第52話 やがて誰もいなくなった

 モン・サン=ミシェルの前哨門の門前に至った二人のイタリア人は、門を背にすると、島への行く手を塞ぐかのように、厳めしい表情をさせながら、股を大きく開き、両足に体重をかけて大地を踏み締めるようにして、どっしりと立った。仮に、彼等の立ち姿を目にした日本人がいたとしたら、その様子を「仁王立ち」と言い表わすかもしれない。もっとも、当のイタリア人が「仁王像」、すなわち、「金剛力士像」を知っているかどうかは定かではないのだが。


 前哨門の左右で仁王立ちしている二人のうち、門に向かって左側、下手に立って、「吽形(うんぎょう)像」のように口を結んでいるのが、コードネーム〈ナーゾ〉というイタリア人で、こちらが、夜中のパリで、哲人に鼻を潰された男である。

 そのナーゾの逆側、右側、上手にいる方が〈オッキオ〉で、県道で煽ってきた日本人が乗るチェリーピンクのシトロエンのタイヤを銃で撃ち抜いたのが彼である。


 オッキオは胸ポケットから取り出した眼鏡を掛けると、眼鏡の柄〈テンプル〉と〈リム〉、レンズの枠の両端の接続部、〈智(ヨロイ)〉と呼ばれている箇所のうち、右のヨロイを、右手の中指で軽く二度叩いた。

 すると、右のレンズを黒い蓋が覆い、〈見え過ぎている〉オッキオの右眼を塞いだ。これによって、オッキオの右眼に未だ宿っている〈千里眼〉の能力は、一時停止されたのであった。

 それから、オッキオは、ベルトの右側に括り付けている筒から、右手で一本の巻子本を取り出すと、その巻物を開き、視界が塞がれていない左眼だけで、巻物に書き記されている〈術言〉を、「阿形(あぎょう)像」のように大きく口を開いて、朗々と大き読み上げたのであった。

 やがて、詠唱を終え、手慣れた仕草で素早く巻物を閉じたオッキオは、自身の右側に立つナーゾに、阿吽の呼吸の如く、巻物を手渡すと、ナーゾは、左側のベルトに括り付けている白い空の筒に、その巻物を収納した。


 巻物を最後まで読み上げたオッキオの左眼は、熱を帯び出しており、その激痛に耐えんとするかのように、オッキオは、閉じた左眼の瞼を左の掌で押さえていた。やがて、痛みが治まると、三つ数えた後で、ゆっくりと左眼を開いた。

 それから、眼鏡の左の智を一度叩くと、透明なレンズが開いて、オッキオの裸眼を遮るものは完全に無くなった。


 ちょうどその時、記念撮影を終えた観光客の多くが、前哨門に近付いてきていた。

 しかし、ナーゾとオッキオが、島への唯一の出入り口である前哨門の前で仁王立ちして、行く手を塞いでしまっているので、観光客たちは、門を通ることができないでいた。

 そのため、訪問客の一人、大柄で屈強そうな男性が、邪魔なイタリア人たちを排除しようとして、オッキオに近付いて来た。

 他の観光客たちは、固唾を飲んで、その様子を遠巻きに眺めていたのであった。


 大柄な男は、イタリア人とは頭一つくらい背の高さが違い、オッキオを上から見下ろし、威圧するような恰好になっていた。

 しかし、睨め上げてきたオッキオと視線がぶつかったその瞬間、その大柄な男の目から生気が失われてしまった。

 それから、大柄な男は、こんなことを、ぶつぶつと呟き出した。

「なんか、帰りたくなってきた。何もかもが、もはやどうでもよい。観光なんて疲れるだけだし、本当は面倒くさい。もういいや、早くお家に帰ろう」

 そう言った大柄な男は、回れ右をして踵を返すと、降りたばかりのシャトルバスの方に向かって歩き出した。

   

 この奇異な出来事によって、観光客の視線がオッキオに集中された。

 この時、オッキオの左眼から、不可視の視線が放射されたようになって、前方にいる観光客全員とオッキオのまなざしが交差しているような状態になった。

 すると、訪れるべきはずのモン・サン=ミシェルに背を向け、その場にいた観光客の全員が、モン・サン=ミシェル発のシャトルバス、〈パッサー〉に戻って行ったのである。


「入ってくる予定だった観光客は、これでなんとかなったかな」

 オッキオは、右隣にいるナーゾを見ないように注意しながら言った。

「それにしても、いつもながらに、その精神操作系の能力を付与した〈魅惑の魔眼〉の〈権能〉は恐ろしいな」

 オッキオが、巻子本に書き記された呪言を詠唱した事によって、自らの左眼に宿した力とは、彼と視線がぶつかった者の精神を操る類の能力であった。

「とはいえども、今の自分の力では、たった一つの命令、しかも、さほど複雑な命令は下せんのよ。で、今回は『島に居たくなくなる』って単純な命令を選択した分けなんだよ」

「いやいや。今、我々が為すべき事は、ターゲットの日本人を捕らえるために、邪魔な輩を島から排除する事だから、この目的達成のためには、〈島から即退去〉って命令だけで必要にして十分だって」

「まあな。でも、これで、右眼に〈千里眼〉、左眼に〈魅惑の魔眼〉を宿してしまったので、もうこれ以上の能力付与は、今日、明日はできなくなってしまったよ」

「別の能力を目に宿すためには、中二日は必要なんだっけ?」

「その通りなのです、ナーゾ。〈千里眼〉も〈魅惑の魔眼〉も、入眠したりして自分の意識が途切れるまでは、能力を保てるのですが、新たな能力の付与には、ある程度の間を置く必要があるにです。これまでの実験では、今の自分じゃ四十八時間は必要ですね。これが、上位能力者だと、瞬き一つで、力の切り替えができるらしいんのですが、さすがに、そこの領域には、まだ至っていません。

 それに、右眼と左眼の力の同時発動も、今の自分のレヴェルじゃ無理なのです」

「だから、黒レンズで片目を塞いでいるって分けなんだよな」

「つまり、そうゆう事です。

 それじゃ、前方の入ってくる予定の観光客を排除できたので、まず、シャトルバスに行って、運転手の精神も操作し、それから、後方の、そこの門を通って、島内にいる人間にも、魔眼を仕掛けて来ます」

「次のシャトルバスが到着したら、連絡するよ」

「ナーゾ、哨戒と連絡、まかせました」


 バスから戻ってきたオッキオは、前哨門を潜り、王の門の広場にいる者たちや、その手前に在る料理店の客の精神を操作すると、その門を通り抜けた。

 その狭い道は、数多の観光客で溢れ返っていたのだが、オッキオは、狭い坂道をゆっくりと上りながら、すれ違う客の一人一人と視線を交えていった。さらに、修道院の入場待ちの行列の隙間を縫っても行き、そこに並んでいる者たちの目も見ていったのである。

 オッキオと視線を交えた観光客たちは皆、突然、島に居たくなくなり、観光を止め、王の門、さらに、その先に在る前哨門の方に向かって行った。

 加えて、オッキオは、道の両脇の土産物屋の一軒一軒にも入って行き、そこに居る観光客だけではなく、料理店や土産物屋の店員とも視線を合わせた。店員たちは、客が出てゆくと同時に店終いを始め、島から出て行ったのであった。


 二五〇メートル程の長さの王の門から修道院までのグランド・リュを、オッキオが往復するごとに人は減ってゆき、そして、数往復ほどした後には、観光客で溢れ返っていた「大通り」から人が消失していた。

 そこに残されているのは、写真でしか見られないような、人が全くいない、中世のような石畳の街並みであった。


 それから、オッキオは、修道院へと続く階段の前で待機し、下りてくる観光客の目にも魔眼の矢を放っていった。

 そして、ナーゾからシャトルバス到着の連絡が入ると前哨門まで戻って、新たな訪問客と運転手に、〈即時帰宅〉という精神操作を施し、こうした地味な作業を繰り返し続けたのである。


 やがて――

 モン・サン=ミシェルから、誰もいなくなった。

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