第29話 コーヒーの来歴

 その日は「抜けるような青空!」という言葉がピッタリ似合う、そんな雲ひとつ無い青空の下での出来事でした。いつものように午前中の事務仕事を終わらせて、お昼休憩になってコンビニでサンドイッチを買い、またいつものようにコーヒースタンド『ピーベリー』さんにてコーヒーを買って受け取った直後の事でした。


 私たちの後ろに並んでいたスーツ姿の男性が独り、メニューが書かれたイーゼルに目をやりながら、ひとりごちていました。

「深炒り、浅炒り。それ以外に情報は無い……。素人向け? いやいや……」

 そして自分の順番が来た事を認識すると、おもむろにカウンターで接客をしている石原さんに話しかけていました。


「この深炒りのコーヒー、産地はどこ?」

 石原さんの「えっ……」という表情が、すべてを物語っていました。接客を担当している石原さんは、コーヒーについてまったくと言っていいほどに知らないのです。言葉を失った石原さんはゆっくりとお店の奥に視線を移しましたが、すでにすべてお見通しの奥の店員さんは、前に進み出ていてそのお客さんと会話を始めました。

「深炒りは、『エチオピア モカ・シダモ』です」

「焙煎の度合いは? フレンチ?」

「2ハゼが始まった時に焙煎を止めたので、フルシティローストです」

「ナチュラル? ウォッシュト?」

「ナチュラルです」

 そこでお客さんの表情が嬉しそうに変わります。

「話がわかるねぇ。いい店だ。深炒りをもらおうか」


 まるで西洋ファンタジー小説に出てくるようなやり取りでした。店員さんとお客さんが丁々発止のやり取りをして、最終的には納得して買って帰る。本当にわかっている人にしかわからない、暗号とか符牒とか、そういうキーワードが散りばめられた会話劇でした。


「……今の、どういう暗号なんですか?」

 私の好奇心が目を覚まし、思い切って奥の店員さんに内容を聞いてみたのです。すると奥の店員さんは、苦笑しながら私の問いに答えてくれました。

「暗号ってほどでも……。まあ、コーヒーに詳しくない人にとっては、呪文か暗号にしか聞こえませんよね」

 そしてこう続けてくれました。

「コーヒーは、産地や精製方法、焙煎の度合いなどで、味や香りが違ってくるんです。あのお客さんは、それを聞きたかったんですよ。それさえわかれば、味や香りの予想がつくんです」


 そんなやり取りを平然とこなせるこの店員さんとお客さん。「知ってる事が多いと、物や情報の解像度が上がる」とは聞いたことがありますが、それを実際に目の前でみせつけられた、そんな瞬間でした。

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