06 愛しき人を抱きしめて

 フェルナン卿の屋敷は領地の街と森を抜けた丘の上に建っていた。なだらかな勾配が、木々の頭の向こうから射す朝日に輝いて、光に縁どられる。

 へとへとだった。フェルナン卿にほとんど抱きかかえられるようにして用意された部屋まで行くと、ふかふかのベッドが目に入り、私は意識を手放した。


 その次の瞬間、優しい手つきで体を揺さぶられ、瞼をこじ開ける。使用人の女性だ。



「女の子が着きましたよ」


「……!」



 飛び起きると、彼女は私さえ気づかない素早さでガウンを羽織らせて、前に回り込んで「腕を」と言った。ガウンの紐を縛りながら部屋を出る。扉の脇でフェルナン卿が待っていてくれた。

 二人を追い越して玄関に走った。


 ニナ。

 本当に無事だろうか。


 一刻も早く、彼女を抱きしめたい。


 玄関を家令らしき年配の男性が開けてくれた。突然、泣き声が届く。ニナだ。一気に体が熱を発した。

 前庭に馬車が停まっている。公爵令嬢に抱えられたニナは顔をぐしゃぐしゃにして泣き喚いていた。



「……っ」



 涙があふれた。

 全速力で駆けていく。侯爵令嬢は3才の女の子に手を焼いていた。髪を掴まれ、涎と涙を撒き散らされ、散々だ。それでも懸命に話しかけている。私の名を伝えたのか、泣き声が少しだけ弱まり、ニナが辺りを伺って顔を彷徨わせる。



「ニナ……!」



 私は手を伸ばして速度を緩めた。ニナも手を伸ばす。



「ほら、メロディよ」



 侯爵令嬢が優しく言いながら、ニナを私に抱かせてくれた。

 とても重い。小さなニナがとてもとても重く感じる。


 抱きしめてその感触と熱を体全身で確かめた。よかった。ニナは無事だ。そして本当に連れてきてくれた。ニナがここにいるという事は、他の子供たちもきっと無事だ。


 ニナは泣き止んだものの、まだ不安そうに鼻をすんすんと鳴らしている。

 顔を見ると、太陽に照らされて湯気が立っているみたいだった。髪を撫でて、頬を撫で、涙を拭いて、キスをする。



「ニナ、私よ。昨日はごめんなさい。ちゃんとここにいるわ」



 目の見えないニナがこちらを見つめる事はない。けれど私のほうを向いて、顔を触り、ぎゅっと抱きついてきた。あたたかい。呆然と遠くに目をやりながら、ニナと互いのぬくもりを確かめ合った。


 私はいつしか歌っていた。ニナの好きな歌だ。左右に揺れながら拍子に合わせて背中を叩く。眠れない夜も、洗濯中も、手をつないで散歩する時にも、いつも歌った歌。



「素敵な歌声」



 傍で侯爵令嬢が呟いた。

 もしかすると、それは本当かもしれない。目の見えないニナに愛情を示せるように、神さまが与えてくれた声だから。


 ほどなくしてニナは寝息を立て始めた。恐い夜が終わったのだ。ニナが安心して眠れるように、夢の中でも聞こえるように。私は歌い続けた。


 気配がした。フェルナン卿にニナごと優しく抱きしめられて、私は動くのをやめる。だんだんと歌を小さくして、ニナの耳元にキスをする。



「もう大丈夫。必ず守るよ。大丈夫だ」



 私に抱かれて眠るニナのように、私もフェルナン卿の腕の中で、深い安らぎに包まれていた。




  ◇  ◇  ◇




 午後になるとフェルナン卿は出かけてしまった。主人が留守の間は侯爵令嬢がいてくれるらしい。

 食卓にパンとミルクとスープが並んでいる。いつものぼそぼそした硬いパンではなくて、もっちりとした甘みのある上質な食事だ。ミルクも、バーナデッドさんが最初に飲ませてくれる一杯の倍あった。スープはあたたかく、魚が入っていた。こんな贅沢な食事は初めてで私がニナの分を少しずつ残しておくと、一緒に過ごしてくれていた侯爵令嬢が心配してくれた。



「食欲がない?」


「あ、違うんです。ニナに……」


「馬鹿ね」



 彼女が笑う。それだけで光の粒が弾けるようだ。



「ちゃんとおチビちゃんの分もあるわよ。どうせならお茶の時間まで寝てればいいわ。そうしたらマフィンもあるから」


「……」


「美味しいわよ、マフィン」



 感動して言葉を失っている私に、彼女は優しく微笑んだ。

 こんなによくしてもらっていいのだろうか。もしかしたら、もうすぐ死ぬのかもしれない。これは最後の恩情なのかも。急に訪れた豊かな日常に戸惑いつつも、安心して全部食べた。



「ちゃんと食べてね。痩せすぎよ」



 それは食べるものが限られていて、できるだけ下の子たちに行き渡るように私やシスターが控えていたためだ。お腹いっぱい食べた事なんてなかった。それでも、子供たちと過ごす食卓は幸せだった。

 みんなに会いたい。

 私一人がこんな贅沢をしているのが申し訳なくて、でも出されたものを残すのも失礼だし、ここまでしてもらって更に他の子たちへたくさんの食べ物を恵んでくださいとまでは、なかなか言えない。なるべく早く言葉を見つけなくては。



「少し休んだら運動よ」


「え?」


「直々に教えてあげる。私の、華麗なる剣捌きを……」



 言いながら大きなあくびをする侯爵令嬢は、まさしくお腹が満たされて微睡もうとする女豹のようだった。


 胃が落ち着いた頃、運動着に着替えさせられ庭に連れ出された。本当にやると思っていなかった、というより、本当はやらないと思っていたかった剣術の稽古が始まる。まずは準備運動から。そして持ち方、むやみに人に向けてはいけないという基本。必死でついていった。絶対に向いてないとわかっていたけれど、実のところあまり苦ではない。侯爵令嬢の、男装の女騎士という雰囲気が素敵すぎた。


 一つの窓が開いて、ニナの泣き声が聞こえて来た。見ていてくれていたメイドの人が困り顔で私を呼ぶ。



「メロディ様ぁ~!」


「……」



 ニナが泣いているのに、言葉を失って立ち尽くした。

 私の名前に様がつくなんてありえない。


 もしかしたら全部が夢なのではないかと、本気で疑った。けれどニナの泣き声がますます激しくなって、考え込んでなどいられなくなる。



「ほら、行きなさい」



 侯爵令嬢に促されて、私はニナの元へ走った。




   ◇  ◇  ◇




 夜になりフェルナン卿が帰った。

 もう遅いので侯爵令嬢も泊っていくとの事だ。明日も剣の稽古をすると脅され、なんとか笑顔で感謝を伝えた。



「ひとまず子供たちは私の所有する孤児院に移したよ。かなり老朽化しているし、お年を召したシスターばかりで驚いた。事情を話したらあなあの事をとても心配していたので、一緒に祈りを捧げたよ」


「ありがとうございます。なんとお礼を言ったらいいか……」



 フェルナン卿に少し話そうと誘われて図書室にいる。グレーヴェン侯爵家のそれより小ぶりで、落ち着いた雰囲気だ。肘掛椅子と机に、チェス盤が一脚ある。フェルナン卿は教えてくれると言ったけれど、夜も遅いので丁寧に断ったのだ。こんな時間にあたたかな紅茶を飲みながら男性と、しかも伯爵様と話しているなんて、一昨日まで想像さえした事がなかった。

 紅茶にブランデーを注ぎ、フェルナン卿は笑った。



「それより擽らせてほしいな」


「えっ……!?」



 椅子の上で思わず身構えてから、揶揄われたのだと気づく。

 だからと言って不満に思う事はなにもなにので、紅茶のカップを両手で包んで俯いた。もちろん擽ってほしいなんて思わないけれど、フェルナン卿の言っているのは、私にもっと笑った顔をみせてほしいという意味だ。

 作り笑いでもするべき?

 とにかく口角だけは上げてみよう。



「余計な事を言ったかな。そうしたら……そうだ。歌が聞きたい」



 フェルナン卿の声は優しく、それは私ができる事だった。

 カップを置いてそっと歌いだす。フェルナン卿は耳を澄ませるように目を閉じて、肘掛についた手の甲に頬を預けた。ニナや子供たちのために歌ってきた歌を大人の男性に聞かせるのは変な気分だ。けれど、なぜか嬉しかった。一瞬、フェルナン卿が寝てしまったのかと思う瞬間があった。すると彼はわりとしっかりした口調で呟いた。



「そう。私を成長したニナだと思って」


「~~♪ プッ」



 つい、笑いが洩れる。

 フェルナン卿がパチッと目をひらいて、上機嫌な笑みを刻んだ。



「ああ、やっと笑ってくれた」



 その時、急に図書室の扉が開いて黒い外套姿の男性が飛び込んで来た。フェルナン卿が立ち上がり、私を庇う。



「逃げなさい!」



 そう言われても、体が動かない。

 忽ち乱闘になって紅茶が零れ、カップが割れた。悲鳴でもあげる事ができたら、誰かに気づいてもらえたかもしれない。でも私は凍りついたままだった。


 マチアスだった。殺しに来たのだ。

 それがフェルナン卿だけなのか、私も含めてなのか、それとも屋敷全員を皆殺しにするつもりなのか、わからない。そのすべてを想像して、私は震えた。私のせいだ。私の……



「メロディ!」



 呼ばれてハッと我に返る。フェルナン卿がマチアスと揉み合いになりながら横目で言った。



「窓を割るんだ! 誰かしらが気づいて様子を見に来る。頼む!」



 今度は体が動いて、私は窓辺に駆け寄った。フェルナン卿とマチアスの罵りあう声を聞きながら、辺りを見回す。近くの書架に真鍮の文鎮があった。それを掴んで、窓にぶつける。

 窓が割れると、フェルナン卿の言った通り御屋敷のそこかしこから音が立ち始め、廊下が慌ただしくなった。


 振り返る。二人とも態勢を崩し、持ち直そうとしているところだった。

 足が竦む。体が凍る。

 息を呑んだ。


 マチアスのほうが、わずかに早かった。


 その手にギラリと刃物が光っているのを見た瞬間、私は突進していた。椅子の傍にあった床置きのランプの柄を引っ掴み、マチアスに力一杯に振りかぶる。マチアスの目が一瞬、信じられないものを見るように見開かれた。けれど渾身の一撃だったにも関わらず、マチアスはわずかに後ろへよろけただけで、すぐに襲いかかってくる。



「!」



 後ろから太い腕がぬっと伸びて来て、私の手から重たいランプを奪った。そして羽ペンのように指先で軽々と回し、その先端でマチアスの胸を突く。重く重厚な装飾の施された先端は面積があり、マチアスの肉体を貫く事はなかった。鋭い打撃を受け、マチアスが後ろ向きに弾き飛ばされる。


 もう片方の腕が力強く私を抱いた。

 

 マチアスが起き上がる前に御屋敷の人たちが思い思いの武器を手に駆けつけ、その中には当然、夜着姿で剣を構えた侯爵令嬢もいた。その瞳が冷たく光る。



「ふん。間に合ってよかった」


 

 と言って、マチアスを踏んだ。

 フェルナン卿は私を抱える腕の力を弱めて、安堵の溜息を洩らしている。



「誰が姉上の相手をしてきてあげたと思ってるんです」


「泣かしておいてよく言うわ。もう一度、徹底的に騎士道を叩きこまなくてはいけないわね」



 と、今度は剣先をマチアスの鼻に当てた。

 こうしてマチアスは捕らえられ、翌朝、自由と平等の会の全員が逮捕されたのだった。

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