつも頭を下げながら中から出てくる。丸眼鏡の中から、亀のような瞳がわたしを覗く。


「やっぱり藤宮さんを取って正解だったよ。働くことにおいて、ううん。人である以上、お礼と謝罪はやっぱり一番重要だと思うんだ。藤宮さんはそれがしっかりできてるよね。ありがとう、ごめんなさい。スッとそれが出てくるのは、素敵なことだと思うよ」

「ありがとうございます。嬉しいです」

「うん、藤宮さんは九時までだったね? あと一時間、頑張ってね」

「はい。頑張ります」


 店長はそのままレジ側にある扉を開けてバックヤードへと消えていった。


 外を見ると、同じアルバイトのソマさんがゴミを片付けていた。褐色の肌が暗闇に溶け込み、異彩の瞳が肉食動物のように光っている。技術を学ぶために日本に来たが、突然働き口がなくなってしまい、帰国までの期間ここで働いているらしい。強く編み込まれた髪が揺れるのを眺めながら、わたしは売れ残った肉まんを袋に入れて捨てた。


「あ、それ貰っていいよ」


 ポテトチップスの袋を両手いっぱいに抱えた横川店長がわたしを見ていた。こちら側に入る扉が開けられないようだったので代わりに開けてあげると、ありがとうとこぼしてポテトチップスの袋を後ろのテーブルに広げた。


「藤宮さんに一つ、いいことを教えてあげるよ」

「教えて欲しいです」

「与えられた仕事をこなす、それは出来て当然とは言わない。それさえできれば世の中は生きていける。けど、僕たちはお客さんに触れる職業だからね、もうワンステップ上に行きたいよね。あのね、誰かを喜ばせることを意識してごらん」


 お客さんがお店に入ってきたので、いらっしゃいませ、と口にする。


 最初は声が小さいとよく言われた。だから思い切り声を出してみたのだが、そしたら今度は大きすぎると言われた。そこから丁度いい声の大きさを探すのに苦労したのを覚えている。


「そうしたら藤宮さんはもっと立派になれるよ。足が不自由だって、他の人よりも優れている部分がたくさんあるんだから」


 ファイト、と付け足して横川店長は再びバックヤードへ戻っていった。


 お客さんが来たので、わたしはレジの前に立つ。


 若い男の人の二人組だった。タバコを注文され、年齢確認ができるものの提示をお願いした。けれどその人は家に忘れてきたと言った。それだと売れませんと言うと、片方の男の人が免許証を出してきた。本人のものじゃないと、と渋ると、舌打ちをされた。


「融通の効かないやつだな」

「ごめんなさい」


 お客さんの顔はみるみるうちに険しくなっていった。


「俺が買うんだから、いいだろ?」


 わたしは少し考えて、タバコを売ることにした。番号を忘れてしまい、再度聞くと無言で指を差され、指先を追ってタバコを持ってくるとそれじゃないと言われた。


 わたしが首を傾げていると、男の人は嫌々番号を言ってくれた。


「八百八十円です」


 お金を受け取って、わたしは後ろのテーブルに置かれた箱をお客さんに差し出した。


 これは今やっている一番くじキャンペーンというもので、七百円以上のお買い物をしてくれたお客さんに一回引いてもらっているのだ。当たりは飲み物や食べ物で、その場で交換ができる。


「へー、一回?」


 そこでわたしは考えた。


 人の憎しみを買うというのは刃物に額を擦り付けるような行為だと、昔見た映画で言っていた。もしこの人たちがわたしを殺そうとしているのだとしたら、わたしはすぐに家へ帰ってドアの裏に隠れなければいけない。


 けれど今日はタオルを綺麗にするまで家には入れないので、なんとかお客さんには良い思いをして帰ってもらいたかったのだ。


 それに、先ほどの横川店長の言葉が気になった。喜ばせるってどういうことなのだろう。


 お母さんを怒らせてばっかりなわたしでもそれができるのだろうか。できたら、いいなと、淡い希望のようなものを抱いてみた。


「全部あげます」

「え? マジ?」


 男の人の硬かった表情は驚いたようなものに変わり、わたしとくじの入った箱を交互に見た。


「はい、貰ってください。それからさっきはごめんなさい」


 わたしは箱をひっくり返して、出てきたくじを袋に入れてお客さんに渡した。


「いいの?」

「はい。これでどうか、喜んでください」

「いや、まぁ喜ぶけどさ」


 男の人たちは互いに顔を見て、口角をあげた。


 前に横川店長がお客さんにくじを五枚ほどあげているのを目にしたことがある。おそらくこのくじを必要以上に渡すことは悪いことではないのだろう。それにわたしもよくバイトが終わるとこのくじを数枚もらっていた。


「ありがとうございました」


 わたしが頭を下げると、お客さんは足取り軽く店を後にした。空になった箱をコーヒーメーカーの裏に置いて、わたしはバックヤードにいる店長に頭を下げてからタイムカードを切った。


 わたしとは違い十時まで仕事のあるソマさんにも挨拶をして、寒々とした夜道を歩いた。


「喜んでくれた」


 あのお客さんの表情を思い出すと、自然と胸が高鳴った。これでちょっとは、お金を多く貰えるかな。そうしたらもっといいものを、お母さんに買ってあげられる。


 スキップするような感覚で歩くと、靴の擦れる音が郊外に響く。


 動かない足をひきずりながら歩く姿が道路に設置されたミラーに映ると、近くを歩いていた人が小さな悲鳴をあげて去っていった。

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