第13話 ヴォルテール河岸のブキニストとイタリア人との奇妙な商談

「反省は、いくらしたって構わない。だがな、後悔はするだけ無駄って話だ。要するにさ、過去の失敗を、いくら悔やんだ所で、その過去を原因とした現在という結果が変わる分けではないのだから。したがって、考えるべき事は、現在という原因の結果である未来、すなわち、自分の欲する結果を生み出す原因を作り上げるために、今現在、何をすべきかってことじゃないのかい? 大事なのは今でしょっ!」


 セーヌ河左岸に位置するヴォルテール河岸に面した深緑色の建物、〈1111〉番の古本の露店であるブキニストの前で、茫然と立ち尽くしてしまっていた、そのイタリア人の脳裏に、かつて、何度も何度も繰り返し、組織の教官から指導され続けてきた情景が蘇ってきた。


 そうだ。

 望む結果は、雪花石膏の白き箱に入った巻子本を手に入れることだ。そのためには、先ず、自分に先んじて白い箱を買ったという、その東洋人を探し出さねばなるまい。


「シニョォォォ~~~ル。その東洋人は、一体、どの方角に向かって行きましたか?」

 中肉中背の西洋人は、ブキニストの老主人を、ムシューではなく、シニョールと呼んで、巻き舌のイタリア語なまりのフランス語で問い掛けた。

「黒髪のジャポネ(日本人)のことかい? たしか……、何やら急いでロワイヤル橋を渡って、右岸に向かって行ったが……」

「そうですか……」

 白箱を買った東洋人は、どうやら日本人であったらしい。これだけでも情報は、かなり絞られる。

 しかし、このパリには、いったい何人の日本人がいるのだ。フランス在留者だけではなく、一時的にパリを訪れている観光客も考慮に入れると、その数は一万、あるいは二万人、たしかに、パリの欧州人に比べれば、日本人の数は多くはないが、そう簡単には見つからないであろう。それでは、一体どうするべきか……。


 そのイタリア人は思考をさらに加速させた。

 そうだっ、閃いたっ!

「シニョォォォ~~~ル。ものは相談なのですが、そのジャポネェェェ~~~ゼが巻子本を買うのに支払った〈現金〉を、その二倍の額で、わたしに売ってはいただけないでしょうか?」

「コワッ(何だって)!?」

「えっと……ですね。その日本人が巻子本を買うために支払った紙幣それ自体を、わたしに譲っていただきたい次第なのです」

「あんた、気は確かかい? 黒髪の日本人は、五百ユーロで、巻子本を買ったんじゃぞ。その五百ユーロ紙幣一枚に対して、千ユーロを払おうっていうのかい? 正気の沙汰ではないね。アンクロワイヤ~ブル(信じられん)!!!」


 白いあご髭を指で下に引き伸ばしながら、古書店の老店主は一瞬だけ考えたように見えた。だが、何気ない動作で、いつの間にか、イタリア人の懐に入って来ると、口角を上げてニタっと笑い、まるで値踏みでもするかのように、イタリア人の表情を下から覗き込むように見上げたのであった。

「ふぉっほっほっ、イタリア人のシニョル。理由は分からんが、売り上げが二倍になるこの機会を逃したら、それこそ商売人の名折れというものよ。五百ユーロ札を、その値段であんたにお売りいたしましょう」


「ところで、シニョォォォ~~~ル。再確認なのですが、五百ユーロ紙幣ならば何でもよいという話ではなく、わたしが欲しいのは、あくまでも、そのジャポネェェェ~~~ゼが持っていた紙幣それ自体なのです」

「ヒャッハッハッ、ご心配なく、シニョル。儂の店で今日売れたのは、その一冊だけで、そもそも五百ユーロ紙幣なんて大金、今、この店には一枚しかないからの」

「これで、商談成立ですね」


 かくして、ブキニストの老店主とイタリア人は、固く握手を交わし合ったのであった。


 この奇妙な札交換が行われたのは、午後七時少し前の事である。

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