第十二話

 とりあえずコンビニからもらってきた求人雑誌を開いて、わたしが住んでいる地区のページからバイト先を探すことにした。


 飲食業の欄には知っている名前の店が多く並んでいて親近感があったが、その他のページには見慣れないお店ばかりで見ただけでは何をするバイトなのかもわからなかった。


 お姉ちゃんに聞くと面接というものがあるらしく、それで合格か不合格かが決まるらしい。合否の結果は面接から一週間以内に知らされる。そもそも面接は電話でアポを取った三日後、など、案外時間がかかることなども教えてもらった。


 それではあまりにも効率が悪すぎるし、お母さんの誕生日まで間に合わない。わたしは目に付いたお店に片っ端から電話をかけた。数的にはおよそ三十件ほどで、その中で電話先で断られたのが五件、店長が不在の為折り返すと言ってそれっきりのお店が二件。それ以外のお店は快く面接の予定を組んでくれた。


 このくらい電話すればどこか受かるだろうとは思っていた。だけど、どこへ行ってもわたしの足を見ると申し訳なさそうに首を振られるばかりで前向きな答えは返ってこなかった。


 歩けないと、仕事に問題があるらしかった。それはまるで、鳴くことのできないセミが淘汰されていくかのようだった。世の中のありようとしてはきっと間違いではないのだろうと思った。


 それから、わたしは今までの倍の数だけ面接の電話をした。履歴書はもうボロボロだった。たびたびお姉ちゃんに新しいのを買ってもらったけど、それでも供給は追いつかなかった。お母さんにお願いしようと思ったけど、どうせならサプライズでお祝いしたいのでなるべくお母さんに頼ることは避けた。


 電話をしすぎて、どことどう予定を組んだか忘れてしまった。面接の予定があると思っていたお店に行くと今日じゃないよと言われ、かかってきた電話に出るとまだ来ないのかと催促された。それを繰り返していたら、いつのまにかあれだけあった応募先が全滅し、わたしは未だにバイト先を見つけられないでいた。


 お姉ちゃんは次頑張ろうと言ってくれたけど、これが普通じゃないことはわたしも分かっていた。引きずる足も、それから電話をかけすぎたことも、よくなかったのだなと今頃理解する。


 学校では、国語の先生についに怒られてしまった。小論文のことをすっかり忘れていたのだ。英語の先生はわたしがシャーペンをかじっていても何も言わなくなった。担任は成績のことを気にしていて、次は頼むぞ、と釘を刺し、留年や中退という単語がそよ風のように通過していった。0点を取れば先生に怒られる、百点を取ればお母さんに怒られる。なら、0点のほうがいいに決まってる。わたしは曖昧に返事をして教務室を出た。


 校庭に生えたアラカシの葉と葉の間に蜘蛛の巣が張っているのを見つけて立ち止まる。後ろを歩く人にカバンを蹴られて前につんのめる。


 顔を上げると、蜘蛛の巣でもがいているちょうちょが目に入った。黄色い鮮やかなものではなく、薄緑色の羽を見ると秋の隙間風のような冷たさを感じる。


 糸が絡みつき、もがき苦しむ振動に気付いた蜘蛛が八本の足を忙しなく動かしちょうちょに迫る。しかしすぐには襲い掛からない。ちょうちょが力尽き動きが弱まるのを待っているのだ。


 わたしは指でちょうちょを摘まんで、蜘蛛の巣から逃がしてあげた。獲物が急にいなくなった巣で、蜘蛛が慌てて走り回る。やがて止まって、わたしを見た。睨まれてるようにも感じた。


「なにしてんのそれ」


 頭上で声がした。お姉ちゃんのものではなかったので、誰だろうと逡巡してから屈んだまま首を回す。


 赤みのかかった茶色の髪がわたしの鼻先で揺れていた。柚原さんだった。


「逃がしたん?」

「うん、でも死んじゃった」


 わたしの足元で、ちょうちょは集まってきた蟻に食い殺されていた。あんなに綺麗な羽が胴体を離れ土の中に運ばれていく。残った物体は所々かじられて、穴をあける。中から黒い粒が溢れて、行列を作る。


「死に方が変わっただけだね」


 柚原さんとはあまり話したことがないので、面白い話をして笑ってもらおうとしたけど、柚原さんは表情を作らなかった。それでも無ではない、どこか力のある表情を観察していると柚原さんがわたしの隣に屈んだ。


「糸でぐるぐる巻きにされんのと生きたまま食い殺されんの、どっちがいいんだか」

「わたしはバラバラに食い殺されるほうが幸せだと思う。どうせ死ぬなら、生きてるうちには絶対できないことをされて死にたいでしょ?」

「あたしはゼッタイやだけどね」


 柚原さんの話し方は淡々としていた。抑揚がなく、本当に嫌なのか分からない。


「てかそれ時事ネタ? 今をトキメクバラバラ殺人にかけてんの?」

「え、違うよ」

「あんたはバラバラに殺されたいの?」

「殺されたくないよ」

「じゃあ殺したいの?」

「殺したくないよ」

「やっぱよくわかんね」


 さっきまでちょうちょが落ちていた地面を、柚原さんが手ではらう。そこには小石と、はぐれた蟻がちょこまか動くだけでちょうちょの綺麗な羽ばたきの残滓など微塵も感じられない。


 柚原さんがその場所をジッと見つめているので、わたしも真似をして地面を見た。十分くらい見つめた。長かった。足がピリピリして途中で後ろに転んでしまう。柚原さんは微動だにしていなかった。


「悪かったよ」


 腰を起こしていると、柚原さんの背中が喋った。背丈の割には、細い背中だった。


「田尻の猫な、元々病気持ちでそんな長くなかったんだって」

「そうなんだ」

「だから多分、最後の力を振り絞ってケージから抜け出したんだと思うわ。よく言うじゃん、猫は死ぬ時飼い主の元を離れるって」


 そういう話は、確かに聞いたことがあった。


「火葬してもらったらしいんだけどさ、葬儀屋さんが言ってたんだって。外で死ぬと、だいたい虫か鳥に食い荒らされるからこれだけ綺麗に形を保ってることは珍しいって。藤宮、上着をかけてくれたじゃん。多分そのおかげだと思う」

「でもわたしそんなつもりでかけたんじゃないよ」

「知ってる。月が眩しいから、でしょ? あんた頭ん中どうなってんの」

「見たいの?」

「見てもわかんないからいいっての」


 柚原さんは呆れたようにため息をついて立ち上がった。腰に巻いたカーディガンが尻尾のように揺れた。


「だから、悪かったって、田尻。言いに来た?」

「来てないよ?」

「まぁ、来ないか。けど、そう言ってた。だから、許してやってよ、田尻も不安だったんだと思うからさ」

「許す? どうして? わたし怒ってないよ」

「悪魔、とか言われてたでしょ」

「しょうがないよ、わたし、悪魔だもん」


 わたしも立ち上がる。よろめくと、柚原さんがわたしの手を掴んだ。


「藤宮って足悪いの」

「うん」

「生まれつき? 病気?」

「ううん、車に轢かれた」

「いつ」

「中学生の頃」

「へえ、松葉杖とか使わないんだ」

「なくても歩けるから。右足が痛くなったら使うけど」

「いや、それ歩けてないでしょ。生まれたての小鹿みたいじゃん」


 ぐにゃ、と曲がった状態で地面に着く足首を見て、柚原さんがわたしの腕を担ぎ上げる。けど、わたしのほうが背が低いので持ち上げられる体勢になってしまう。


「逆に歩きづらいよ」

「あっそ」


 わたしから離れた柚原さんがブラウスのボタンを外す。開けた肌色に、微かに汗が滲んでいた。カバンからシートのようなものを取り出してそれを拭く。シトラスの香りがした。


「藤宮スマホ持ってるでしょ、貸して」

「うん、いいよ」

「ロック解除して。そう。はい、これわたしの連絡先だから、歩くのしんどくなったら教えて。近くだったら行くから。風呂入ったあとは、ムリだけど」


 スマホを渡されて、メッセージアプリに登録された『ゆず』という名前と柚原さんを交互に見る。不思議な感じだった。


「大丈夫だよ、しんどくないよ」

「どうせともだち一人なんだから、あたしでかさ増ししときなって」


 お姉ちゃんしかともだち登録していないので、きっとそのことを言っているのだろう。


「あたしもさ、殺したことあるよ」


 柚原さんは唐突に、手で拳程度の大きさの空間を作るとぼーっとした表情で言った。


「こんくらいのトンボ。最初は首をぐりぐり回して、どこまで回るのか試してた。魚肉ソーセージのさ、先っちょみたいに」


 魚肉ソーセージを食べたことがないのでよく分からなかった。


「次は羽をちぎって水たまりに浮かべたりもしてた。そうすっと必死に無い羽を動かしてさ、水たまりの上をボートみたいに進んでくんだ。空を飛ぶトンボを、泳げるよにしてあげたつもりだった。あたしとしてはいい事をしてるつもりだったんだよね」

「トンボって泳げるの? わたし、知らなかった」

「違うって、あれはね。ただ、なんだろうな、もがいてただけ。死にたくないって必死だっただけ」


 柚原さんは空を眺めていた。わたしも見上げると、昼間の空に薄く星が光っていた。


 そうして柚原さんの真似をし続けて、首が痛くなった頃。胸に小さな衝撃が加わる。後ろによろめくと、拳を前に突き出した柚原さんが怒ったように眉をとがらせていた。薄く、無表情の中に隠れたそれと昼間の星を見比べる。微かに柚原さんのほうが勝っていた。


「虫殺したくらいで変人ぶんなってこと」


 吐き捨てるように言ったあと、柚原さんは校門を出て曲がる。追いすがる足をわたしは持たないので、背中を撫でるように揺れる髪を眺めてから帰路に就くことにした。


 その日は結局、柚原さんからの連絡はなかった。寝る前にわたしからスタンプを送ったら、既読だけがついた。


 その画面を隣にいるお姉ちゃんに見せたら、嬉しそうに笑ってくれた。


 柚原さんに叩かれた箇所に手を触れると、そこは小さな明かりが灯るような儚さすら感じる微量の温かさがあった。その正体は、わたしにはまだわからない。

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