エピローグ

第60話 サマー・タイム・ブルース

 モン・サン=ミシェル島の縁に在る岩場の上に建っているサン=オベール礼拝堂の、その閉じられた出入口に現れた扉形の穴に飛び込んだ日本人三人のうち、有栖川哲人と有木雷太は、扉への突入の数瞬後には、パリのブロカ通りに哲人が間借りしているアパルトマンが入っている建物内のエレベーターの中にいた。

 そのエレベーターは、古い建物の中に強引に設置されているため、奥行きがほとんど無く、乗客はエレベーターの壁にへばりつかなければ乗り込めないような、奇妙な形の昇降機で、パリで最も〈印象的〉な地点として、師弟コンビが二人共に脳裏に咄嗟に思い浮かべた地は、この狭くて薄いエレベーターであったのだ。

 しかし、ここに理音の姿はなかった。このアパルトマンのエレベーターを知らない彼は、どこか他の場所に転送されたのであろう。

 いずれにせよ、二人は、数瞬にして、ノルマンディー地方からパリに戻って来たのであった。

 この非現実的な空間転移のみならず、モン・サン=ミシェルに行った事それ自体が、白昼夢ではないかとさえ思えてくる。

「自分もムッシュも、なんか磯臭いっすね」

 たしかに、服から海岸地帯独特の匂いが漂ってきており、その「磯臭さ」が、二人がモン・サン=ミシェルの海辺に居た事を示していた。


 五階に到着したエレベーターから降りて、部屋に入ると、扉に鍵が掛かってはおらず、さらに、哲人は、部屋の雰囲気に違和感を覚えた。

「ム、ムッシュ、自分たちのスーツケースが見当たらないっすっ!」

 慌てて部屋に飛び込んだ哲人は、ライティング・デスクの上に、森田真一から借りた携帯と彼からの伝言がブロックメモに残されているのに気が付いた。


「ジンさん、帰ったら、何時でもよいから、即、連絡して」


 真一に連絡を入れると、十分も経たないうちに、真一の部下がブロカ通りのアパルトマンにやって来た。そして、そのまま、哲人と雷太は、第二区のオペラ座界隈にある真一の事務所に移動する事になった。

 その事務所が入っている建物は、ビル一棟まるまるが真一の所有物であり、その建物内のアパルトマンには、真一の部下たちが住んでいたのだが、その空き部屋に、ブロカ通りのアパルトマンにあった哲人と雷太の荷物は全て移されていた。

「盗まれた分けじゃなくって、助かったっす」


 事務所で待っていた真一の話によると、三月の初め頃から、探し人として、日本人の似顔絵が、懸賞金付きでパリ中に出回っており、それが哲人の顔であった、という。

 さらに、早朝に哲人たちがパリを発った後、ブロカ通りのアパルトマンが何者かによって、荒らされていたらしいのだが、もしかしたら、その押し込み強盗も、その懸賞金付きの似顔絵と何らかの関係があるかもしれない。

 哲人は、警護が行き届かなかった事を真一から謝罪された後、帰国までの間、従業員用に所有している、第二区のオペラ座界隈のアパルトマンに滞在して欲しい、と真一から言われ、哲人と雷太は、その申し出を快く受け入れる事にした。


 雷太の帰国予定の飛行機は三月二十九日、哲人は、新学期最初の講義の開始直前の四月五日に、シャルル・ド・ゴール空港を出発する予定であった。


 そして三月二十九日の日曜日――

 哲人よりも一週間早く、雷太が日本に帰国する事になった。

 雷太が利用する予定の格安便は、シャルル・ド・ゴール空港を現地時刻の日曜日の十時半に出発し、成田空港に月曜日の十三時に到着する経由便であった。

 日本とパリの時差は七時間で、東京の方が時刻が先行している。すなわち、パリ時刻の日曜の十時半は日本時刻の同日の十七時半にあたり、日本時刻の翌日の十三時に成田着ということは、飛行時間が十九時間半の長旅になる。


 パリのオペラ座界隈からは、シャルル・ド・ゴール空港行きのシャトルバス「ロワッシー」が出ており、空港までの所要時間は約一時間である。

 国際線の場合、二時間半前のチェックインが推奨されているので、バスでの移動の時間込みで、六時にオペラ座を出るシャトルバスに乗れば余裕である。

 哲人は、空港まで雷太を送っては行かなかった。

 空港では飛行機に乗るだけだし、そこまで一緒しなくても大丈夫だろう、と判断したからだ。直行バスならば、行きのRERのようにスリの被害に合う可能性も低いだろう。もっとも、スられる物もないし、雷太も、これ以上のトラブルに見舞われる事もあるまい。

 そう思いながら、バス停で雷太を見送った後、アパルトマンに戻った哲人は、もうひと眠りすることにしたのであった。


 哲人を目覚めさせたのは、携帯電話の着信音であった。

 見ると、ディスプレイの時刻は「10:30」を示していた。

 ちょっと惰眠を貪ったかな、そう思いながら哲人は電話に出た。

「アロー、もしもし」

「ム、ムッシュー」

「なんだ、サンダーか。って、十時半って、もう飛行機に乗っている時刻じゃんかよ。いったい。どないした?」

「なんか、空港でまったりしている間に、飛行機が出発しちゃったんすよおおおぉぉお~~~」

「ば、ばか、何やってんだよ。十分な余裕をもって空港に向かったじゃんかよ。バス、渋滞で遅れたんか?」

「いや、問題なく空港に到着したっす。でもっす、なんか時計が狂っていたんす」

「時計? あっ、あああぁぁぁ~~~!!!」


 欧州では、三月の最終日曜日に、冬時間から夏時間へ移行する。

 午前二時になった時、理論上、時計の針が一時間進められ、午前三時にされるのだ。つまり、三月の最終〈土曜日〉まで午前十時半だった同じ時刻が、翌日の日曜日には午前十一時半となる。

 夏時間から冬時間への移行の場合は、時計が巻き戻されるのだが、それを知らずに一時間待ちぼうけをして時間を無駄にした、という笑い話はしばしば為される。

 しかし反対に、冬時間から夏時間への移行の場合は、時計が早送りされるので、サマー・タイムを知らない日本人が、列車や飛行機に乗り遅れたって洒落にならない事態は、実際に頻発するらしい。

 だから、哲人も、講義の文化論のコーナーで、冬時間と夏時間の事は毎年言及し、受講生に注意を促しているのだ。

 なのに、サマー・タイムへの移行のことを、雷太に指摘し忘れるなんて……。


「ム、ムッシュ、自分、どうしたら?」

「とりま、オペラ座に戻ってこい」

「もう、一ユーロも持っていないっす。さっき、お土産を買って、使い切っちゃいました」

「分かった。迎えに行くから、空港で待っていろ」

 本当はこういった時こその〈空間転移〉なんだけどな、そう考えながら、使用方法の謎が未解明のままの〈白い筐〉と巻子本を携えて、哲人は、オペラ座のアパルトマンを飛び出した。


 建物の一階の事務所で出くわした真一に事情を説明すると、真一が車を出してくれる事になった。

「ジンさん、俺は仕事で手が離せないんだけれど、うちの若いもんに、空港まで運転させるから」

 哲人は、車の助手席に乗り込むと、運転手に向かって言った。

「それじゃ、忙しいところ申し訳ないんだけれど、シャルル・ド・ゴール空港まで、お願い」

「はい、先生、それじゃ、サンダーを迎えに馳せ参じましょう」

「よろし……、えっ! 『先生』に『サンダー』って」

 驚いた哲人が、左の運転手に顔を向けると、そこには、ハンドルを握っているリオンの姿があった。

「リ、リオンくうううぅぅぅ~~~ん」

「詳しい事情は、道中で、お話いたします。先生、まずは、サンダーを迎えにアロン(行きましょう)です」

 そう言った理音は、哲人を乗せた、チェリーピンク色のシトロエンCV2のエンジンを始動させたのであった。



    

               『グリモワフィリア』 〈了〉

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グリモワフィリア 隠井 迅 @kraijean

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