第12話 セーヌ河畔のブキニスト

 哲人のパリ二日目――


 有栖川哲人(てつと)は、二ヶ月間ものフランス滞在のための雑事を幾つかこなしているうちに、時は瞬く間に過ぎ去っていた。

「……。もう、そろそろ出掛けるかな」

 哲人は時計に目を遣りながら、そう独語した。


 この日の夜は、第一区にあるレストランで、アパルトマンのオーナーである森田真一(もりた・しんいち)と食事をする約束になっていた。真一からは、レストランを七時にレゼルヴェ(予約)したという連絡を既に受けていた。

 今の時刻は午後四時、約束の時刻まで、まだ三時間もある。

 たしかに、早すぎる家出のようにも思えるのだが、パリの町歩きをしながら、まったりと約束の地へ向かうことにしよう、と哲人は考えていたのであった。


 ブロカ通りのアパルトマンを出た哲人は、クロード・ベルナール通りを右に進んだ後、すぐに左折し、この大きな通りに接しているモンジュ通りに入った。そのまま、セーヌ河の方に向かって、真っすぐモンジュ通りを歩き続け、そのモンジュ通りがカルディナル・ルモワーヌ通りにぶつかった所で、この小さな通りに入り、そのまま右斜め方向に向かって進んで行くと、やがて、セーヌ河にたどり着いた。

 家から二キロ、徒歩二十分くらいなので、わざわざメトロを使う程の距離ではなかったのだ。


 この辺りは、アラブ世界研究所の近くで、また、鴨料理で有名なパリのレストラン、〈トゥール・ダルジャン〉が在る。ちなみに、このレストランは、日本ではホテル・オータニに出店している。


 哲人は、その老舗料理店の前を通り過ぎると、トゥルネル河岸を横断して、セーヌ河に浮かぶサン=ルイ島をつないでいるトゥルネル橋の真ん中辺りまで行き、そこからセーヌ河に浮かぶもう一つの島、シテ島の方に目を向けた。

 ここからはノートル=ダム大聖堂がよく見えるのだ。

 ノートル=ダム大聖堂を本やネットで参照する時、多くの場合、聖堂の入り口である正面からの姿が掲載されている。だが、このトゥルネル橋から肉眼で視えるのは、大聖堂の背中である。そして、哲人は、真正面よりも、背後からのノートル=ダムの形の方をむしろ好んでいるのだ。


「この風景を見ると、パリに戻ってきたって感じがするんだよね」

 橋の上にいる哲人は、貴婦人たるノートル=ダムの背中から、左方に眼差しを移動させると、歩いてきた方、セーヌ川左岸の河畔をその視界に入れた。


 哲人が視線を送っている左岸側、トゥルネル橋の袂付近から、セーヌ河に沿って、オルセー美術館の手前、ヴォルテール河岸のロワイヤル橋までの間を、深緑色の小さな箱が、約二キロに渡って延々と並んでいる。

 その中には、つっかえ棒で支えることで蓋を屋根にして、店のようになっている緑の箱も認められる。


 セーヌ河沿いの欄干に立ち並んでいる深緑色の屋台は、〈ブキニスト〉と呼ばれているパリの古本の露店で、こうしたセーヌ川の青空書店の歴史は、十七世紀にまで遡ることができる、と言う。


 二十一世紀初頭である現在、セーヌ河畔の古本屋については、〈ブキニスト組合〉が存在していて、その組合によると、パリにおける、古本屋の登録数は二二六で、店舗数は約千軒にのぼり、一九九一年にはユネスコの世界遺産にも登録された。

 それゆえにか、ブキニストはパリ市によって保護されており、出店料の徴収や収入課税が免除されている。

 また、パリ市は、店の大きさや、店の設置方法に関しても管理しており、ブキニストとしてセーヌ河畔に出店するのもパリ市による認可制であるそうだ。


 歴史的に言うと、十九世紀末に、ブキニストは箱方の露店用の店舗を、営業終了後も設置したままにしておけるという権利を獲得し、かくして、セーヌ河畔に軒を連ねる緑の露店という情景は、現在まで続いている次第なのである。

 さらに興味深いのは、この青空書店では、閉店後に商品の全てを持ち帰るわけではないという点である。

 昼の間、古本店として営業されていた〈店〉は、緑の屋根を蓋にして閉められた後、鍵を掛け、そのまま商品は緑色の箱の中に置きっ放しにされる。つまり、夜の間、店は本を入れておく〈箱〉へと変わるのだ。


 二十世紀中盤以降、セーヌ河右岸のブキニストには偶数、左岸は奇数の番号が振られるようになり、その番号は、セーヌ河の流れ、東から西に向かって数が大きくなるようになっている。


 今現在、セーヌ河畔のブキニストは、パリの中心部に位置している、という立地的好条件もあって、写真やポストカードといった、観光客向けのパリ・グッズの販売にも携わるようになっている。こうした販売品の多様化に関しては、世界遺産に指定され、パリ市の保護管理下にあるとはいえ、古本の販売だけでは、ブキニストの経営が厳しいということも理由の一つであるようだ。


 哲人は、ノートル=ダム大聖堂の美しい背中を眺めながら、左岸沿いに位置する、奇数番のブキニストを、東から西へと下流に向かって、一番から三番といったように、一軒一軒をのぞき込みながら、トゥルネル橋を出発し、下流に向け、歩をゆっくりと進めていった。


 ブキニストの店主の中には気まぐれな者も多い。

 つまり、毎日営業しているのではなく、気が向いた時にだけ緑の蓋を開ける店主も、中にはいるらしい。


 やがて、ヴォルテール河岸に面した、西のロワイヤル橋に哲人は到着したのだった。

「あそこが、多分、左岸最後のブキニストかな?」


 軒を連ねている店から離れた所、ロワイヤル橋の袂に、まるで孤立したように、ブキニストが一軒だけ建っていた。

 その露店のブリキの深緑は、他の店の緑よりも、ひときわ深いように哲人には思え、その濃い緑を背景にして、〈1111〉という数字が白いペンキで書かれていた。

 そのブキニストは、他の店のように、エッフェル塔のポストカードのような、観光客向けの土産物は一切置いてはおらず、古本屋としての矜持を保ち続ける孤高の存在であるようにも哲人には思えた。

 その〈1111〉番の店の左脇には、店主と思しき老人が、腹部の上で両手を組んで、揺り椅子の背もたれに身を預けながら眠っていた。


「ボンジュール(こんにちは!)、ムシュー」

 哲人は、その店主に挨拶をしたのだが、老人から反応は返ってこなかった。

「ちょっと見せてもらいますね」

 眠ったままの店主に、一応の断りを入れてから、哲人は本の物色を始めた。哲人は、並べ置かれた数多の古本の間に、アラバスターのような白い色の小さな箱を認めた瞬間、哲人の視線はその箱に吸い寄せられ、目を離す事ができなくなってしまった。


 その時――

 昼と夜がせめぎ合う黄昏時の、沈みかけた太陽から放たれた最後の昼の一光が、哲人の目を眩ませた。

「ヴォワラ(はいどうぞ)、ムシュー」

 視力を取り戻した哲人の前には、先ほどまで揺り椅子の上で眠っていたはずの老いた店主が立っており、積もった埃を払いながら、白い箱を哲人に差し出した。

「メフィストフェレスみたいだ」

 哲人は、直感的にそう思ってしまった。根拠はない。

「メルシー(ありがとう)、ムシュー」

 受け取った箱を開けると、その中には、一本の巻物が入っていた。


「エテュ・シノワ(中国人かい)?」

 唐突に、メフィストフェレスを想起させるような古本店の店主が話し掛けてきた。 

「ノン、ジゥスュイ・ジャポネ(いや、日本人です)」

 哲人は、流暢ではあるが、母音が少し強調された、日本人訛りのフランス語で応えた。すると、店主は、突然、この巻子本の来歴を語り出したのである。

 

 店主によると、この巻子本は、エジプトのアレクサンドリア図書館が、カエサルのせいで炎上した際に、救い出された貴重な本の一つであるらしい。

 その後、ナポレオンがエジプト遠征をした際に、これをフランスに持ち帰ったのだそうだ。

 だが、第一帝政が崩壊した際に、この白い箱に入った巻子本は盗難されてしまい、その後、紆余曲折を経て、ヴォルテール河岸にかつて存在していた骨董品屋に持ち込まれたらしい。

 やがて七月王政期に、その骨董屋を訪れた小説家のバルザックが、白い箱を購入したのだが、借金まみれのバルザックは、財産を差し押さえられ、その後、巡り巡って、その巻子本はこのブキニストにやって来た、とのことであった。

「その骨董屋が、儂の祖先なんじゃよ」


 巻子本の話は、まったくもって荒唐無稽のように哲人には思えたのだが、老店主の語った物語は実に興味深かった。

「ムシュー、カエサルの時代の物にしては、この巻物は痛みがないように思われますが」

「目の付け所がいいね。秘密は、この白い箱なんじゃよ。その材料は、古代バビロニアで発掘された特殊な石材で、不思議なことに、この箱に入れられたものは、まるで時の流れが止まったかのようになって、腐食しないんじゃ」

 購入を迷っている哲人に、老店主はこう言ったのである。

「ジャポネのムシュー、古本との出会いは、その時一度限りだよ。欲する時に手に入れないと、もはや二度と手に入れることはできない」

 そう言われて、哲人は決断した。

「よし、買いましょう。ところで、お値段は?」

「ご自由に。ただし、アン・ネスペース(現金で)」

 哲人は、財布の中に入っている現金全てを老店主に渡し、白い箱に入った巻子本を手に入れたのである。


 夜の帳が完全に落ち、〈1111〉番のブキニストの老店主は、次に店を開けるのはいつにしようか、と考えながら、深緑の屋根を閉じようとしていた。

 その閉店直前の店を、イタリア人と思しき中肉中背の西欧人が訪れた。

「店主、今日は久々に店を開けたのですね」

 そのイタリア人は、視線だけで白い箱を探した。

 だが、〈箱〉がない。

「ところで、先日、開店時に見かけた白い箱に入った巻子本を買いたいのです。あの時は現金の持ち合わせがなくて売ってもらえなかったのです。その白箱が、ちょっと見当たらないのですが」

「ああ、あれね。ちょうど今さっき、黒髪の東洋人に売ったばかりだよ」

「インクレディィィ~~~~~~ビレ(信じらっれぇぇぇ~~~~~~ん)!!!」

 絶叫を上げたイタリア人は、闇に包まれたセーヌの河辺で、茫然としたまま立ち尽くしてしまったのであった。

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