第28話 パリでのそれぞれの日々

 有栖川哲人(ありすがわ・てつと)と有木雷太(ありき・らいた)が、シャン=ゼリゼ大通りでの〈空間転移〉、すなわち、コンコルド広場から凱旋門の屋上への瞬間移動を体験したその翌日には、乗継の空港でロスト・バゲージしてしまった雷太のスーツケースが、哲人が間借りしている第五区のアパルトマンに届けられた。


「とりあえず、荷物が無事で良かった分けだけれど、サンダー、お前、これからどうするつもりなの?」

 哲人は、教え子の雷太に、今後の旅行プランについて尋ねてみた。

「自分、これが初めてのヨーロッパなので、フランス以外にも回ってみたい国があるんすよね」

「で、お前、具体的に、どの国に行きたいわけ?」

「イタリアとイギリスです」

「フランス基準で考えると、南北に在る『イ』から始まる国か……。

 喩えてみると、東京に来た外国人が、九州と北海道に行くような感じかな? けっこう回るつもりなんだね。こりゃ、大忙しだ」

「ムッシュー、ちょっと、パソコンをお借りしますね」

 雷太は、インターネットで検索を掛けて、安価な移動手段をまとめているサイトにアクセスすると、そのサイトの中でも、最も安いLCC、いわゆる格安飛行機の便を予約したのであった。


 パリからローマまでは、飛行機で二時間程度、一方、ロンドンへは、飛行機で一時間半程度で移動できる。

「それで、サンダー、お前、イタリアとイギリス、どっちの国から先に向かうつもりなんだ?」

「イタリアのローマ、それから、イギリスのロンドンすね」

「『イ』から始まる国だけじゃなく、行きたい都市も、イニシャルが『ロ』から始まるんかよ」

「ほんとだっ! でも、そんな親父ギャグみたいな発想で、行き先を決めた分けじゃないんすけどね」

「……。なるほど。で、パリには、いつ戻ってくるんだ?」

「三月十九日の予定です」

「わかった。んじゃ、また、そん時にな」


 そして、飛行機のチケットをリザーブした、その翌日には早くも、雷太は、パリの南郊外に位置しているオルリー空港から、ローマに向けて旅立っていったのである。


               *


 欧州を初めて訪れた教え子を送り出した哲人は、独りパリに残って、アパルトマンで仕事を始めた。

 たしかに、折角のパリ滞在なのに、と思えなくもないが、滞在も一ヶ月近くになると、パリに居るという非日常ではなく、感覚が在住という日常に近いものになってゆく。

 実際問題、パリでの研究活動に加えて、やらなければならない仕事が、突然、幾つも日本から舞い込んで来ていた。

 例えばそれは、今年度の追試験・再試験の実施や採点と評価、低評価や落単に不服を申し出て来た学生への対処、学生アンケートに基づいた講義修正案の作成、来年度の講義シラバスの修正や、四月の講義オリエンテーションの準備などで、哲人は、予想以上に、今年度の後片付けと来年度の下準備のせいで、忙しい日々を送っていた。

 とは言えども、哲人は、三月の後半には、北フランスを旅行し、講義準備と研究漬けの日常から、非日常の旅に向けて出発する予定であった。

 そもそも、二〇一五年の三月後半に北フランスのブルターニュ地方を訪れたい、という欲望があって、そのために、研究のためのパリ滞在を二〇一五年にしたのである。

 かくの如き、パリでの日常ではあったものの、なんとか、北フランスへの出立までに、抱えている仕事の片を付けよう、と考えて、哲人は、パリのアパルトマンに引き籠もり、アパルトマンからほとんど一歩も出ずに、シャカリキに仕事に従事していたのである。


 元々は、この三月後半のブルターニュ来訪は独り旅の予定だったのだが、三月十九日にパリに戻ってくる教え子の雷太も、北フランスに連れて行ってやりたい、と哲人は考えていたのである。


              *


 イタリア人は焦れていた。

 まず、白箱に入った巻子本を買ったという、日本人の似顔絵をコピーして、それを、パリ各所の掲示板に貼り、その情報に懸賞金を懸けた。

 すると、掲示を出したその翌日には、コンコルド広場の銅像の路上パフォーマーから、日本人の目撃情報が届いた。

 件の日本人は、チュイルリー公園の入り口で、突然、穴の中に姿を消し去っていった、という。

「偶然か? 回収を急がねば」

 大道芸人の言をそのままに受け取るのならば、日本人は本の〈権能〉を発現させてしまったのかもしれない。

 彼奴等が、いかにして、巻子本の〈術語〉を解読できたのかは分からない。

 しかし、突然の消失という事実を軽視する分けにはいかない。

 とまれ、その現象から判断するに、今回のパリで発見されたグリモワールの〈原書〉は、〈転移之書〉で間違いなさそうだ。

 しかし、コンコルドの情報以降、その日本人の話は、まるで入ってこなかった。

「ど、どうにかして、奴等を早々に見付ける手段はないものか……」

 妙案が思い付かなかったイタリア人は、とりあえず、似顔絵のコピーを増やし、懸賞金を吊り上げた。


 だが——

 日本人の似顔絵の掲示を出してから、もうすぐ二十日近くが経たんとしているにもかかわらず、未だ有力な情報は、イタリア人の許に届いてはいない。


               *


 森田真一(もりた・しんいち)の許に、パリ中でバラ撒かれている日本人の似顔絵のコピーが届いたのは、三月の初めのことであった。


「これ、人(じん)さんじゃないかっ!?」

 真一は、即時、事の仔細を調べるように部下に命令を下した。

 部下から上がってきた報告によると、パリ各所の掲示板に、哲人の似顔絵が貼られ、莫大な報奨金が懸けられている、との事であった。

「可能な限り、似顔絵を回収して、これ以上の拡散を防げっ!」

「ドン、有栖川さまへの連絡は、どういたしやすか?」

「いや、今はいい。人さんには、憂いなく五年ぶりのパリを楽しんでもらいたいからな。ただ、内の者(うちのもん)から、精鋭を何人か選んで、密かにガードに付けろ」

「ヘイ、分かりやした、ドン」

 それから、パリ・日本人コミュニティーの若きドン、森田真一は、さらなる情報を集めるべく、スマフォを手に取り、何本もの電話を掛けたのであった。

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