第14話 ガロ=ロマンの浴場とパンテオン

 セーヌ河沿いに位置している緑の屋外古本店を後にしたイタリア人は、ヴォルテール河岸、そして、この河岸と連続しているマラケー河岸をそのまま真っすぐ進んでから、右折してセーヌ通りに入った。それから、この通りが、サン=ジェルマン大通りにぶつかった所で、この大通りを左折し、直進すると、右手方向に遺跡が見えた。そこが〈クリュニー浴場跡〉である。

 〈クリュニー〉という名称は、中世時代、この地に、クリュニー修道会の修道院長の別邸が建てられていた事が由来になっている。だが、クリュニー修道会の建物があった敷地は、その実、ガロ=ロマン時代に建造された浴場であった。

 ガロ=ロマンとは、現在のフランスに当たる〈ガリア〉が、帝政ローマの支配下にあった時代を指している。すなわち、クリュニー浴場は、名称こそ中世フランス由来とはいえども、元々は古代ローマ人の浴場だったのである。

 そして現在、このクリュニー浴場跡には、フランスの国立中世美術館があり、ここには、古代・中世の美術・工芸品が所蔵・展示されているのだ。


 午後七時頃――


 かのイタリア人は、人や車の通行が多いサン=ジェルマン大通りを右折し、この大通りに接している細い道、クリュニー通りに入ると、素早く後を振り返って、前後に人がいないことを確認した。

 その直後、現代ローマ人である彼は、祖先である古代ローマ人の浴場の跡地に、夜陰に紛れて忍び込んだのである。


 そのイタリア人は、中世美術館の建物に侵入すると、ここに展示されている、六枚綴りの壁掛けの織物がある展示室に足を踏み入れた。

 やがて、男は、そこに飾られていた六枚のタピスリーの一枚、左から三枚目の前で足を止めた。

 男は、黒いトレンチコートを脱ぎ去ると、腰巻に装着していた白い容器から、一本の筒を外して、その中から巻子本を取り出した。それから、そのー巻物を手に取ると、手慣れた動作でそれを開いたのである。


 現代ローマ人は、彼自身には全く理解できない文字が書かれている紙の上に目を落とした。そして深く息を吸い込むと、一息で〈術言〉を発した。

 現代人である彼の口から漏れ出ている言葉は、現在、世界のどこにおいても使われてはいない言語体系によるものであった。

 だが、男は、言語それ自体を理解はできていなくとも、その音の連続だけは、幼少期から訓練を続け、覚え込まされてきたため、一言一句違えることなく唱えることができた。

 そもそも、音の連なりを一文字間違えただけで、〈書の権能〉は発揮され得ない。


 最初の〈序説〉を唱え終えると、男は、素早く巻物の別の個所を開き、目の前にある、〈嗅覚〉を象徴する壁掛の図絵に視線を集中させながら、己が願いを強く思い描いた。

「我が唯一の望み……」

 男は呟いた。

「我が〈嗅覚〉の強化を欲す」

 その男は、〈嗅覚〉を象徴する図を、あたかも想像力の触媒にしたかの如く、自身の嗅覚の強化を念じたのであった。


 午後七時半頃―― 


 周囲に人がいないことを〈匂い〉で感じ取った後、イタリア人は、クリュニー浴場跡から忍び出て、この遺跡に隣接したポール=パンルベという小さな公園に入った。


 公園内で、男は立ち眩んだかのように倒れかけた。だが、鞄から仮面を素早く取り出すと、即座にそれを顔に装着した。

 その黒い特殊なマスカレードによって、イタリア人の鼻と口は完全に覆われていた。こうでもしないと、感覚が強化された嗅覚のせいで、パリの強烈な臭気に苛まれることになりかねないのだ。


「危なかった。一瞬、意識が飛びかけたわ。さて、この辺りで最も高い場所は?」

 地図で確認した後、彼は、パリの中心部において、最も標高の高いサント=ジュヌヴィエーヴの丘の上に向かう事にした。


 ポール=パンルベ公園を出ると、男は、坂になっているソルボンヌ通りに入って、左にソルボンヌ大学を見ながら、坂を登っていった。その大学の敷地が終わった所で左折し、クジャス通りを取ると、そのまま通りを直進し、この通りと繋がっているパンテオン広場に至った。

 この広場に在るのが、広場の名の由来にもなっている〈パンテオン〉である。


 パンテオンは、幅百十メートル、奥行き八十四メートルで、大きな丸屋根と、ギリシア・コリント式の円柱を持つ巨大建造物である。

 〈パンテオン〉の語源はギリシア語で、全ての神を祀る神殿を意味する。それゆえに、パンテオンは、日本では〈万神殿〉と呼ばれる場合もある。

 現在、このパリのパンテオンは、八百万の神々ではなく、フランスの偉人たちを祀る場所として利用されている。また、十九世紀半ばに、地球の自転現象を証明するために、〈フーコーの振り子〉の公開実験が行われたのは、広々とした空間を有する、このパンテオンの内部であった。


 かのイタリア人は、今度は、パンテオンに忍び込んだ。

 たしかに、パンテオンの夜間警備員の職務怠慢もあるかもしれないが、イタリア人の侵入に、警備の者はまるで気付かなかった。

 というのも、男が、組織から貸与されていたマスカレードには、他者から認識されにくくなるという機能も付与されていたからだ。

 かくして、仮面の男は、夜のパンテオンへの侵入を果たし得たのであった。


 彼はフーコーの振り子の下に座した。

 男は、まず、耳栓をして聴覚を、次いで、特殊な飴を口に入れて味覚を、さらに、腕に注射を打って、肉体を一時的に麻痺させ、触覚を封じた。


 それから、イタリア人は、仮面の鼻の部分を開けると、手にしていた、五百ユーロ紙幣に鼻を近付けた。

「これが、その日本人の匂いか……」

 紙幣に付着した匂いをたっぷりと嗅ぎとった後、男は、鞄から取り出した壺をパンテオンの床に置いた。そして、紙幣に火を点けると、その壺の中に、燃えている紙幣を入れ、蓋を閉めた。

 一連の作業を終え、日本人の匂いが壺から焚かれているのを確認すると、現代ローマ人は目を閉じ、さらに、目隠しをすることによって、視覚さえも完全に塞いだのであった。

 かくして、嗅覚以外の感覚全てを自ら封じることによって、残った一つの感覚、嗅覚はさらに鋭敏化された。


 そして、現代ローマ人は、サント=ジュヌヴィエーヴの丘というパリの高台から、円を拡げるようなイメージで、周囲に向けて嗅覚を同心円状に拡張させ、その探索網に獲物が掛かるのをじっと待ったのである。


 一時間に十一度、ゆっくりと右回りに回転するフーコーの振り子は、すでに四十四度ほど回っていた。


「ついに、捉えたぞっ!」

 そう、短く小さく言い放つや即座に、男はパンテオンを後にしたのである。

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