07 朝の向こうへ

 あの夜会から3日過ぎた。

 ニナも私も、まだレアンドル伯爵家の暮らしには慣れない。


 グレーヴェン侯爵に呼ばれ、ニナと一緒に御屋敷に来ていた。同じ広間だと言うのに夜会とは全く違う雰囲気だ。それは元々、侯爵夫人が厳格な人だからだという事は会ってすぐに納得できた。

 侯爵令嬢と同じアッシュブロンドの髪と真っ青な瞳。美しく年を重ねたという言葉がぴったりの貴婦人は、夫であるグレーヴェン侯爵の隣に立ち、誰よりも威厳に満ちている。


 窓から差し込む日差しは弱く、寒い午後。


 ニナは比較的うちとけたメイドに抱かれ、少し後ろで眠っている。

 私はフェルナン卿と並んで立ち、緊張で身を固くしていた。隣のフェルナン卿さえ真摯な面持ちで一言も喋らないので、沈黙は一層重い。


 瞳の色と同じドレスを纏った侯爵令嬢が広間に入ってくると、侯爵夫人が静かに息を吸った。全員が揃い、大事な話が始まろうとしていた。



「この度、レアンドル伯爵より伺った寄宿学校創設の件、誠に尊い働きと心より歓迎しています」



 侯爵令嬢とそっくりの声だというのに、娘にはない神父様のような静謐さを備えている。それもそのはずで、侯爵夫人は厳格な教会派貴族の出なのだ。フェルナン卿に聞かされた時、彼はその精神を受け継いだのだと腑に落ちた。



「母として、また誇り高き貴族として、協力は惜しまないつもりです。ですが一つ条件があります」



 侯爵夫人はフェルナン卿を見た後で私にも目を向けた。直視されると居た堪れなくなり、私は目を逸らした。



「レアンドル伯爵は結婚するまでメロディに触れてはなりません」


「──!」



 隣に立つフェルナン卿が静かに息を吸い込み、小さく呻るのが聞こえる。私も驚いて目を見開き、床を見つめていた。



「またレアンドル伯爵は、メロディと結婚しないのであれば、後見人として彼女にふさわしい夫を見つけ恙無く嫁がせなければなりません。以上です。しっかりと心に留め置いてください」


「……」



 衝撃的な単語が並びすぎて、最初は話の意味するところがわからなかった。でもしばらく考えていると、侯爵夫人は私の純潔を守るように言っているのだと思い至った。



「メロディは私の遠縁にあたるフォード伯爵家の養子として正式に手続きを致します。今後はその名に恥じぬよう、日々祈り、奉仕と学びに務めるように」


「……はい」



 本当はもっと感謝の言葉を伝えなければいけない。けれども、私には身に余る事すぎて、受け止めるので精一杯だった。



「さて、もう一つ伝えるべき事があります」



 侯爵夫人の恩情があまりに大きすぎて、更にこれ以上まだ衝撃的な何かを伝えられるのかと思うと、もう息をするのもやっとだ。フェルナン卿の手が私に伸びかけて、止まった。今さっき触れてはいけないと言われたばかりだ。フェルナン卿はきゅっと拳を作り、静かに姿勢を正した。



「メロディとニナの出生を調べさせました。残念ながらメロディについては何もわかりませんでしたが、ニナはある由緒正しい家柄の者だという事がわかりました」


「!」


 

 私はついに顔を上げた。

 侯爵夫人は厳しいというよりは、とても真面目な表情を崩さずに私を見つめている。それでも体が勝手に振り返り、私はニナの姿を確認してしまった。メイドに抱かれて眠っているニナが……私の愛するニナが、高貴な生まれだという。


 引き裂かれてしまう恐怖に、私は全身が冷えるのを感じた。



「ニナというのはあなたが付けた名前だそうですね、メロディ」


「……は、はい……っ」



 名前を呼ばれて正面を向くと、侯爵夫人は少しだけ表情を和らげて小さく頷いた。



「その家は古い因習の残る地域を治めていて、二つの要因からニナを〝生まれてこなかった命〟として、なかった事にしています。一つは、双子であった事。もう一つは、全盲である事。そして遠く離れたこの街の孤児院に棄てたのです」


「……そんな」



 ニナが得るはずだった豊かな人生があった。

 その事実があまりに大きくて、重くて、悔しくて、辛い。

 でもその酷い処遇がなければ、私たちは出会う事もなかった。ニナがいない人生なんて考えられない。でも、私がそもそもニナに釣り合わない家族だった。その事も、心に鋭く突き刺さる。


 私は唇を噛んだ。


 侯爵夫人が一歩踏み出し、ゆっくりと私のほうへ歩いてくる。そして私の前まで来ると、そっと頬に触れた。頬というより、唇の脇の辺り。私は噛むのをやめた。

 


「まず、よかったのは、あなたがニナの母親ではないと確かめられた事です。もしそうならあまりに若すぎますからね。でも血の繋がりより強い絆で結ばれた家族なのだという事は、私にもわかります。メロディ。今の段階であなたの妹にする事はできません。伯爵家ではあの子に釣り合わないからです」


「……」


「私が引き取って、娘として責任を持って育てます」



 今度こそ息が止まった。

 私の中で、喜びが胸いっぱいに弾ける。引き離されるという悲しさよりずっと強い喜びだった。ニナが素晴らしい家族に恵まれて、将来を約束された。もう寒さに震える事も、お腹を空かせて泣く事もない。私にはとても及ばないたくさんの事をしてもらえる。


 私は膝をついて頭を下げた。



「ありがとうございます……ッ!」



 涙が零れた。そして、ニナの幸せを祈った。




  ◇  ◇  ◇




「お姉様」



 その声に呼ばれ、私は我に返り振りむいた。侍女に見守られながら、半分だけ瞼を開けたニナが戸口に立っている。



「ニナ。来てくれたのね」


「もちろんよ。そう手紙に書いてあってでしょ? 読んでないの?」



 おっとりした性格なのに気が強く育ったのは、絶対に年の離れた姉の影響だろう。あんなに泣き虫だったのに。でも芯の強さと高潔さは、きっと生まれ持ったものなのだ。


 グレーヴェン侯爵夫人は少しずつ私とニナを別の家で暮らす事に慣れさせたけれど、その後は3日と空けずに会えるようにしてくれた。だから私を姉と呼ぶ。ニナと私はそれぞれ教育を受けたけれど、もちろんニナのほうが目覚ましい成長を遂げた。


 ニナは8才になっていた。

 侯爵令嬢であったレティシアは4年前に嫁ぎ、今ではニナがただ一人のグレーヴェン侯爵令嬢だ。



「メロディ」


「……っ」



 かつてのように名前を呼びながら、手を伸ばして近づいてくる。胸が熱くなり、涙が込み上げた。私は窓辺から離れてニナを抱きとめた。



「ニナ……」


「メロディ。おめでとう」



 今日、私はフェルナン卿の花嫁になる。

 

 あれから3年の後、フェルナン卿の夢だった貴族以外の子供を対象とする寄宿学校が創立を果たした。それまでに教師として充分な教育を受けさせてもらった私は、何人かの聡明な令嬢や令息と共に教員の座についた。音楽と裁縫の担当なので片方は女の子しかいない授業で、そのときにこっそりお姫様が幸せになる御伽噺を語っている。なぜなら、私たちはみんな、誰でも、特別なお姫様になれるのだから。


 ニナが私のドレスを触って確かめている。その手は遠慮なく顔を渡り、頭のてっぺんまで登っていった。



「とてもきれい」


「あなたもいずれ着るわ」


「私、結婚はしないの」



 とんでもない言葉がニナの口から飛び出して、私は心底驚いた。



「ええっ!?」


「だって、いずれお兄様が爵位を継いだら、その奥方であるメロディは正真正銘ついに私のお姉様になるわけでしょう? 同じ家で同じ爵位で、昔みたいに朝から晩まで一緒にいられるようになる。出て行く理由がないもの」


「……ニナ……」



 8才の女の子らしい無邪気な夢に、ほっと肩の力が抜ける。

 私はニナの頬を両手で包んで、そっと囁いた。



「もしもの時は、婿入りという手もあるわ」


「……そうか!」



 ニナの湖のような瞳が煌めいた。

 ニナには私と違い、持って生まれた資格がある。だからといって、もし本当にニナが将来お婿さんを迎えたとしても、お互いの夫婦が一緒に暮らすなんて事はありえないのだけれど。


 ニナの花嫁姿を想像して、目頭が熱くなった。

 

 私たちは今、とてもとても、幸せだった。




  ◇  ◇  ◇




 フェルナン卿がそっと私をベッドに下ろした。

 


「メロディ……」



 蒼白い月灯りに照らされて、彼は本当に、美しい。

 彼が覆いかぶさってくる。ベッドがぐんと沈んで、すっかり夜の闇に包まれる。彼は私を抱きしめて全身を熱く撫でた。


 熱いキス。

 今日初めて誓いのキスをしてから、68までは数えたけれど、その後は数えるのをやめてしまった。彼は今までの分を取り戻すとでも言うように、一時も私を離さず、何度も何度も、事あるごとにキスをした。


 ニナの目が見えないのをいい事に……



「メロディ、愛してる。ずっとずっと、愛していた」


「フェルナン様……っ」



 息があがる。

 彼の指が夜着の紐をほどいて、少しずつ私の肌を冷えた空気に晒していく。



「もう様は無しだって、言ったろ」


「でも……」


「さあ、呼んでみて。フェルナン。さっき言えたじゃないか」


「フェ……っ」



 あたたかな掌に胸のふくらみを優しく揉まれ、声が詰まった。また深いキスを受ける。



「ほら、メロディ」


「……慣れなく、て……」



 舌が絡み合い、唾液が混じる。下腹部が熱く疼いて、私は自然と腰を揺らした。深いキスの間も彼の手は全身をくまなく愛撫している。



「きっと慣れる。もうあなたと私は、一つなんだ」


「……!」


 

 切ない悲鳴が迸った。


 私たちは長い間、愛し合った。

 愛し合っている事を、知っていた。

 そして誓いを守り、互いに触れず、大切に育んできたのだ。


 でも、あの夜から私は彼のものだった。

 あのみすぼらしくて弱い、ちっぽけな私が、彼と目を合わせた瞬間から。



「……フェルナン……っ」



 彼の熱い愛に包まれて、夜が更けていく。

 どこまでも深く、深く……





                                   (終)

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暗殺令嬢は伯爵の愛に溶かされる 百谷シカ @shika-m

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