第30話 トレーサビリティ

 昼間にコーヒースタンド『ピーベリー』さんに来ていたあの紳士。本当にすごい人でした。思い返せば、奥の店員さんと暗号みたいなやり取りをしてコーヒーを注文するという、繊細な事を平気でサラッとこなしてしまう。ああいうのには憧れてしまいますね。


 そんな事を思い出しながら、午後の仕事も片付けて定時になりました。仕事は残さず、今日は「お先に失礼します」と宣言ができまして、悠々と帰れる訳です。

 そして今日も、コーヒースタンド『ピーベリー』の営業後の焙煎作業の見学のため、帰宅してシャワーを軽く浴びて、薄く眉だけ書いて、また引き返すという、我ながらよくここまでしているなぁと思うような二往復をしている訳で。


 帰宅してすぐに取って返し、電車に乗り込んで、向かうは『ピーベリー』です。今日はまだ薄暗くなってきたくらいでお店に到着して、カウンターの脇からお店の中を覗いてみます。今日はまだ早かったらしく、スタンドライトの下で白いお皿の上に、焙煎する前のコーヒー豆を広げた所でした。


 お皿の左側にコーヒー豆を寄せて、一粒づつ目で確認しながら、反対側の右側にスライドさせて寄せていく。その手際は早くて、「チャリッ、チャッチャッ」と小気味よい音を出していました。

 そんな中、私の気配に気がついたようで、奥の店員さんは顔を上げてお店前にいる私を見つけ、会釈してくれました。

 私も会釈し返すと、またお皿に視線を戻し、コーヒー豆の選別である『ピッキング』に集中してしまいました。





 それから5分も経った頃でしょうか。一度目のピッキングも終わり、次は焙煎という所です。その合間に、私はちょっと今日の昼間に起こった丁々発止について聞いてみる事にしました。

「あの、昼間のお客さんとのやり取り、すごかったですね。ああいうお客さん、よく来るのですか?」

 奥の店員さんは一旦作業の手を止めて、私の質問に答えてくれました。

「たまに来ますよ。産地や焙煎の度合いとか、詳しく聞いてくるお客様は。コーヒーをただ『コーヒー』とひとくくりにする、そんな時代は終わりましたからね」


 そんな一言だけで、コーヒーというモノが『深いモノ』だという事が理解できました。そこでさらに私の質問です。

「私でも、『ブラジル』とか『キリマンジャロ』とかは聞いた事がありますが、そういうのって重要なんですか?」

 またしても奥の店員さんは、わかりやすい言葉を選んで答えてくれます。

「いわゆる『トレーサビリティ』、つまり「どこで生産されてどういう精製をしたのか」、そういう事を知りたいと求めるお客様もいらっしゃいます。どの国の、どこの農園で作られ、どのような精製方法を取ったか。そういう細かな情報を知りたい人は、一定数いますよ」

 そして決定的な一言を言ってのけます。

「それらはすべて、味わいに直結するんです。知りたくもなるでしょう」


 そう言って、奥の店員さんは焙煎するための手回し焙煎機とカセットコンロを取り出して用意し、中に先程ピッキングしていたコーヒー豆を入れて、焙煎の準備に取り掛かります。

 『味わいに直結する』。そう言われて、妙に腑に落ちる自分がいました。わざわざ安くないお金を払って味わう嗜好品ですから、そういう考えに至るのも納得です。

 ちょっとコーヒーの勉強もしようかな、そう思える瞬間でした。

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