第46話 黄色いフィアットと赤いシトロエン

 フランスの高速道路は「オートルート」と呼ばれており、地図では「A」プラス番号で略記されている。これに対して、「N」プラス番号と表記されているのが「ルート・ナショナル」と呼ばれている国道で、「D」プラス番号で表されているのが「ルート・デパルトマンタル」という呼称の県道である。


 パリのモンパルナス駅から南回りで、モン・サン=ミシェルに向かう場合、高速道路と県道を利用して、約四時間、三七五キロメートルの道行きとなる。

 まず、モンパルナス駅から、パリ市内のメーヌ大通りを通って、南からパリを抜け、高速道路「A6a」に入る。

 それから、「A10」つづいて「A11」を取り、シャルトルやル・マンなどを経てから「A81」を進んでゆき、ラヴァルの辺りで高速を出て、県道「D31」に入る。

 その後しばらく、フジェール方面に向かって県道を進み、そのフジェールを通過してから、再び高速「A84」に入る。

 そして、サン=ジェムの辺りで高速を出て、県道「D30」に入り、そこから、県道を使って、モン・サン=ミシェルに向かうことになる。


 薄黄色のイタリア車「フィアット・500」に乗った三人組のイタリア人が、モン・サン=ミシェルに向かうために使ったのが、この南回りのルートであった。


 フィアットは、北イタリアのトリノに本拠地を置く、イタリア最大の自動車メーカーの一つである。

 フィアット社製の超小型車「フィアット・500」、その最初のシリーズは二人乗りで、コンパクトなボディーや、若干高めに取り付けられたヘッドライト、そして、その機敏な走りから、ハツカネヅミを意味する〈トポリーノ〉の愛称で呼ばれてきた。

 トポリーノは、戦前の一九三六年から戦後の一九五五年までの約二十年間製造され、その総生産台数は六十万台を誇る、当時のイタリアの〈国民車〉であった。

 そして、旧フィアット・500〈トポリーノ〉の製造終了後の一九五七年から一九七七年まで製造され、イタリア語で〈500〉を意味する「チンクェチェント」の愛称で知られている車種こそが、「ヌオーヴァ(新)・フィアット」である。

 ちなみに、チンクェチェントは、トポリーノの直接的な後継車ではなく、異なるコンセプトの下に設計された別系統の車種であるらしく、それゆえにか、トポリーノの特徴であった、高い位置にヘッドライトは付けられてはおらず、また、超小型車ではあるものの、二人乗りではなく、四人乗りになっている。


 イタリア人の三人組〈トリニータ〉が乗っているフィアットは、六十年代の後半に製造された「フィアット・500F」をレストアしたものであった。


 イタリア人のトリニータが乗ったクリームイエローのフィアット・500Fは、パリから約三時間半ほどかけて、高速道路「A84」を抜けた後、ついに、県道「D30」に入った。

 ここまで来れば、目的地であるモン・サン=ミシェルまでは約二〇キロメートル、急がずとも半時間もかからずして、昼頃には、かの世界遺産に到着することができるであろう。

 県道「D30」は片側一車線しかない狭い道で、車道の両脇は民家や畑に取り囲まれており、まさに、長閑な雰囲気の田舎道であった。

 ターゲットである日本人は、おそらくモン・サン=ミシェルを観光で訪れているに違いなく、その世界遺産でターゲットを捕らえる事ができれば問題ない分けで、もはや、さして急ぐ必要もあるまい。

 そんな事を考えながら、ハンドルを握っている〈ナーゾ〉という呼称のイタリア人は、ゆったりと車を走らせる事にしたのであった。


               *


 赤いシトロエン2CVに乗って、パリのオペラ座界隈から、北回りでモン・サン=ミシェルに向かっていた日本人コンビ、ゴゲンとニシカワは、本来、アブランジュで高速を降りるべきであったのに、降り口を素通りしてしまった。

 そのため結局、サン=ジェムの辺りで、高速「A84」を出て、そこから、県道「D30」を使って、モン・サン=ミシェルに向かうことになったのである。

 道を間違えたという事もあって、少しでも早く目的地に到着すべく、日本人コンビは、狭い田舎道で車を飛ばしていた。

 しかし、道を少し進んだところで、前方をノロノロと走る黄色いイタリア車のせいで、速度を緩めざるを得なくなってしまった。

「なあ、ゴゲン、前を走る、邪魔なイタ車、二代目のフィアットだぜ」

「た、たしかに。このシトロエンに乗っている俺たち、あの黄色いイタ車には、負けちゃいけない気になってきたぞ」

「しかも、向こうの方がルパンの愛車ってのが、なんか面白くないよな。いっちょ、あおってやろうぜ」

「オッケー、ニシカワ」

 そう言って、チェリーピンク色のシトロエンのハンドルを握っていたゴゲンは、車を左に横滑りさせ、アクセルを少し踏み込んだ。

 チェリーピンク色のシトロエンと、クリームイエロー色のフィアットは、横並びになると、しばらくの間、並走するような格好になった。

 右の助手席に座っていたニシカワは、イタリア人らしき運転手に視線を送ると、ニヤッとした笑いをその口元に浮かべた。

「今だっ! ゴゲン、ゴーだっ!」

 ニシカワの合図で、運転席のゴゲンが、ハンドルの下に取り付けられていたレバーを、左手で引っ張っると、シトロエンのスーパー・チャージャーが起動し、エンジンが唸りを上げた。

 すると、シトロエンは加速し、右を走る黄色のフィアットを、あっという間に置き去りにしていったのである。

 

               *


 フィアットのルームミラーに、赤いフランス車が映り込んできた。

 そのフランス車は、しばらく、後を走っていたのだが、やがて、突如、反対車線に移動し、左横をほぼ同じ速度で走り出したのだ。

 運転手のナーゾが、なんだ? と訝しんでいると、助手席の日本人らしき若造が、まるで喧嘩でも仕掛けてくるかのような目線を送ってきた。その数秒後、赤いフランス車は、突如、加速し、この黄色いチンクェチェントを、あっという間に置き去りにしていったのである。

 この瞬間、ハンドルを握っていたナーゾは大きく舌打ちをすると、助手席のイタリア人に、こう命じたのである。

「〈オッキオ〉、あの赤いフランス車、排除しろ」

「シ(はい)」

 短く返答した、助手席に乗っていたオッキオは、まず、鞄から取り出したクリームで顔を塗り、つづいて、飴を口の中に放り込んでから、さらに、鼻と耳の穴を栓で塞いだ。

 かくして、五感のうち、触覚、味覚、嗅覚、聴覚を遮断してから、腰のベルトに括り付けていた筒から巻物を抜き出し、それを開くと、なにやら呟き出したのである。

 そして静かに目を閉じ、三秒数えた後で、かっと、右眼だけを大きく見開くと、フィアットのルーフを開き、その車の屋根から身を乗り出したのであった。

 そのオッキオの手には、ベレッタの銃が握られていた。


 巻子本に記されている〈感覚強化〉の呪言を唱えたことによって、視覚が鋭敏化されたオッキオの右眼には、遠ざかってゆく赤い車が、あたかも、すぐ目の前に存在しているかのように見えていた。

 それゆえに、今のオッキオには、数百メートル先の対象を狙う事は、数センチメートル前の的に命中させるに等しい児戯のように感じられていたのである。

 そして、オッキオが、ベレッタの引き金を引くと、銃弾は、高速で走っているタイヤに命中したのであった。


「ベェ~ネ」

 後部座席に座していた〈オレッキオ〉は、弾丸がシトロエンのタイヤに命中するのを双眼鏡で確認するや、思わず声を漏らしてしまった。


 そして――

 クリームイエロー色のフィアットは、畑につっこんで動けなくなったチェリーピンクのシトロエンの脇を、まるで何もなかったかのように通り過ぎていったのである。













 

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