第11話 パリの巨大マイマイ

 パリは〈エスカルゴ〉と呼ばれている。


 日本で「エスカルゴ」と言うと、カタツムリを用いたフランス料理だと思われがちだが、実は、フランス語の〈エスカルゴ〉とは、カタツムリ一般を指し示す。


 人類がカタツムリを食べていたという証拠は、先史時代の洞窟で発見された貝殻に、その痕跡を認めることができる。そして古代ローマでは、カタツムリを揚げ物にして、食べていたらしい。

 しかし、中世ヨーロッパにおいては、教会がカタツムリを〈不浄なもの〉とみなして以降、カタツムリは食べられなくなってしまったらしいのだが、それでも、飢饉の時には重要な非常食とされていたそうだ。


 現在、〈エスカルゴ〉と言えば、フランス料理の代表と思われているのだが、実を言えば、エスカルゴ料理の本場はブルゴーニュである。

 ブルゴーニュとは、フランスの中央、やや東に位置している地方で、このブルゴーニュにおいて食用とされてきた〈エスカルゴ〉それ自体は、英語からの日本語への訳語では〈リンゴマイマイ〉となっている。


 リンゴマイマイは、フランスでは、〈エスカルゴ・ド・ブルゴーニュ〉、つまり、ブルゴーニュのエスカルゴと呼ばれているわけなのだが、フランス語におけるこの名称は、ブルゴーニュの郷土料理であるエスカルゴが、リンゴマイマイを食材としている事に由来している。

 リンゴマイマイは色が白いので、〈大白〉、あるいは、ブドウの葉をエサにしているので〈葡萄畑のエスカルゴ〉とも呼ばれてもいるのだが、リンゴマイマイは、環境開発や、ブドウ栽培における農薬散布、あるいは食用のための乱獲のせいで、絶滅寸前にまで追い込まれてしまい、その結果、一九七九年には保護品種に指定されることになった。

 かくの如く、リンゴマイマイは希少種になり、結果的に、高級食材になってしまった。その代わりに、今では、輸入物のアフリカマイマイや、養殖された、小型のカタツムリである〈プティ・グリ〉や、それよりやや大きい〈グロ・グリ〉が、エスカルゴ料理の材料にされている。ちなみに、グリは灰色、プティは小さい、グロとは太ったという意味のフランス語である。


 エスカルゴの調理法は、まず、カタツムリの中身だけを取り出して、〈クール=ブイヨン〉で茹でる。クール=ブイヨンとは、短時間で煮たてたブイヨンという意味で、これは、水・白ワイン・香味野菜・香辛料などによる煮汁のことである。この煮汁で茹でた後、エスカルゴの中身を殻に戻し、その後、パセリ・ニンニク・バターを混ぜ込んだ、ガーリックバター味のペーストを詰めて、これをオーブンなどで焼く。


 実は、カタツムリとは、マイマイ科の陸産巻貝である。

 つまり、元々は海中に住んでいた巻貝で、陸に上がって、肺呼吸するように進化した生物なのだ。それゆえに、エスカルゴの味や触感は、基本的には、ほぼ貝と同じと思えばよい。

 貝と思えば、食する際の抵抗感も軽減されることだろう。


 エスカルゴ料理がブルゴーニュの郷土料理である事は確かなのだが、当然、フランスの首都パリでも、〈エスカルゴ〉料理を食べることができる。実際、パリには、エスカルゴ専門の料理店も存在しているのだ。


 哲人は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 今日の夜は、アパルトマンの大家である友人と、エスカルゴを食べに行く予定になっている。哲人は、第五区と第十三区の境界付近、第五区側に位置しているアパルトマンの門を出ながら、エスカルゴの味を口の中で再現させていた。


 パリには、〈エスカルゴ〉という別称がある。

 しかしそれは、代表的なフランス料理の食材の一つがエスカルゴだからという理由ではない。

 パリの形がエスカルゴに似ているからなのだ。


 パリは、二十の区(アロンディスマン)に分けられている。

 それぞれの区は、東京の新宿区や文京区のように固有名詞が付けられているわけではなく、第一区や第五区といったように、一から二十までの番号が振り分けられているのだ。


 そのパリを、〈ヘ〉の字型にセーヌ河が横断しており、セーヌ河の上の地域が〈右岸〉、一方、下の地域が〈左岸〉と呼ばれている。

 そして、セーヌ河の真ん中、やや右辺りに浮かんでいる小島がシテ島である。

 このシテ島の左端を中心点にして、ここから渦巻状態に、パリの区は配置されているのだ。


 シテ島に近接したセーヌ河右岸では、左から右に第一区から第四区があり、その第四区の下、逆岸の左岸側に第五区がある。そして今度は右から左に、第五区から第七区が位置し、その逆岸、右岸側に第八区があり、再び左から右に、一区から四区の外側を取り囲むように、第八区から第十二区が拡がっている。さらに再び、セーヌ川を渡り左岸に入ると、今度は、五区から七区の外側を、右から左に向かって、第十三区から第十五区が囲むようになり、最後にもう一度セーヌを渡河して右岸に入ると、八区から十二区の大外を、第十六区から第二十区が左から右に包むようになっている。


 すなわち、シテ島を中心に、内から外へと、時計回りに区が配されていて、渦巻状態がカタツムリ、つまり、マイマイの殻の巻貝模様に似ていることから、〈エスカルゴ〉と呼ばれているわけなのだ。


 ちなみに、哲人のアパルトマンが、第五区と第十三区の境界付近に位置しているのは、こういったパリのエスカルゴ構造のせいなのである。

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