03 レノー伯爵令嬢の敗北

 広間に戻り、マチアスの元へ戻った。マチアスは私を褒めたけれど、とても喜ぶ気にはなれなかった。なるべくその時が来なければいい、できる限り先延ばしにできたらいいと、そればかりを考えていた。でもしばらくして、フェルナン卿はまた私に声をかけた。



「いかがですか? 少しは楽しくなりました?」


「あ……はい」


「静かな場所がお好きなら図書室はどうでしょう。私も少し疲れた。一休みしませんか?」



 この誘いに嬉々として目を輝かせたマチアスが、文字通り私の背中を押した。私はフェルナン卿について広間を出ると、絨毯の敷かれた長い廊下を歩いて図書室に入った。

 ついにこの時が来たのだ。


 扉を閉め、彼が悪戯っぽく笑った。



「やっと解放された。姉の夜会はどうも騒がしくて、あまり性に合いません」



 私は字が読めない。

 二人きりの部屋でする事は、一つしかない。



「……閣下」


「はい」



 呼びかけにフェルナン卿が即答する。なぜか嬉しそうに見えた。



「あの、ありがとうございます。とても、あの場にいるのが辛くて……」


「もっと早くに連れ出せたらよかったのですが。気になっていたんです、本当に怯えた猫みたいで。遅くなってすみませんでした」


「いっ、いいえ」


「ここなら少しは気が休まりますか?」



 首を傾けて私の目を覗き込むようにして、彼はとても丁寧に尋ねてくる。私の事を心から気遣い、本心を探るように。でも悟られてはいけない。けれどこの優しさが暮らしの余裕から生まれているのだとしても、今夜だけは憎む気にもなれなかった。



「はい……皆様、閣下の事が好きみたいでしたね」



 なんとか普通に話さなければと、当たり障りのない会話ができるように努める。彼は破顔して腕を組むと、扉に寄りかかり考え込むような姿勢を取った。



「うーん。好きと言うか、物珍しさと父への胡麻擦りもありますから。でも悪い人たちじゃないし、一応は私の事業に興味を示してくれるので頑張って口説きましたよ」


「……事業?」



 私の言葉の認識が合っていれば、彼は貴族なのに働いている事になる。

 


「ああ、レノー伯爵はあまり芳しくない感じはしますね。あなたはどう思うかな」


「……」


「実は昨年、村人や町の人たちのための病院を建てたんです。無料のね」



 すぐには話が呑み込めず、黙って彼を見つめた。数秒して意味がわかると、とても驚いて言葉を失ってしまった。信じられない。



「それと孤児院への寄付。もちろん教会にも。できたら来年までに学校を建てたいと思っています。子供は奴隷じゃない、もっと大切に育てるべきだと、そう思っているんです」


「……」


「政治家や弁護士や裁判官、優秀な人材がそれまで平民や農民と言われていた人たちから出て来た。貴族が甘い汁を吸って胡坐をかくような時代はいずれ終わります。誰もが平等に扱われ、生まれに囚われず自由な生き方をして、且つ安心して暮らせる社会を作る。それが私の夢です」



 どう考えたらいいのかわからなかった。

 当然、嘘の可能性もある。けれど彼の醸し出す雰囲気に偽善的な要素はあまり感じられない。



「自由と、平等……」



 つい最近、どこかで聞いたセリフ。

 孤児院から私をさらい、目の見えない無力なニナを人質にとるような集団。

 彼らが殺そうとしているこの貴族の男性もまた、同じ言葉を口にしている。そして、フェルナン卿の言葉が真実なら、彼はとても尊い働きをしている事になる。


 だとしたら彼を殺すのは間違いだ。



「馬鹿げていると思いますか?」


「いいえ。子供たちは、喜ぶと思います」



 フェルナン卿の安堵するような顔を見あげながら、ニナの事を思った。孤児院は貧しくて、ニナの治療なんてとてもできない。もう3才なのに、まだ言葉もほとんど話せない。私がいなきゃ駄目なのに、今日はまだ抱きしめてもいない。


 ニナを守らなければ。



「よかった。あなたはわかってくれると信じていました。今回の夜会も実は、姉が私の協力者探しに一肌脱いでくれたんです。秘密ですよ」



 フェルナン卿は人のいい笑顔を浮かべて人差し指を立てる。

 私の抱えている秘密は、比べようもないほど醜く、罪深い。



「だけどあなたからレノー伯爵に言ってもらう事は難しそうですね。なぜなら──」



 罪の意識に苛まれていた私は、続く彼の言葉に息が止まった。



「彼はレノー伯爵ではない」


「……」



 そして、初めてフェルナン卿の顔から微笑みが消える。



「あなたは誰だ」



 まず最初に思いついたのは、逃げるという事だった。けれど足が竦んで動けない。それに私がやらなければニナが殺されてしまう。力で勝てる相手ではない。だから毒を持たされている。なんとか疑いを逸らして彼に飲ませなくてはいけない。


 私はすっかり狼狽えていた。やらなければと思いながらも、やっと動けたのはただ怯えて後ずさりしただけで、安楽椅子にぶつかりバランスを崩してしまう。そのなめらかな手触りの安楽椅子につかまり、ただ愕然とフェルナン卿を見あげていた。



「可哀相に。ずっと怯えているね。演技だとすれば天晴れだが、どうもそうは思えない。さしずめ私に近づくために雇われたんだろう。だけど娼婦ではない。脅されたのか? 正直に話してくれれば助けてあげられる。メアリー」



 近づいてくる。

 逃げられない。



「そうか」



 私を見おろしていた瞳が揺れて、彼は少しだけ苦しそうに眉を寄せた。



「名前を付けられたんだね。酷いな。ああ、泣かないで。大丈夫だよ。この家では彼はあなたに何もできない。兄妹というのも嘘だね? 話してくれないか。約束するよ、絶対にあなたを罰したりしない。守ってあげるから」



 小さな子をなだめるように優しく言って、彼が私の前に跪く。そして私の手をそっと掬い上げ、大きな掌で包んだ。涙が止め処なく溢れて、息が震える。


 どうしよう。

 できない。


 全て見透かされていた。

 ニナが、殺されてしまう。



「信じて」



 真摯な眼差しで見つめられ、ついに嗚咽が洩れた。もう駄目だ。この計画は失敗した。私にできるのはもう命乞いだけだと悟る。私はどうなってもいい。この人を殺しに来たのだから、私がこの人に殺されたって少しも不思議じゃない。でもニナは……誰かがあの子を守らなければ。

 マチアスの仲間がニナをさらって川に投げ捨てる光景を想像すると、それしか考えられなくなってしまった。強烈な恐怖と焦りで泣きじゃくる。フェルナン卿は片手を繋いだまま、確かな力で私の腕を擦った。



「どうした、何が恐いんだ? 言ってくれ。なんと言われた?」


「……っく、うぅ」



 私の涙がフェルナン卿の額や頬に落ちる。それを気に留める様子もなく、彼は私の手を握り直したり、腕を擦ったりした。その表情はまるで病気の子を看病しているみたいに切実で、思いやりに満ちている。

 私は殺されるかもしれない。でもニナにはなんの罪もない。心を込めて助けを求めれば、ニナの事は守ってくれるかもしれない。さっきフェルナン卿は孤児院に寄付をしたと言った。学校を建てたいと言った。私が縋れるのはもう、その言葉しかなかった。



「……あな、たを……っ」


「うん?」



 どうしても言えずにいると、彼が慎重な眼差しで私を探り、言った。



「殺せと言われた?」


「……ごめんなさい……ッ」


「はぁ」



 大きな溜息を吐く。でもそれは私に対してではないようだ。



「こんな年端もいかない娘に、あいつ……」


「ごめんなさい、私」


「いいんだよ。恐かっただろう。さっき約束した通り、罰したりしないよ」


「私なんでもします! 本当にごめんなさい! 私はどうなっても構いません! だから……ッ」



 泣き喚く私をフェルナン卿が労わるように撫で続けている。



「そんな事を言わなくていいんだよ。わかっているから」


「違うんです。あの子……あの子を、助けてくださいッ、お願いします……!」


「なんだって?」



 彼の手が止まった。それまで慈愛に満ちていた眼差しが剣を孕む。

 私は必至で頼んだ。今では私の方が彼の手を握っていた。違う、縋りついていたのだ。

 涙が止まらない。ニナが殺されてしまう。



「あの子に罪はないんです、私がやらないとニナを川に捨てるって……助けてください。私、どんな事をしてでも償います。だから、お願いします。あの子……殺されてしまう……ッ」



 あんぐりと口を開けていたフェルナン卿が、首を振り、低く掠れた声を洩らす。



「脅されたのだろうとは思ったが、人質とは。卑劣な」


「お願いします、お願いします……っ」



 泣きながら懇願していると、体を大きな手で挟まれ、揺すられた。



「私を見ろ。見るんだ」


「……」


「その友達はどこにいる?」


 

 今度は私が首を振る。



「友達じゃありません。あの子は、私がいないと」


「妹か。家はどこだ」


「聖アドニス救護院……」



 今度こそ彼は目を剥いて呟いた。



「孤児か」



 言うや否や立ち上がり、扉に向かう。出ていってしまう、見棄てられるのだと思ったのは一瞬の事だった。

 扉の脇にラッパのような装飾があり、フェルナン卿はそれを取ると耳に当て、次に口を当てた。そして孤児院の子供たちを保護する事、マチアスを捕える事を言いつけた。そして最後に、紅茶とミルクを持ってくるようにとも。

 不思議な光景は少しだけ絶望を軽くしてくれた。もしかして糸電話のようなものなのかもしれないと思い当たった頃には、廊下が騒がしくなり、銀のトレイに乗った紅茶とミルクが運ばれてきた。



「さあ、座って」



 促されるまま、安楽椅子に沈んだ。

 

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