05 夜に芽吹く想い

 体が揺れている。

 大きく弾んだ拍子に目を覚ました。眠ってしまったらしい。



「ん……」



 あたたかい。

 こんなに肌触りのよい夜着を持っていただろうかと考えて、今日あったすべてを思い出した。



「……!」


「大丈夫。私がついているから、安心してお休み」



 フェルナン卿に抱き寄せられている。とてもいい匂い。きっと香水だろう。

 大きな手が優しく私の腕を撫でおろし、柔らかな強さで私の頭を胸元に押し付ける。私もよくやった。お話の途中で眠くなってしまった子や、寂しくて泣いてしまった子を、こうやって隣に座って抱きしめた。


 貧しかった。

 だけど、今日よりは幸せだった。



「もう少しかかるから。メロディ。よく頑張ったね」


「……」



 睡魔に勝てず、私は目を閉じた。とても心地よかった。

 次に目が覚めた時は頭がはっきりしてしまったので、身を起こした。ずっとフェルナン卿に寄り掛っていたなんて、とんでもない事だ。



「おはよう」


「あ……申し訳ありません」


「否。私もあたためてもらった。喉は渇いてない?」


「大丈夫です」



 馬車は比較的なだらかな道を走っているようだ。



「よかった。酔ったらどうしようと心配したよ」


「……大丈夫です」



 確かに、馬車で酔う体質ではなさそう。でも今日生まれて初めて乗ったし、三回とも普通ではない状態だった。もし気を抜いて戻してしまうような事は避けたい。

 馬車の中は座席に美しい刺繍が施されているようだけれど、ゆれる小さなランプの灯りだけではあまりよく見えなかった。



「メロディ」


「……はい」



 優しく呼びかけられて、なんだかくすぐったいような、それでいて胸が苦しくなるような、不思議な感じになる。寝起きで怠いせいかもしれない。



「姉上は朝、ニナという子と一緒に来るからね」


「……!」



 フェルナン卿の厚意は感謝してもしきれない。まだ心の隅に、本当にそんな事をしてもらえるのか、そんな話があるだろうかという思いもあった。けれど、それに縋るしかない。そして、私はフェルナン卿を信じたいという思いを止められなかった。


 優しい、大人の男性。

 初めて安心して頼れる人に出会った。


 だから、信じてしまいたかったのだ。



「あの、本当にありがとうございます。どうお礼をすればいいか……」


「笑ってほしい」


「え?」



 私にできるのはせいぜい精一杯働かせてもらうとか、そういう事。

 けれどフェルナン卿は私の手にそっと大きな手を被せて、親指で撫でた。



「メロディ。あなたが笑う顔が見たい」



 優しく見つめられて、戸惑う。フェルナン卿はとても美しい男性だ。柔和な雰囲気だけれど、背も高く逞しい。柔らかそうなダークブロンドの髪も、青味がかったグレーの瞳も、とても魅力的。見つめられたくないと、やっと気づいた。

 私はときめいているのだ。


 馬鹿みたい。



「ずっと不安そうな顔しか見ていないからね。あなたは可愛い。笑ったらきっと、満開の花のようだろうな」


「そんな……」


「子供たちが心配なんだろう。だけど、明日の昼を過ぎてもそんな顔をしていたら擽るよ」


「えっ?」



 突然、悪戯好きな子供のような事を言うので、少し大げさに驚いてしまった。

 フェルナン卿は声をあげて笑うと、私の手をごく自然に握った。



「ちゃんとニナに再会してもらって、私の良い所を見せなきゃね。そうだ、なにか気になる事があれば遠慮なく言うんだよ。体調の変化も、姉上がいればすぐわかるけど私は男だから」


「……」



 どう返すのが正しいのか、さっぱりわからない。

 私は男性と親密な関係を持った事はおろか、友達だっていない。11才になるケヴィンは少し頼れる所も出て来たけれど、あの子は家族だ。でもフェルナン卿の言っているのは、そう、彼の基本に基づく親切の一環のはず。私は孤児。革命家に利用された惨めな、行き遅れの孤児。


 まさか。


 ヒヤリとしたものを感じて、固唾を呑んだ。

 私が仕事を探さないで孤児院に残ったのは、子供たちが好きだったし、手の足りない孤児院に少しでも恩返しがしたかったからだ。本来なら、それこそどこかでメイドや針子などやっていてもおかしくない。


 もしかして、踊り子がパトロンを求めるように、私もそういう下心があると思われただろうか。

 急に恥ずかしくなって俯く。フェルナン卿の視線を感じる。



「あ、あの……っ」


「うん」


「レティシア様には、ほ、本当によくして頂きました……」



 第三者の名前を出すと、それだけで少し冷静になった。でも、私の手の上からフェルナン卿の手を退けてもらうにはどうしたらいいのだろう。

 顔が火照って仕方ない。

 ランプの灯だけでは気づかれないはずだ。暗くてよかった。



「虐められなかった?」


「はいっ。あの……とても大胆な、勇気のある方ですね」


「うん。私より#漢__おとこ__#だね」


「私が、危険なものを持っていないという事を確かめられたのですが、とても気遣ってくださいました。お優しい方です。とても美しい方ですし」


「まいった。姉上に先を越されるとは」



 その呟きを無視する形になってしまったけれど、私は気になっていた事を伝えた。



「ですが……エルヴェシウス兄弟はきっと恐い人たちです。もし私ではなくて、強い仲間が忍び込んでいたら……本当に危険なものを持ち込んでいたらと思うと、レティシア様は少し危なかったと思います。出過ぎた事を言っているのはわかっています。だけど、……その、レティシア様は男性ではないので、守ってさし上げてください……」


「やっとたくさん喋ってくれたと思ったら姉上の心配かぁ」



 はぁ、とフェルナン卿が溜息をつく。



「大丈夫だよ。姉上は私なんかよりずっと強いから」


「でも……っ」


「狩り狂いだし剣も振り回すし、例え本物の刺客が忍び込んで来たって平気さ。むしろその刺客に同情する」


「……」



 困り果てた風に言うので、何も言えなくなってしまった。

 侯爵令嬢にしては随分と特殊な人なのかもしれない。



「あの人が男に生まれなかったのは神の業だ。戦争なんか大嫌いだよ」



 本気なのか冗談なのか、わからない。

 けれど彼が平和主義者である事は確かだろう。それに、博愛主義。地位と財産に恵まれた人が貧しい人々、特に子供たちを省みてくれるのは本当に神さまの御導きとしか言い様がない。



「そういえば、あなたは孤児院に仕えるシスターなのかな」



 窓のほうを向いてフェルナン卿が言った。外はまだ夜明け前で、窓は鏡のようにほのかなランプの灯に照らされた馬車の中を映す。



「いえ。赤ん坊の時に、棄てられていたそうです」


「そうか」


「本当ならもう仕事に就いていい歳なのですが、人手が足りなくて……それに子供たちと離れられないので……」



 窓に映るフェルナン卿に向かって答える。彼は目を合わせずに外を見ていた。

 


「シスターになりたいと思うかい?」



 考えた事がなかった。



「……いえ、特には」


「そうか」



 フェルナン卿は再びこちらを向くと、私の手をぽんぽんと叩いた。そしてあたたかな笑みを浮かべる。見惚れてしまってから目を逸らした。耳の裏まで熱くなり、鼓動が高鳴る。


 駄目。

 彼は御伽噺に出てくる王子様とは違うのだから。


 いったいこの先どうなるのだろう。恐くはないけれど、途方もなく不確かな未来が口を開けたような気がして戸惑いを隠せない。今までは、生涯を孤児院に奉仕する人生だと思ってきた。それが当然だと信じて疑わなかった。


 いつか、王子様が……なんて。

 そんな虫のいい話は、考えた事なかったのに……。



「メロディ」



 低い声は蜂蜜のように耳を擽る。



「例えばの話。あなたがこれから興味が湧いたものに対して学びたい気持ちがあれば、私は手を尽くして応援する。子供たちが好きなんだよね。──教師になりたくはない?」



 教師? 私が?



「……わかりません。考えた事も、ありません」


「学校を建てたら、子供たちに教えてくれる教師が必要だ。でも平民の子供に貴族同等の教育を施してくれる人材はまだ見つかっていない。あなたが私の思いを理解してくれるなら、お願いできればと本気で考えている。どうだろう」



 囁かれている内容があまりに非現実的で、混乱してしまう。でもとても心惹かれるものがある。



「私なんて……!」


「時間はある。1年か2年、私の屋敷に住んで家庭教師をつければ実現可能だよ」


「レティシア様が」


「子供たちが怯える」



 ふんわりと微笑みフェルナン卿は私の目を覗き込んだ。



「考えてみて。先は長い」



 私はまた何も答えられずに目を逸らした。

 どうなってしまうのだろうと不安になるたびに、神さまに祈ってきた。

 けれど、今回は違う。


 小さな期待が、胸の奥に芽吹いた。

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