04 女豹レティシアの旅支度

 毒薬の小瓶を持つ手が震えてしまって、落ちないようもう片方の手も添える。フェルナン卿の大きな掌の上まで無事に渡るように、手が滑らないように。自分が何を祈っているのかすらよくわからなくなっていた。


 殺そうとしていた人に、殺すための道具を渡す。

 本来しようとしていた事に比べればずっとましだ。


 フェルナン卿は椅子で腰を抜かした私の前に跪いて、根気強く待っていた。

 ついにフェルナン卿の掌に、毒薬が落ちる。



「ひっく」



 これで終わった。

 私はもう、裁かれるのを待つだけだ。


 罪の重さが恐ろしくて、震えが止まらない。泣いても後戻りできないのに。


 フェルナン卿は廊下に控えていたらしい誰かに毒薬を渡した。調べれば製造元やよく使う犯罪者たちの顔ぶれがわかるかもしれないという内容のやりとりがあって、私もやっと気づく。

 私はエルヴェシウス兄弟の名前を知っている。

 伝えるべきかもしれない。


 少なくとも、ニナを守ってもらわなくてはいけないのだから。



「……っ、……か」



 うまく声が出せなかった。

 伝達を終えて再び図書室の中へ戻ってくると、ちょうど縋るように見つめて泣いていた私にフェルナン卿が気づいた。目を丸くして、慌てた様子でまた目の前に跪いた。



「大丈夫かい? すまない、不安にさせたね」


「……あ、あの……っ」



 私は頬の涙をごしごしと拭ってエルヴェシウス兄弟の事を伝えた。フェルナン卿は私の目を見つめて頷きながら丁寧に聞いてくれる。身の程知らずな勇気が湧いて、私は言ってしまった。



「ニ、ニナ……っく……触らせないで……ッ、お願いします……」


「わかった。ニナだね。もう心配いらない。もう人をやったから」


「ありがとうございますっ……ありがとうございます……!」



 膝の上で指を組み、神さまに祈る。

 どうか、ニナをお守りください。孤児院の子たち全員が無事でありますように。


 陶器のこすれる音がして瞼を押し上げると、フェルナン卿が紅茶を差し出してくれていた。顔にあたたかな湯気がかかる。



「飲んでごらん。落ち着くよ」


「……」



 フェルナン卿の誘いはとても優しい。けれど自分がしようとしていた事を思い、私は凍りついた。彼は私が恐れていると気づくと、微笑みながら紅茶を一口飲んだ。



「ほら大丈夫。カップのそちら側にだけ毒が塗ってあるなんて、流行りの大衆劇みたいな事もないから」


「……」


「恐かったら、私が口をつけたところから飲んでごらん。死なば諸共。一人では逝かせないよ」



 茶化して言うフェルナン卿は悪戯好きな少年のようで、なぜか心が解れてしまう。実際、たくさん泣いて喉が渇いていた。それに柔らかなハーブの香りがあまりに誘惑的だ。私は恐る恐るフェルナン卿と同じ場所に唇をつけ、一口、紅茶を飲んだ。まろやかな舌触りと、鼻に抜ける馥郁たる香り。緊張と涙のせいで怒っていて頭痛も一瞬にして和らいでしまった。



「……ぁ」


「美味しいかい? よかった。ところで、どうしても教えてほしい事がもう一つあるんだ。訊いてもいいかな?」



 椅子に座る私の体に寄り添うように、フェルナン卿が跪いた状態で肘掛に片肘を乗せ、頭を預けた。間近から見あげてくる美しいグレーの瞳に吸い寄せられて、私は頷いた。甘えん坊の少年の相手をしていた頃を思い出す。



「名前を教えて欲しい」


「……メロディです」


「可愛いなあ」



 フェルナン卿はただでさえ柔和な面立ちを更に和らげて、ふにゃりと笑った。

 どくん。

 驚いたのか、もっと別の感情なのか。突然、息が苦しくなる。



「メロディ。安らいで心から笑顔になれる日を作ってあげよう。約束するよ」


「……」


「もう恐がらなくていいんだ」



 強く扉を叩く音がして、フェルナン卿が体を起こした。そして機敏に立ち上がるのと同じタイミングで返事を待たずに相手が入ってくる。私は忽ち硬直して、少し紅茶を零した。太腿にじんわりとあたたかな熱が広がった。


 厳しい表情の侯爵令嬢がドレスを抱えている。自身が着ている深紅のドレスよりずっと地味な、深緑色のドレスだ。布で隠れていたけれど、編み上げ靴の紐を指にひっかけている。彼女はもう微笑んでいない。けれど、あまりの美しさに状況も忘れて見惚れてしまった。



「殺してやりたいわ」


「!」



 こちらに歩いてきながら低く呟いたその言葉に、私は縮み上がった。

 覚悟はした。運命を受け入れたつもりだった。でも実際に裁かれる瞬間が訪れると、恐怖は制御のしようもない。

 フェルナン卿が溜息をついた。



「レティシア、牙をしまえよ。メロディが恐がってる」


「メロディ?」



 そしてフェルナン卿を押し退けて私の前に立ち、鮮烈な光を宿す瞳で見おろしてきた。私は息も忘れて細かく震え、それに合わせて紅茶のカップが音を立てた。怒った表情のまま無言でカップを奪うと、代わりにドレスが降ってきた。



「着替えなさい」


「レティシア。もう少し優しく……」


「お黙り。度胸はあったんだからこれくらい平気よ。そうよね?」



 私は素早く何度も頷き、反発する意思のない事を必死で伝える。



「ん、いい子よ。本当に腹が立つ」


「!」



 編み上げ靴を持つのではないほうの手が伸びて来たので、ついびくりと跳ねてしまった。美しい侯爵令嬢は乱暴にミルクを掴むと、それを一気に飲み干して息を吐いた。



「急進派の屑共」


「レティシア」



 フェルナン卿が弱り切った表情で額を覆った。



「なに見てるのよ。着替えなさいって言ったのよ。ぼーっとすんじゃないわよ」


「ああ……」



 天上を扇いで呻ってから脇に回り込んでくると、フェルナン卿が大きな体を折って私の顔を覗き込んだ。苦笑いを一瞬で和らげて、優しい声で言う。



「姉上はエルヴェシウス兄弟に対して怒りを燃やしているのであって──痛ぁッ!」



 侯爵令嬢がフェルナン卿の額をぴしゃりと打った。フェルナン卿は痛みを訴えながら後ずさっていく。私は驚いて口を開けたまま見ていた。



「いつまで居るの。あんたが居るから着替えられないんでしょ。出ていきなさいよ」


「……」



 すごい迫力だ。

 唐突に、この人ならエルヴェシウス兄弟なんて敵ではないと感じた。

  

 図書室を出ていく間際まで、フェルナン卿は私を安心させるためかずっと笑顔で話しかけてくれた。その間ずっとムッとしていた侯爵令嬢は、フェルナン卿の姿が見えなくなった途端、激変した。フェルナン卿と同じように私の前に身を低くすると、目尻を下げて私の腕を撫でた。



「可哀相に。恐かったわね。もう大丈夫よ」


「あ……」


 

 戸惑いで言葉に詰まる。この人にとって、私は弟を殺そうとした卑しい平民のはずだ。それなのに、さっきまでのフェルナン卿と同じように心を砕いてくれているように見える。信じられない事が続いてすっかり思考が止まっている私の頬を、優しい指が撫でた。



「たくさん泣いたのね。ごめんなさいね、もうちょっと頑張って。一応、あなたが毒の小瓶以外は危険なものを持っていないと確認しないといけないの。私が見たと言えばお父様も黙るから。少ししつこく触るけど許してね。ほら、立って」



 促されて立ち上がり、ドレスを椅子にかける。生まれて初めて纏った今のドレスも、着るのも脱ぐのも人の手を借りる必要があった。侯爵令嬢は私の背中の紐や金具を手早く外すと、ドレスを脱ぐのを手伝い、下着も脱ぐように言った。十才ほど年上に見える大人の女性の前で裸になるのは、恥ずかしかったけれどそこまで苦ではなかった。それは彼女が親身になってくれるので、安心してしまったからかもしれない。


 裸になり、侯爵令嬢のチェックを受ける。

 髪も解き、頭皮をまさぐるようにしてまで丹念に調べられた。


 私は忍び込んだ暗殺者なのだ。

 こんな確認をせずに、一思いに殺されて当然だった。

 なぜ助けようとしてくれるのか理由はわからなかったけれど、そのあたたかさに触れて、私はまた泣きそうになった。



「さあ、終わったわ。嫌な思いをさせてごめんなさいね。次はこっちよ」



 用意されたドレスも侯爵令嬢は着るのを手伝ってくれる。姉のような、母のような、憧れていた触れ合いに胸が熱くなる。

 着替えると再び椅子に座るよう言われた。そして侯爵令嬢は私の後ろに回ると、髪を梳かし始めた。丁寧な手つきで程よい刺激が心地いい。ついに涙が頬を伝い、着たばかりのドレスに染みを作る。



「ここではどうしてもお父様が煩いから、あなたを弟の屋敷へ移す事にしたの。レアンドルでは弟が王様よ。今夜は安心して眠れるわ」



 侯爵令嬢は私の髪を一本に緩く縛り、柔らかな布で顔を拭いてくれた。そして編み上げ靴の履き心地を尋ね、ドレスの襞に隠れていた帽子を私の頭に被せた。



「さあメロディ、楽しい馬車の旅の始まりよ」

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