第29話 明日、パリを発つ

 二〇一五年三月十九日・金曜日——


 イタリアそしてイギリスを周遊した有木雷太が、約半月ぶりにパリに戻ってくる。


 イギリス海峡を挟んで、向かい合っているイギリスからフランスへの移動には、飛行機、バス、列車など、幾つかの選択肢が存在する。しかも、トータルで考えると、交通費は、どれも大した差はないのだ。


 飛行機を利用する場合、ロンドンのヒースロー空港とパリのシャルル・ド・ゴール空港は、直行便で一時間二十分の飛行時間で結ばれている。

 とはいえども、ロンドン市内からヒースロー空港まで、シャルル・ド・ゴールからパリ市内までの移動時間や、空港へのチェックイン時間、荷物の受け取り時間などの待ち時間まで含めると、当然、一時間半程度では済まない。


 バスを利用する場合は、ドーバーからカレーまでの乗り継ぎのフェリーも含めると、合計の移動時間は九時間ほどになる。


 これらに対して、ロンドンとパリを結ぶ列車、ユーロスターは、その発着駅は共に市の中心部で、その所要時間は、わずか約二時間半なのだ。

 二時間半とは、たとえてみると、東京から新大阪までの新幹線での移動時間とほぼ等しい。しかも、ユーロスターは、一日の運行数が二十本以上と実に多い。


 ドーバー海峡を船で渡る事に浪漫を感じもするのだが、時間の許す限り、ロンドンの市内散策に興じたかった雷太は、ロンドンからパリへの移動には、列車移動を選択したのであった。


 ロンドンを十四時半に出発した雷太を乗せたユーロスターは、十八時前には、パリの北駅に到着した。


               *


 日本から次々と舞い込んで来ていた数々の仕事を、十九日の昼間に、なんとか片付け終えた哲人は、その日の夕方、久方ぶりにアパルトマンを出て、北駅まで雷太を迎えに出掛けたのであった。


「お久しぶりぶりっすね。ムッシュー」

「おっ、サンダーも元気そうだな。イタリアとイギリスはどうだった?」

「もう、さいっこおおおぉぉぉ~~~だったっす」

「で、今回は、荷物と財布は無事か?」

「もおおおぉぉぉ~~~。やめてくださいよ、ムッシュー、さすがに注意してますって」

「悪い、悪い、つい、な」

「なんか、このネタで、一生いじられそうっすね」

「じゃ、さっさと帰ろうぜ」

 哲人は、雷太を連れて、RER(える・う・える)のB(ベー)線に乗り込んだのであった。


「ムッシュー、この〈ベー〉線は、自分、悪夢っす」

 雷太は、空港からパリ市内への移動に、この路線を利用した際に、B線の車内で財布をスラれた時の事を思い出してしまった。

「僕も一緒だけれど、とりあえず、バックは前に抱えておけよ。それに、移動は、わずか四駅・八分だから、スマフォは出すなよ」

「え、スマホも駄目なんすか?」

「あかん。十分くらいだし、我慢しろ。

 注意力が散漫になるからって話じゃなくて、この前、携帯をいじっていた、日本人観光客が後をつけられて、スマフォを盗られたって事件があったばかりなんだ。多分、列車に乗っていた時点で目を付けられていたんだろうな」

「くわばらくわばら、分かったっす、ムッシュー。もう自分、これ以上のトラベル・トラブルは勘弁っすから」 


 やがて、B線はポール=ロワイヤル駅に到着した。

 ドアの近くに立っていた哲人と雷太が列車から下車すると、同じ車両に乗っていた二名のフランス人の乗客が、二人の日本人に続いた。


 ポール=ロワイヤル駅から、ポール=ロワイヤル大通りを経由して、ブロカ通りの、哲人のアパルトマンまでは徒歩で十五分くらいの距離である。


 アパルトマンまでの道すがら、雷太は、背後をしきりに気にしていた。

「ムッシュー、なんか、さっき同じ駅で降りた人が二人、自分らの後を付いてきているみたいなんすけど」

「ついさっき、スマフォについて、あんな話をしたんで意識しちゃったか? ここは大通りだから、人通りはそれなりにあるし、家まで近いし、なんかあったら、全力ダッシュで逃げながら、『オ・スクール(助けて)』て、大声で叫べば大丈夫だって」

「なるほど……。『オ・スクール』か……。〈御学校〉って覚えますね」

「お前、本当に、ダジャレ好きだね。まあ、記憶の定着って、知っている事との関連付けだから、覚えられれば何でも構わんよ」

「ウイっす、ムッシュー。それにしても、ストーキングされているかもなんて、自分、自意識過剰になっていたっす」

「海外だから、注意はした方がよいけれど、あまり気にし過ぎると、神経が擦り減っちゃうって」

「それもそうっすね」


 ポール=ロワイヤル駅からブロカ通りまでの道中、その背後にいた二人の人物は、哲人と雷太と、完全に同じ経路を取っていた。

 そしてさらに、その男たちは、アパルトマンの扉の前で、コード番号を打ち込んでいる師弟コンビに近付いてきたのだ。

 一瞬、哲人にも緊張感が走ったのだが、その外国人たちは、チラッと、日本人たちの顔に視線を送ってきただけで、そのまま素通りしていったのであった。

「なっ、気のせいだったろ?」

「えええぇぇぇ~~~、ムッシューだって、さっきの人たちが背後を通った瞬間、顔がこわばっていましたよ」

「ちょっとだけ、ほんのちょっとだけな。

 ところで、サンダー、明日は、朝一で出掛けるから、はよ、部屋に戻って準備しようぜ」

「えっ! ムッシュー、自分をどっか連れて行ってくれるんすか?」

「ああ、もちの論さっ!」

「で、行き先は?」

「いざ、モン・サン=ミシェルへ、だ」


               *


 ブロカ通りを抜けて、クロード・ベルナール通りに出た、二人のフランス人は、日本人が建物の扉を抜けた後、五階に位置している部屋の明かりが灯る所まで確認した。

「ふっ、ふうううぅぅぅ~~~、尾行って、生まれて初めてやってみたけれど、スリルあったな」

「なっ、なっ、なっ!? あれ、やっぱ、似顔絵の日本人で間違いないぜ」

「北駅で見かけた時は、もしやって思ったけれど、やっぱり、そうだったな」

 それから二人のフランス人は、似顔絵の下に書かれていた番号に電話を掛けた。

 呼び出し音が、三度、鳴った後、電話が繋がった。

「チャオ、……、アロオオオォォ~~~ウ」

 イタリア語、それを、イタリア訛りのフランス語で言い直した応対の声が、受話器から、フランス人の耳に聞こえてきたのであった。

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