第58話  三つの〈権能〉と高鳴る足音

 哲人、雷太、理音の三人が、岩場の上の礼拝堂の前で意識を取り戻した時、周囲は完全なる闇に覆われてしまっていた。


 通ならば、陽が落ちると、光を照射されたモン・サン=ミシェル修道院は、漆黒を背景にして、夜景ならではの美しき姿を浮かび上がらせているはずなのだが、この世界遺産が観光地化される以前に戻ってしまったかのように、島は暗かった。

 そればかりでない。

 島内には、ごくわずかながらも住民がおり(二〇〇九年当時、四十四名)、さらに、島内には三軒の宿屋もあるというのに、島民や宿泊客が灯す光が、島内に見止められないのだ。

 そのため、哲人は、持ってきた鞄を手探りで見付けなければならなかった。そして、鞄の持ち手に触れるや、それを引き寄せ、中から懐中電灯を取り出した。しかし、哲人がスイッチを入れるより早く、左右から灯った強い光が、哲人の両目を眩ませたのである。

「うわっ!」

 それは、スマフォのライトであった。

 しばらくして視力を取り戻した哲人は、その強い光の出所が雷太と理音であることを知った。

「なんだ、サンダーかよ」

「そうっす、自分の〈サンダー・ボルト〉っすよ。ところで、ムッシュが手に握っているのって?」

「懐中電灯だけど」

「か、かい、ちゅう・でん、とぉぉぉ~~~! ムッシュ、昭和っすね。携帯かスマホのライトを使えばよかったのに。ポケットに入れてないんすか」

「いや、携帯も鞄の中だったんだけれど」

「やっぱ、ムッシュ、前時代の人っすね」

「うっさい、うっさい、うっさいわ、サンダー。

 とまれ、もう真っ暗だし、さっさと、対岸のホテルに向かおうぜ。たしか、シャトルバスは、この時期には二十二時までは出ているはず」

 哲人が、懐中電灯の明かりで腕時計の文字盤を確認すると、時計の針は九時を回っていた。

「まだ、かろうじてセーフみたいだ。さすがに、この暗闇の中、三キロメートルの距離を歩いて移動するのは勘弁だよな」

「たしかに。それに、満潮になったら、水に囲まれて、島から出るのは不可能になっちゃいますし、その前には戻りたいですよね、先生」


「「「………………」」」


 最初は懐中電灯の件で軽口を叩いていた三人だったのだが、いつしか口数も減ってゆき、押し黙って、三者ともに何かを考え込んだまま歩を進め、やがて、三人はグランド・リュまで出た。ここまで来れば、坂を下って門を潜り抜ければ、島から出ることができる。

 そうした安堵感からか、雷太が口火を切った。

「さっき、ムッシュもリオンさんも、天使……、見ましたよね?」

 二人とも黙ったまま首肯した。

「ってことは、〈集団幻覚〉とかなんすかね?」

「分からん」

「先生、あれって、絵や像の、イメージそのまんまの姿であるように思えたのですが、あれは、大天使ミカエルなのでしょうか?」

「ってことはですよ、ムッシュ、自分たち、あのグリモワを読破した結果、大天使から、何か〈アルス・ノウァ〉が与えられたんすかね?」

「うっ、うぅぅぅ~~~ん、特に、何か新たな力に目覚めたとか、そんな感覚は特にないんだけれど」

「『力が漲ってくるうううぅぅぅ~~~』的な感じは、自分にもないっすね」

「「「「…………」」」


「先生、そういえば、バスの中で話されていた、パリの緑の古本屋で購入したという白い筺に入っている巻子本って、どうなさったのですか?」

「実はさ、パリでは、他にも色んな本を贖ったんだけれど、飛行機の重量制限の問題もあるので、そのほとんど全ては、まとめて日本に既に送っちゃったんだけれど、あの巻子本だけは、手放しちゃいけないって気がして、この鞄に入れて、肌身離さず持っているんだよ」

「あれっ!?」

「突然、どうしたんすか? ムッシュ」

「いや、今、唐突に、その巻子本に記されていた古代文字の文面の全てが頭の中に浮かんできてさ。

 なんか気になって気になって仕方がなくなってきた。

 どっちか、何か書く物、筆記用具と紙か何か、持っていない?」

 研究者肌というものなのかもしれないが、哲人は、一度気になり出すと、どんな状況であれ、すぐに疑問を解消せねば気が済まない質なのである。


「先生、これを使ってください」

 そう言って、コートの大き目のポケットに入れてある、明るい緑色のカバーを着けたタブレットとタッチペンを、理音は哲人に手渡した。

 哲人は、その現代版〈エメラルド・タブレット〉に、何も見ずに、空で象形文字を次々に書いていった。そして、全て書き終わったところで、二人にこう言った。

「リオン君は、その緑のタブレットを持っていて、そして僕が指示したら、ページをスクロールさせてくれ。

 僕は、巻子本を巻き開けてゆくから、サンダーは、背後から明かりを灯しながら、タブレットに書いた物と、巻子本の文字に相違がないかどうか確認してくれ」

「「オーケーです」」


 哲人と雷太は、巻子本上の文字の確認をし終えた。

「ム、ムッシュ、す、凄いっす。最後に至るまで、一文字たりとも誤りはなかったっす」

「……」

「どうしたんですか? 先生」

「お、おかしい」

「何がですか? 凄まじい記憶力じゃないですかっ! さすがに大学の先生ですね」

「いや、たしかに、記憶力に多少の自信はあるんだけれど、でも、絵としてしか認識できない象形文字を、何も見ずに完全に再現できるほどの完璧なる記憶力なんて、僕は持ち合わせてはいなかったんだよ」

「それって、もしかして、『アルス・ノウァ』がもたらした、先生の新たな力なのではっ!」

「まさかっ! でも……」

「先生のこの力って、完全記憶能力、いや、〈完璧再現能力〉って呼ぶ方がピッタリかもしれませんね」

「鋭い指摘だね、リオン君。たとえ非現実でも、この突如出現した力は、大天使ミシェルが与えてくれた〈権能〉って考えれば、ある意味、納得できちゃうんだよな」


「……」

「どうした、サンダー」

 何かを考えている様子の雷太に、理音が気付いた。

「いや、ムッシュの背後からライトを照らしながら、自分も、タブレットと巻子本の文字を読んでいたんすけれど、〈読め〉ちゃったんすよ」

「サンダー、前から、ヒエログリフ、読めたんじゃなかったっけ?」

「ムッシュ、ヒエログリフって、実は、ひらがなカタカナみたいな表音文字なので、とりあえずは音読はできてたんすよ。でも、文法力や語彙力は未だ未だなんで、意味まで完全には分からなかったんす」

「でも、今、読んでみたら、意味も読めちゃったって事?」

「その通りっす、リオンさん」

「なんか、コンピューターみたいな〈高度言語処理能力〉が、突如、開眼したみたいだな」

「そんな感じっす、リオンさん」


「うぅぅぅ~~~ん」

「どうしたんすか? ムッシュ」

「いや、今日の午前中に会った頃から、リオン君は勘が良いなって思ってはいたんだけれど、その直感力がさらに鋭くなっているような気がしてならないんだよね」

「『アルス・ノウァ』の力によって得た我々の〈権能〉は、先生が〈完璧再現能力〉、サンダーが〈高度言語処理能力〉、そして、自分が〈超直感〉って言った所なのかもしれませんね」

「リオンさん、なるほどの超直感っす」

「たしかに、理屈じゃなく、真相に辿り着いている感じがするよね、リオン君の力は」

「先生にそう言われると、照れますね」


「ところで、サンダー、さっきの巻子本のヒエログリフには、いったい何て書いてあったんだい?」

「それはですね? 要約すると、く…………」

「しっ! サンダー、前から、誰かがこっちに近付いて来る」


「ボォォォナ・セェェェラ(こんばんは)、ジャポネェェェジィ(日本人たち)、やっと会えたな」

 王の門の方から、石畳の上で靴音を響かせながら坂を上がって来たのは、黒衣の二人のイタリア人であった。

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