第51話 モン・サン=ミシェルの前哨門

 三人の日本人が、日本語表記のある〈モン・サン=ミシェル・クッキー〉の土産物屋の前に差し掛かり、日本人の売り子に、日本語で「頑張ってくださいね」と声を掛けたのと、ちょうど同じ時分の事であった。

 駐車場から訪問客を運ぶシャトルバスが、モン・サン=ミシェルのバスの降車所に到着した。


 他の乗客に先んじて、バスから降りた二人のイタリア人は、モン・サン=ミシェルに体を向けると、その左手側に一つの門が見えた。

 その石造りの門こそが、島への唯一の出入り口である〈アヴァンセ門〉である。


               *


 フランス語の〈アヴァンセ〉とは、「(人が)前に進む」あるいは「(物が)突き出ている)」という意味の動詞である。その名詞形である〈アヴァンセ〉は、発音こそ動詞と同じなのだが、語尾のスペルが若干異なっている。

 そして、〈アヴァンセ門(La Porte de l'Avancée)〉の「アヴァンセ」は、動詞ではなく、名詞の方で、この場合、〈前部〉あるいは〈突出部〉を意味している。

 〈アヴァンセ門〉という、モン・サン=ミシェルに入るために通過する最初の門の呼称を知ると、なるほど確かに、この門は、モン・サン=ミシェルの麓にあって、やや前方に突き出ているような恰好になっているように見える。

 ちなみに、この門は、日本語では「前哨(ぜんしょう)門」と訳されている。


 ところで、モン・サン=ミシェルの麓で突出しているアヴァンセ門は、その位置や形状を考えると、ただ単に「前門」と和訳しても問題はないようにも思える。

 しかし、「前門」ではなく、「前哨門」と訳されているのは、いったい何故なのであろうか?


 例えば、検索サイトの小窓に「前哨門」と打ち込んでみると、一頁目に出てくる検索結果は、このモン・サン=ミシェルの前哨門である。つまり、日本の何処かに前哨門なる門が存在して、〈アヴァンセ門〉の訳出の際に、同名の既存の門を参照した分けではないようだ。


 ちなみに、「前哨」とは、敵を前にした軍が、敵の情報を偵察したり、敵襲を警戒するために、軍の前方に配置する部隊のことで、ここから推測するに、「前哨門」とは、前方に配置された前哨部隊が、敵情を偵察する際に利用した門のことを意味しているのであろう。

 

 察するに、モン・サン=ミシェルの麓で、前方に突き出ているこの門が、「前門」ではなく、「前〈哨〉門」と和訳されているのは、モン・サン=ミシェルが百年戦争時に、軍事要塞として利用されていた歴史的事実を踏まえての事なのではなかろうか。

 しかも、この門には銃眼が認められるだけではなく、門を通り抜けた所には、一四三四年に英国軍に攻撃され、それを撃退した際に手に入れたと言われている二門の大砲が残されている。

 これらの大砲を目にすると、「前哨門」という訳語は、百年戦争を念頭に置いた上での訳出で、妙訳であるようにさえ思えてくる。


 百年戦争当時に軍事要塞であった時代、さらに、大革命の後に監獄であった時代、この前哨門は島への唯一の出入り口で、かつては、この門を、偵察部隊や囚人が出入りしていたに違いない。 

 そして現代、今や世界遺産にもなっているモン・サン=ミシェルの〈前哨門〉は、要塞を防御したり、囚人を脱獄させない、といった門それ自体の目的は変化しているものの、今なお、島にとって唯一の出入り口であり続けている。

 つまり、誰であれ、この〈前哨門〉を通らなければ、島に足を踏み入れる事も、島から抜け出す事もできないのである。


               *


 シャトルバスの降車場から〈アヴァンセ(前哨)門〉まではおよそ五〇メートル、他の乗車客に先んじてバスを降りたイタリア人二人は、到着の記念撮影に興じている、〈西洋の驚異〉を目の前にして、精神が昂揚した他の乗客たちを尻目に、この島への唯一の出入り口である前哨門に向かって、まるで突撃でも仕掛けるかのように、足早に前進していったのであった。

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