第十一話

 翌日、わたしは田尻さんたちを呼んで中庭に行った。溝の向こうを指差すと、田尻さんが走っていく。被せた上着を取ると、そこには昨日よりも腐敗が進んだ物体が横たわっていた。


 田尻さんは落胆にも似た声を出して、地面に跪いた。北鯖石さんもその光景に口元を抑えている。


 その物体に触れた田尻さんはすぐに指先を引っ込めた。まるで野生の猿が見たことのない機械に触れるような危うさがあった。田尻さんはわたしを睨み、激怒した。


 かけられた上着にはしっかりわたしの名前が刺繍されていて、お前が殺したんだろと腕を引っ張られた。横たわる物体の前にわたしは転がる。


 田尻さんが物体の名前を何度も叫ぶ。けれどその体には触れようとはしなかった。わたしは説明するために、その物体を拾い上げた。生臭いものが鼻腔に詰まる。重力と体重がそのままわたしの腕に乗る。だらんと垂れさがる尻尾と手足、それから首に、田尻さんは悲鳴をあげた。


 昨晩、わたしはこの猫を探して、見つけたころにはもう死んでいたと説明する。田尻さんはわたしを睨むことはせずに、物言わぬ体に視線を注いだ。北鯖石さんはいまだ疑念をわたしに持っているような表情を浮かべていた。柚原さんは相変わらず無表情だったが、泣きじゃくる田尻さんのことを慰めていた。初めて聞く柚原さんの声は女性にしては低く、しかし芯のあるものだった。


 わたしが田尻さんに物体を渡すと、おっかなびっくり渡されたものを抱く。最初は抵抗があったようだが、やがて慣れたのか、その物体に顔を埋めて涙をこぼした。


 聞くと、小学校の頃からずっと一緒だったらしい。


 しばらく泣き叫んだあと、田尻さんは物体を抱いて早退すると言った。わたしの横を通り過ぎる際、その憎悪に塗れた瞳がわたしを見た。北鯖石さんはやっていいことと悪いことがあるだろ、と威嚇するような声でわたしの肩を拳で突いた。


「・・・・・・違うよ」


 どうして大切なものを失ったのに、悲しい気持ちや悔やしい気持ちをその物にぶつけず他の誰かにぶつけようとするんだろう。わたしには彼女たちの考えや行動の理念が、理解できなかった。


 小さく呟いた声を、池のカエルがかき消していく。


「あんたが殺したの?」


 声の主は、残った柚原さんだった。向こうで北鯖石さんが柚原さんのことを呼んでいる。けれど柚原さんはそれには応えなかった。


 長いまつげは巻くように上を向き、紅色の唇が昼の太陽の光を反射していた。茶色い髪には赤みが混ざり、真っ直ぐではない湾曲した髪が腰まで降りる。


「殺してないよ」


 わたしが答えると、柚原さんは再び口を開く。


「その上着あんたのでしょ」


 地面に落ちた上着を拾って羽織る。空気が襟元から漏れ出て鼻を通過していく。死臭に、排泄物の香りが混じっていた。


「眩しいかなって思って」


 そう言うと、柚原さんはわたしをジッと見つめる。鋭い目の輪郭ではあったが、その奥にどんな感情が眠っているのかまでは見えなかった。


 柚原さんは何も言わず、わたしに背を向け北鯖石さんの元へ向かう。風が吹いて、その短いスカートが微かに揺れる。見えたものは、純白の絹だった。


 茶色く汚れた手を払い、わたしは少し間を空けてから校舎に戻った。



 お姉ちゃんがわたしに声をかけてきたのはその日の放課後だった。


 教室を出て階段を降り、一階の廊下で教務室の前を通り過ぎると向こう側から見慣れたシルエットが近づいてくる。


 やほ、と小さく手をあげるお姉ちゃんの前髪が一束、外に跳ねて額が露出していた。肌色が増えたことによりお姉ちゃんがいつもより幼く見える。お姉ちゃんは気付いていないようで、髪を整えないままわたしの隣を歩いた。


 お姉ちゃんは自然とわたしを壁側に寄せてくれる。おかげでわたしは手を付くことができて、歩くのが楽になった。それでも遅い歩きだが、お姉ちゃんは決して先行することはなくむしろわたしのやや後ろを歩いた。


「これから帰るところ? 一人で帰るなら連絡してくれなきゃ。ホームルームで聞かなかった?」

「うん。なんのこと?」

「この近くで、ほら。事件があったでしょ?」


 お姉ちゃんがホームルームで配られたらしいプリントを見せてくる。目を通すとすぐになんのことか分かった。


 昨日ニュースでもやっていた。別の地区ではあるけど高校生がバラバラの状態で発見されたというものだ。犯人がまだ捕まっておらず、近隣の住人には夜に一人で出歩かないようにと注意が出ていたのを思い出す。


「棚橋は」


 低く小さい声で、外に出ているかすら怪しいものだったが、お姉ちゃんにはしっかりと届いていたようだ。肩をすくめて困ったように笑う。


「サッカー部の友達とね、ラーメン食べに行くんだって。男の子ってなんであんなにラーメン好きなんだろうね?」

「わたしも好きだよ」

「うん。私も好きだけど。あー、人類共通なのかな?」


 お姉ちゃんは自分の言葉に笑ってみせる。そのまま歩くと、お姉ちゃんの下駄箱の前まで来てしまう。せっかくなのでお姉ちゃんが靴を履き終わるまで待ってから、わたしも自分の下駄箱に向かった。


 磨き直した靴が太陽と廊下の蛍光灯の光を反射する。この時間だと、太陽の光のほうが弱かった。人の手によって作られたものは、常に一定の輝きを示す。それは同時に、不気味でもあった。


 紅葉が散って残骸が風に運ばれた後の剥き出しになったコンクリートを見ると、毎年不思議に思ってしまう。あれだけあった紅葉は、いったいどこへ消えてしまったのだろう。


 風に連れていかれるにしろ、必ずどこかで横たわっているはずなのに、原理だけ考えればそれはオカシイことだった。


 理解するにはきっと、その紅葉を追うか、自分で毟り取ってみるしかない。


「でも怖いよね、バラバラなんて」


 秋と冬の狭間にある道に転がった小石を蹴って、お姉ちゃんが呟いた。


「そうかな、わたしは通り魔とかのほうが怖いな」

「えー、どうして?」

「だって通り魔は何考えてるか分からないでしょ? その時の衝動で、誰でもよかったなんて言われたら、わたしたちに対抗手段なんてないよ」


 風が吹くと、カサカサと擦れるような音がする。目を向けると一枚だけ、小さく丸まった紅葉がアパートの駐車場で転がっていた。


「けど、人を殺してバラバラにするってことは、何かを試そうとしたんじゃないかな。もしくは知りたいことがあったとか。手足をもぐと骨はどうなるのか、ノコギリはどこまで食い込んでくれるのか、別々の場所にあっても体は体として成立するのか、腕だけを別の誰かのものにしたらその人はどこを向くのか、元々あった実体のあるものが動力源を失うことでどう変化するのか、それに自分の体はどう反応するのか、腐敗したそれを発見した人はどういったリアクションをとるのか、バラバラに切り刻まれていく工程で当事者は何を思うのか、原型を崩すことによって鬱憤は晴れるのか、奥に到達するほど血液は色濃くなるが全てをだしきったあとの肉は白くなるのか、歯は体の一部として死後共に朽ち果てるのか、人間にもトカゲのように切除した体の一部を数分動かせる力があるのか、骨ありと骨なしどちらが食べやすいか、細切れにした時の歯ごたえはどうなのか、すべてを切除する際にかかる時間はどれくらいなのか、手足を失くした胴体は自立するのか、それから」


 わたしたちは交番の前を通り、広い田んぼ道に出ていた。稲は枯れ、黄土色の地面を小さな虫が這って行く。


 お姉ちゃんは指で眉間を抑えながら具合が悪そうにしていた。


「でも、だから、怖くはないよねって話で」

「うん。そうだね、日陰は、でも、大丈夫だよ」


 それがどこに向けて発せられた言葉なのかは分からなかった。なにが大丈夫、なのだろう。


「お母さんの誕生日もうすぐだね」


 話題を変えるように、お姉ちゃんが普段より大きな声を出す。


「今年は何にしよっか」

「あ、それなんだけどねお姉ちゃん。わたしバイトしようと思ってるんだ」

「バイト? 確かに日陰はもうできる歳だと思うけど、どうしたの?」

「いつもはお姉ちゃんが買ってきて、わたしが渡すってやり方だったでしょ?」


 昔はそういうわけでもなかったのだが、いつだったかお姉ちゃんがわたしがお母さんに渡すように言ってきたのだ。確かあれは、お父さんがいなくなった頃だったかもしれない。


「でも今回はわたしが自分でお金を稼いで、自分で選んで、それで渡したいんだ。そっちのほうがお母さんも喜んでくれるかもしれないでしょ?」


 そう言うと、お姉ちゃんはわたしを見て、優しく笑ってくれた。


「うん。そうだね、絶対喜ぶよ、お母さん」

「だからわたし、バイトするよ。あと一カ月くらいしかないけど、頑張ってバイト先探して、頑張ってお金貯める」


 意気込んで胸の前で拳を握ると、お姉ちゃんがわたしの頭に手を乗せる。


 隣り合わせで歩きながら、お姉ちゃんはわたしを撫で続けた。


「日陰は優しい子だよ。だから、大丈夫、大丈夫だよ」


 お姉ちゃんはずっと、そんなことを呟いていた。


 それはどこか、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

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