第34話 今はなき旅立ちの儀式

 哲人は フランスの新幹線、TGVの細長い券を雷太に手渡した。

「フランス語では、こういう細長いのは〈チケ〉とは呼ばないんだぜ」

「じゃあ、何て言うんすか?」

「〈ビィエ〉だよ」


 日本のチケットを思い浮かべると、どうしても違和感を覚えてしまうのだが、フランス語で、〈チケ(ticket)〉と言うと、それは、日本では自動券売機で購入する、地下鉄やJRの近距離向けの小型の切符のことを指す。ちなみに、フランスでもメトロの切符は親指大で、フランスでは、これこそが〈チケ(ット)〉なのである。


 これに対して、日本でコンサートやライヴなどの入場時に用いられるような券のことを、〈ビィエ(billet)〉と呼ぶ。ちなみに、お札もビィエなので、要するに、細長い短冊状の形と大きさの紙こそが〈ビィエ〉なのだ。


「ヘえええぇぇ~~~、勉強になったっす。それじゃ、TGVの旅券を買う時に、窓口で、『チケ、シル・ヴー・プレ(チケット、お願いします?)』って言ったら、『はあああぁぁぁ~~~?』って顔をされちゃいますかね?」

「辞書的な意味で考えると、そうかもな。通じるかどうか、あるいは、どんな反応をされるか、機会があったら試してみたら? 多分、チケとビィエを混同する客なんて多いだろうし、駅員さんも慣れているだろうから、〈直観〉で何が言いたいかは分かるんじゃないかな?」

「それもそうっすね」

 そんな会話を交わしながら、哲人と雷太はビィエを、自動開閉式の改札に挿し入れたのであった。


「サンダー、つい数年前まで、このSNCFのモンパルナス駅では、こおゆう日本みたいな、入退場をチェックする自動改札なんて無くってさ、誰でも発着ホームに入って、自由に見送りや出迎えができたんだぜ。

 たしか、お前が一年の時に、僕が講義の中で見せた、『ピュイスク・ヴー・パルテ・ザン・ヴォワイヤージュ(Puisque vous partez en voyage)』って曲のミュージック・ヴィデオ(MV)、『おぼえていますか~~~?』」

 哲人は、八十年代のロボット・アニメの映画のサビを歌いながら、雷太に訊ねた。「ムッシュー、そのフランス語の曲のタイトルって、どおゆう意味っすか?」

 ジェネレーション・ギャップであろうか、雷太は何の反応も示さず、そのまま質問を続けた。

「…………。ノー・リアクションかよ……。まっ、いっか。えっとだな、曲名のフランス語は、ざっくり訳すと、『だって、あなたがパリに行っちゃうんだもの』っていう意味だよ」

「あっ! 思い出しましたっ! たしか、デュエットの曲でしたよね」

「そのとおおおぉぉぉ~~~りっ!」

 哲人は、右肘を直角に曲げ、軽く下に引いてみせた。

「そう、フランソワーズ・アルディーとジャック・デュトロンのデュエットだよ」

「ムッシュー、講義の中でおっしゃっていましたけれど、この二人、たしか実の夫婦なんすよね。あのベタベタっぷりは、演出ってゆうか、リアルなんすよね」

「それな」

「だんだん思い出してきたっす。MVの中で、パリに向かう夫だか恋人を女性が駅に見送りに来ていて、歌詞の中で、『あなたの行き先だから、パリが大嫌い』って内容がありましたよね?」

「そう、よく覚えているな」

「で、面白かったのは、MVの最後で、花束を持って、見送りに来ていたはずの女性が、そのまま列車に乗って、一緒にパリに行っちゃうってゆうオチでしたね」

「ハハハ、まさしく、それな。あのミュージック・ヴィデオを見せたのは、フランスの駅の雰囲気を知ってもらいたかったという意図もあったんだけれど、あのMVのリアリティーってのは、一昔前まで、入退場を管理するような自動改札なんて存在しなくって、誰でも無料で自由にホーム、フランス語では〈ケー(quai)〉って言うんだけれど、ケーに自由に出入りして、見送りや出迎えができたっていう点なんだよね」

「へっ? それじゃ、こおゆう自動改札がない頃は、どうやって、旅券のチェックをしていたんすか?」

「駅の構内に、例えば、ケーの出入り口辺りに、黄色い機械があって、それにビィエを差し込んで、自分で刻印してたんだよ」

「ほう」

「その黄色い機械を、〈コンポストゥール(composteur)〉、その行為を、〈コンポステ(composter)〉って言うんだけれど、黄色い機械に券を入れると、『ジョリジョリ』って音がして、入場の証が刻印されるって仕組みだったのさ。

 今のモンパルナス駅では、入退場が自動化されていて、それはそれで、管理って意味では、便利だとは思うんだけれど、自分が、前回フランスに来た時は、まだモンパルナスにも黄色い機械があって、『ジョリジョリ』ってやっていたんだよな。旅情って意味では、コンポストゥールにビィエを入れるってのは、ある意味、フランスで旅立つ時の儀式みたいなものだったので、ちょっと寂しい気もするんだよね」

「それは、旅人的には残念すね」

「まあな、でも、まだ全フランス的に、こおいった入退場を管理する自動改札が導入されているわけではないらしいから、いつかどこかで、黄色い機械で〈コンポステ〉する機会もあるかもよ。ただ一点注意すべきことがあってな」

「何すか? ムッシュー」

「コンポステを忘れると、問答無用で罰金が取られるってことさ。フランス語では、その罰金のことを〈アマンド(amende)〉って言うんだけれど……」

「なんか、アーモンド・チョコみたいで、うまそうっすね」

「でも、列車で課される〈アマンド〉の方は、全く甘くはないぞ。僕自身は、アマンドをくらったことがないので、実際の所は分からないんだけれど、『急いでいたんで忘れました』とか、『外国人観光客なので知らなかった』っていう言い訳は一切通らないって話だよ」

「厳しいっすね」

「そう、だから、この券を黄色の機械に通す行為は、まさにフランスで旅行をする時の絶対条件なんだよな」

「あれっ!? それじゃ、あのMVのラストって」

「それな。見送りに来ていたフランソワーズ・アルディーは、そのまま男と一緒に列車に乗って行っちゃったんで、リアリスティックに考えると、アマンドをくらっちゃったはずなんだよね」

「まじっすかっ!」

 そんな会話を交わしているうちに、哲人と雷太を乗せたモンパルナス発・レンヌ行のTGVは、ゆっくりと動き出した。


 その列車に、ビィエを持たぬまま、一人の日本人が密かに乗り込んでいたのであった。

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