第十話

 植物が太陽の光を好むなら、虫はきっと月の光を好むのだろう。夜になると日中では見られない虫たちが地べたを這っていく。


 コオロギなのかゴキブリなのか、灯りのない中庭では判断しかねる虫がわたしの左足で体を休めていた。小石かなにかだと思っているのだろうか。そこにわたしの意思は通っていないので、間違いではない。


 スマホの充電が切れてからどれだけ時間が経ったか自分では分からなかった。体の疲労具合からすると、もうじき深夜に差し掛かる頃かもしれない。


 体内時計が風呂に入れ布団に入れと促すが、わたしは四つん這いになったまま茂みの中を歩いた。


 田尻さんの言っていたケージはない。もしかしたらすでに家に持ち帰ったのかもしれない。


 わたしは中庭の端から端まで、とりあえず探してみることにした。飼っているペットであれだけ取り乱すのは異常だが、わたしは猫ほど大きな生き物を飼ったことがない。金魚、ハムスター、それからカブトムシクワガタ。秋にはおばあちゃんちで捕まえた鈴虫を玄関で飼っていたこともあった。


 それら小さな生き物が虫かごや水槽の中で動かなくなっても、リビングに立てかけた時計が動かなくなった時のような感傷しか生まれなかった。けど、猫や犬は、違うのかもしれない。うさぎは、どうなのだろう。中途半端な大きさだからよく分からない。


 人の想像にはきっと限界がある。触れてみないと理解できないものもたくさんある。カエルの足を引きちぎって中から噴出した緑色の液体を舐めてみたが、味は血とは別物だった。しかし足と胴体に繋がった筋肉は白く、見た事のあるものだ。それはきっと、わたしの中にも同じものがある。


 一匹じゃ足りなかったので、水槽の中の十匹すべてを、色々な形で殺した。動かなくなったのではない。わたしが蓋を開けて、電池を取ったのだ。


 死んでいる左足がいつも履いている靴に死んだカエルを入れれば、なにか起きると信じていた。同じ境遇、同じ存在。そんなものが隣合わせで一晩過ごせば、もしかしたら生き返るかもしれない。


 わたしの希望は、死臭に塗れた泡に消えていった。


 地面に着いた手に、カエルが一匹飛び乗った。わたしを見上げ、お腹を鼓動させている。


 その黒い目が、なにか言いたげに動く。


 わたしはそのカエルを掴むと、どこへも行かないよう両手で包む。中でカエルが逃げようと跳ねているのが分かった。


 池の前まで行って手を開くと、勢いよくカエルが飛び出していく。ペチャ、という音ともに波紋が水面に広がる。


 それを追うことは、わたしはしなかった。


 プラスになんてならないのだ。


 先生の言っていることは間違っている。


 カエルを殺しても、どれだけ殺しても、得られるものなどどこにもない。


 百匹殺せば違うのかもしれないが、それでは焼却炉の前にもっと石を置かなければならない。それはあそこを利用する人の邪魔になるだけだし、好ましくはなかった。


 わたしは再び地面を這って茂みの中を探す。これで三周目だ。いまだに見つかりはしないが、もしかしたら見落としがあるかもしれない。


 真ん中を少し過ぎて大きな松の下に差し掛かると、鼻先が獣臭いなにかに触れた。


 茂みではなく、そこは下水の溝だった。傷だらけの手のひらを剥き出しになったコンクリートに付けると、小石が傷口を抉っていき痛みが走る。


 お母さんからのお仕置きとは違う、無機質な冷たさがあった。


「あっ」


 夜闇の中でもそれは見えた。


 茶と白の混じった毛並み。小さな座布団のような物体がそこに横たわっていた。


 触れてみると、ひどく冷たく、毛並みから連想できる柔らかさはなかった。動かしてみると、傷や血は見当たらなかった。物体は、目を細め眠っているように動かない。


 首元には銀色のタグがぶら下がっていて、たしかにワタと書いてあった。この物体に名前があるのだと考えると、寒い夜に鋭い冷気が増したように感じた。


 あたりには羽虫のようなものが飛んでいたが、まだそこまで数は多くない。


 わたしはその物体に上着を被せて丸めた。明日、田尻さんに教えてあげよう。


 中庭を出て家に向かう。途中にある公園の時計は、一時を差していた。


 家に着き、わたしはプレハブ小屋に向かった。上着を置いてきたので少し寒かった。


「日陰?」


 あれ? と思って体を起こすとお姉ちゃんが外からわたしを覗き込んでいた。扉が開いてお姉ちゃんが入ってくる。わたしが何かを言う前に、体を抱きしめられた。


「どこに行ってたの」

「中庭で猫探ししてた」

「それなら連絡してよ。スマホは?」


 真っ暗の画面を見せると、お姉ちゃんはため息を吐いてラップのかかったお皿をわたしの前に置いた。


「ビーフシチュー、おいしいよ」

「いいの?」

「なにも食べてないでしょ? こんな夜中だけど、食べたほうがいいよ」

「ありがとうお姉ちゃん」


 お腹が空いていたのは事実だった。ラップを外すと、芳醇な香りが小屋の中に立ち込める。


 ビーフシチューは湯気を発してはいるが、食べられないほどの熱さではなかった。温めてから、やや時間が経過したように思える。


「心配したんだから」


 お姉ちゃんがわたしの肩に額を乗せ安堵の息をつく。


「猫探しって、急にどうしたの?」

「クラスの田尻さんの猫がいなくなっちゃったんだって。田尻さんすごく泣いてたから、きっとすごく大事にしてたんだと思う」

「それを、探してたの?」


 頷く。次いで「一人で?」と返ってきたので、もう一度頷いてシチューをすする。


「猫さんは見つかったの?」

「うん」

「そうなんだ。よかったね」

「下水の溝の近くで死んでたよ」


 わたしを撫でるお姉ちゃんの手が止まる。ビーフシチューを飲み干し、わたしはごちそうさまでしたと手を合わせる。


「お母さん、怒ってた?」

「ううん。友達の家に泊まってくるんだって、って言っておいたよ。ちょっとびっくりしてたけど安心してた。だから大丈夫だよ」

「友達・・・・・・」


 先生も言っていた、そんなこと。友達というのがわたしにとってどれだけ大切なものかは分からない。けど、みんなが口を揃えて言うということはそれなりの価値はるのだろう。


 試しに腕をもぎとるみたいに、逃げていくその手を取ってみてもいいかもしれない。


 明日田尻さんたちに話してみよう。そうすれば友達になってくれるかも。


「お姉ちゃん」


 わたしが顔を近づけると、お姉ちゃんが慌てて体を反らす。


「あのね日陰、その。ルールを決めない?」

「ルール?」

「そう、ルール。日陰がね、その。そういうことしたいのは分かったよ。私だって日陰を拒んでばっかりなのは心が痛いから、回数を決めようよ」


 お姉ちゃんは人差し指を立てる。前にできた傷口は、白く痕を残していた。


「一日一回。ね? それなら私も大丈夫だから」

「うーん」

「日陰、お姉ちゃんと約束、できるよね?」

「わかった」

「日陰はいい子だね」


 わたしはお姉ちゃんに体を預ける。


「今日はしてないよね」

「・・・・・・そうだったね」


 お姉ちゃんは「あはは」と笑う。


 一日一回の制約を課された口づけを交わし、お姉ちゃんの背中に手を回す。お姉ちゃんは困りつつも、目を閉じた。お姉ちゃんの体が、微かに震える。抵抗はなかった。


「亮介くんには言わないでね」


 してはいけないことだという自覚があるようだった。わたしの唇を受け止めるとき、お姉ちゃんはいったい誰の顔を思い浮かべているのだろう。


「家に入ろっか、日陰」

「ダメだよ。お母さんにバレちゃう

「大丈夫、こっそり。ね?」


 意地悪そうに笑うお姉ちゃんの口元は、年甲斐もなく幼いものだったが不思議と力強い頼もしさを感じた。


 お姉ちゃんの手を握りながら、家の中を歩いた。なんとかお姉ちゃんの部屋に辿り着くと、互いに深く息を吐く。


「お風呂にはさすがに入れないけどね」

「ごめんねお姉ちゃん、わたし臭いよね」

「ううん。ちょっとだけ草のにおいがするけど、なんだかおばあちゃんちの押し入れみたいで安心する」


 一緒の布団で寝て、寄り添って目を瞑る。


「日陰、頑張ったね」


 頭を撫でる手は、ひどく軽く、柔らかい。純白な羽から抜け落ちた羽毛に囲まれるように心を透き通ったものにしていく。


「お姉ちゃん・・・・・・」

「うん。大丈夫だよ日陰」


 わたしを包むお姉ちゃんの温もりに、赤黒い肉欲のようなものは一切含まれてはいなかった。


 くしゃくしゃに丸めた答案用紙を再び広げたような皺だらけの思考を、わたしは微睡の中でうっすらと見た。


 量じゃないのかもしれない。


 数じゃないのかもしれない。


 大きさじゃないのかもしれない。 


 大切であれば大切であるほど、得られるものがあるのかもしれない。


 その細い首筋を雑巾のようにしぼったら、緑色の手足をちぎるよりも、わたしにとって大切なものが溢れ出るのだろうか。


 人間の想像力には、限界があった。

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