第57話 アルス・ノウァのシャドウイング

「「「び、びっくりしたあああぁぁぁ~~~」」」

 岩場の上にいる三人は、三者三様の安堵感を口にしていた。

「先生、自分、これほどの至近距離、目の前に雷が落ちたのって、生まれて初めての体験です。心臓が停まるかと思ってしまいました」

「ムッシュ、なんか、空が晴れていても、雷って発生するんすね。自分、青空をバックにした稲妻、生まれて初めてでした」

「サンダー、実は僕も初体験だよ。こんなのを『青天の霹靂(へきれき)』って言うんだぜ」


 青天の霹靂とは、突然起こる大事件を言い表わす比喩表現なのだが、文字通りの意味は、晴れた青空に突然起こる雷のことである。

「「『青天の霹靂』って、そうゆう意味だったのかっ!」」

 雷太と理音が、異口同音の叫びをあげた。

「自分、今、初めて由来を知ったっす」

「俺もだよ、サンダー」

「『霹靂』って、そもそも、前触れもなく突然落ちる雷のことだけれど、今回は、それが、晴れている青空で起こったから、本当に驚きだったよね、二人とも」

「大天使ミシェルの御告げと稲妻の話をしていた時ってゆう、ジャストのタイミングだったので、本当に大天使の〈神鳴〉かと思っちゃいましたよ」

「だよな、サンダー」

「ところで、ムッシュ、リオンさん、礼拝堂の中のあの白い筺、なんか気になりませんか? 大天使からの僕たちへの贈物だったりして」


 サン=オベールの礼拝堂の中には、聖母マリアの像の前に白い筺が置かれていたのだ。

「なんか、おかしいんだよな」

「何がっすか? ムッシュ」

「サン=オベールの礼拝堂って、扉が閉め切られて中には入れなくって、小窓から中が覗けて、あの聖母マリアの像を見ることができるだけのはずなんだよね。それに、あんな筺ってあったっけ?」

 そう言った後、黙したままの哲人は、白い筺に視線が釘付けになっていた。

「ムッシュ、十八年ぶりの〈世紀の大潮〉だから、特別展示とかじゃないっすか? 分かんないっすけど。

 日本でも、例えば、京都の六道珍皇寺の小野篁の井戸も、普段は非公開で、隙間から覗くことしかできないのに、たまにある特別公開の時にだけ、井戸の近くまで行けるので、それと同じ感じじゃないっすかね?」

「先生、サンダー、そもそも、扉が開いている分けだし、立ち入り禁止の掲示や、入場を妨げる柵や紐なんかもないので、入っても大丈夫なのでは?」


 今の哲人には、礼拝堂への入場を促すような雷太の声も理音の声も、実はまるで耳に届いてはいなかった。

 この時の哲人の思考を満たしていたのは、白い筺を見たい、その中を確認したい、という好奇心だけで、その膨張した欲望が、哲人に〈禁〉を破らせてしまった。


「ム、ムッシュっ!」

 哲人は、吸い寄せられるように礼拝堂の中に入ってゆくと、水に濡れた白い筺を手に取って、持っていたタオルで筺の表面の水気を拭き取った。それから、ゆっくりと、その蓋を開けた。

 筺の中には、一冊の本が収められていた。

 その本は、筺の表面が水浸しであったにもかかわらず、水によって少しも汚損されてはいなかった。まるで、防水加工された容器のように、中身を完全に守っていたのである。


               *


 その筺は、十八年に一度、〈世紀の大潮〉によって水位が十五メートル以上に達し、礼拝堂が完全に水没した時にだけ、水圧によって、からくりが機能し、聖母像の前に現れるような仕組みになっていた。

 この十八年に一度の折に、アヴランシュからモン・サン=ミシェルを訪れた、〈サン=オベール〉の役割を担う聖職者が、満潮の三時間後に、潮が引き、再び姿を見せた礼拝堂を訪れて、〈白い筺〉と、その中の本を回収する手筈になっていた。

 しかし、である。

 モン・サン=ミシェル修道院を出て、サン=オベール礼拝堂に向かうために、グランド・リュを下っていたアヴランシュの聖職者は、突如、進路を変え、礼拝堂ではなく、王の門と前哨門を通り島を出て、そのまま、アヴランシュに戻ってしまったのである。


               *


 白い筺の蓋を開けた哲人の目には、表紙に書かれている文字が飛び込んできた。

「先生、これって何語ですか?」

「ムッシュ、何て書いてあるんすか?」

 礼拝堂に入って、白い筺から出した本を前に、微動だにしない哲人に、理音と雷太が矢継ぎ早に訊いてきた。

「ラ、ラテン語だよ。ア、『アルス・ノウァ』って書いてある……」

「「えっ!」」


 「アルス」はラテン語で〈術〉、「ノウァ」は〈新しい〉という意味で、『アルス・ノウァ』は〈新しい術〉という意味である。

 それより何より、ここで着目すべきは、これが『ソロモンの小さき鍵』こと、『レメゲトン』という五つのグリモワールの合本の第五の魔術書である点だ。

 さらに言うと、この書は大天使ミシェルによって、稲妻と共に、ソロモン王に授けられた書なのである。

 それゆえにか、冷静に思考すべき、と自身に言い聞かせつつも、哲人は、モン・サン=ミシェルにおいて、青天の霹靂と共に礼拝堂の前に現れたかのようなこの書を、大天使ミシェルがもたらしたグリモワールかもしれない、と思い始めていた。


 『アルス・ノウァ』は、現世には存在しない新しい知識を求める者たちのための書で、そこには、聖なる知識が記されており、伝説によると、この書を携えて、神殿の祭壇で祈り続けたソロモン王は、〈名高き知恵〉を得るに至ったのだそうだ。

 また、『アルス・ノウァ』を読破した者は、天使から、新たなる知識や能力を授けられるのだが、その上で、厳しい修練を重ねる事によって、この〈読破者〉は、授けられた〈異能〉を使いこなせるようになるらしい。


「まさか、TGVの中で話していた『アルス・ノウァ』に、こんな所で出会うことができるなんて……。表紙はラテン語だから、ソロモンの〈原典〉でないのは確かなんだけれど……」

 知的好奇心に抗えなくなった哲人は、鞄の中から取り出した、常備しているウェット・ティッシュで、両手を入念に拭くと、その本の表紙を開いた。

「印刷物じゃないっ! 写本だっ! まさか、十二世紀にボローニャで書かれた〈原本〉じゃないよね? もしかしたら、偽書って可能性もあるけれど、とにかく、読んでみたい」

 哲人は、目の前の本を黙読し始めようとしていた。


「ちょっと、待ってください。ムッシュ」

「なんだよ、サンダー」

 読書を邪魔された哲人は、不機嫌な顔をさせた。

「自分やリオンさん、ラテン語、まったく分かんないっす。独りだけ、黙ったまま読まないでくださいよ」

「んじゃ、どうしろって?」

「音読してください」

「でも、お前、ラテン語が分からないのならば、耳で聞いても同じじゃん」

「なんか、意味が分からなくても、知らない言語を発音するのって、呪文の詠唱っぽくないっすか? なので、ムッシュの音読に続けて、〈シャドウイング〉します」

「サンダー、『しゃどういんぐ』って何?」

「リオンさん、シャドウイングって語学の学習法で、お手本の音声の後を、影のように寄り添って、音をトレースしてゆくんすよ」

「それなら、やったことあるわ」

「分かったよ。お前ら、しっかりついてこいよ」

「ムッシュ、自分たちでも、遅れずについてゆけるように、〈アンダンテ〉でお願いします」

 雷太は、「ゆっくり歩くような速さ」を意味する音楽用語を使って、哲人に要望を伝えた。

 かくして、哲人は、『アルス・ノウァ』の一頁一頁、一行一行、一単語一単語を、読み飛ばししないように、人差し指で文字を辿りながら、丁寧に、アンダンテよりもゆっくりと、〈ラルゴ(幅広く、非常にゆっくり)〉の速度で読み上げていったのであった。

 それゆえに、『アルス・ノウァ』を、三人で〈読破〉した時には、モン・サン=ミシェル湾は、完全に潮が引いており、太陽が地平線に沈みかけている、そのような日の入りの時刻になってしまっていた。


 二〇一五年三月二十一日、この時期、経度-1.511、緯度48.6358という座標に位置している、モン・サン=ミシェルの日の入りの時刻は、正確には十八時二十分であった。


「たしか、モン・サン=ミシェルの日の入りって十八時半くらいだったはず。しくったあああぁぁぁ~~~、修道院の入館受付終了は十七時で、閉館は十八時だから、今日は修道院の見学、完全にノーチャンだわ」

 沈みかけの太陽によって、おおよその現時刻を把握した哲人は、思わず頭を抱えてしまった。

「まあまあ、ムッシュ、ここは、さっきの話の通りに、明日の朝に開場ト……」

 しかし、雷太は「凸」と、みなまで言い終えることができなかった。


 この黄昏時、三人は、自分たちの脳天に雷撃が直撃したような衝撃を覚えた。

 さらに――

 三人は、竜を土台にし、眩い光で全身を纏い、エメラルド色の羽を背に生やした、そう、まるで、大天使ミシェルのような存在を〈幻視〉していたのである。


 やがて――

 哲人と雷太と理音は、岩場の上のサン=オベールの礼拝堂で、意識を失ってしまった。

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