ハルピュイアはまだ恋を歌えない

〈その風に乗って、時おり歌のようなものが聞こえることがある。谷に住むどの鳥にも似ていない、美しい羽根が町に落ちていることもあった。人々はいつしかこう信じるようになる──「この谷は天使様に守られている」と。〉

 かつて「風歌の谷」という名の渓谷があり、そこに住む仕立て屋の若者が山をのぼっていた。聡明で美しいお嬢様に恋をしたからだ。薔薇の姫君と呼ばれる彼女のため、高所にしか咲かない峰雪草の花を摘みに。崖の淵で身体の支えを失って転落した若者は、死を覚悟したが、それを救ってくれたのは、風歌姫(ハルピュイア)だった。

 情景豊かに紡がれていく物語が辿っていく道行は、幻想的な美しさを持ちながらも、険しく残酷さをはらんでいます。わけ隔てない善良さと素朴な性格を持ち合わせた若者、難題を突き付けながらも冷えた心がとかされていくお嬢様、そして恋の歌を知らない風歌姫(ハルピュイア)。どこかで彼らの幸せを願いながらも、そうはならないのだろう、という諦めにも似た気持ちを抱きながらも、先を知りたい、という気持ちを抑えきれずに読み進めていき、読後、ちいさく息を吐く。余韻は苦い。だけど、心にしみるのは、私たちがすでに知っているからでしょう。

 この苦味は大切な誰かとやり取りを重ねて、そして失って、はじめて知るものなのかもしれません。

 知ってしまったのでしょう。ハルピュイアは。
 だけど知らなかったら、その苦味さえ知らないままだったら。
 そんなふうに思ってしまうわけです。