最終話 そうは問屋が卸さない
50万で確保した1週間は、結論から言うと無駄ではなかった。
覚悟を決めるのに3日、計画に1日、物資の調達に3日を要した。
最初の3日間は、たえず埃の舞う納屋の中でゴロゴロしながら、実家へ逃げ帰る誘惑とひたすら戦っていた。
手の込んだ料理、足を伸ばせる風呂、柔らかなベッド。本棚には紙の漫画がずらりと並んでいる。電子書籍派の先輩とはよく軽口の叩き合いをしたものだ。あの名作たちを読み返せば時間はいくらでも潰せる。酸素と食費を浪費し両親を危険に晒すクソニートに堕ちようとも、一人こんな僻地で追い詰められて死ぬよりマシではないか。
死んだら終わりだ。どんなに見苦しくても、生きられるものなら生きていたい。
本気で逃げ帰ろうと思った。それを、全力で叩き潰した。
ここで退いたら、僕は本物のゴミになってしまう。
誰に評価されなくてもいい。遺書が3通とも届かず、両親にすら蔑まれることになっても、ここから逃げ帰らなかったことを最後の誇りとしたい。
そして、犬死にするつもりもない。やれるだけやってやる。
僕に世界を変える力はないけれど、待つことならできるかもしれない。息を潜めて、ひたすら待つ。世の中が正常に戻ったら、出頭して裁きを受ける。
記憶を総動員して、山中の潜伏場所候補を洗い出した。
近くに水を汲める場所があり、一般登山道から離れていて発見されにくい場所。
一ヶ所だけあった。■■山の■■■尾根、偶然迷い込んだところに廃屋があったはず。床は腐り落ちていたけれど、あの中にテントを張れば、単なる平野での幕営より居住性・機密性は格段に上がる。
スマートフォンで地図を確認し、残った50万弱で1週間分の保存食とガス、その他物資を買い揃えた。食い延ばせば1ヶ月ぐらいは生きられるはず。無駄な活動をしなければカロリー消費は抑えられる。
最寄り駅までに運賃を先に引くと、残高は46円となった。次回、家賃もスマホ代も健康保険も引き落とせない。電話がかかってくるだろう。しかし僕はこのスマホをこの納屋に置いていく。情報が得られなくなるのは痛いが、あの山中ではどうせ電波は入らない。
1週間分の食糧が詰まったザックは、今まで背負ったことのない重さになった。
◆ ◆ ◆
出発の日は雨だった。
それも広範囲に降る豪雨。目指す山域も土砂降りだろう。遊びの登山なら中止一択だけれど、1泊10万の追加料金は払えない。
清掃はゆうべのうちに済ませてある。漁師たちには黙って出ていく。行き先を聞かれたら面倒だ。
■■■線で■■駅へ。そこから、バスで登山口を目指す。
このご時世、この天気で山登りなんて、奇行でしかない。さすがに目立つかと不安だったが、電車はガラガラで、バスの乗客は僕一人だった。
下車した周囲も見事に無人。
これは、雨のおかげでむしろ助かった。登山道をわざと外れるわけだから、人の目があったら「そっちじゃないですよ」と声をかけられるおそれがある。もし混んでいたら、周囲に人がいなくなるタイミングが来るまで待たなければならないところだった。
天は僕に味方している。人殺しの僕に。
靴ひもを結び直し、歩き出す。一歩ごとにザックが肩に食い込む。尋常じゃない重さだが、今日は登頂も下山もしなくていいのだから、ゆっくり行けばいい。計算上、昼過ぎには廃屋に着けるはず。
雨に濡れることはさほど問題にならない。レインウェアの上下を着て、ザックはカバーで包んでいる。
問題は、たどり着けるかどうか。
この山域に廃屋が存在することは間違いない。ただ、あの時どう迷ってそこへたどり着いたのか、朧な記憶と、おそらくこうだろうという予想はあるけれど、確信はない。
地図上で3ヶ所、候補を絞り込んである。A地点が正解である可能性が7割、B地点が2割。まずA地点だろうと思っているけれど、万が一違った場合、落胆しながら一度登山道まで戻らないといけない。B地点に到着する頃には日没だろうから、そこに廃屋がなくても、その日はテントを張って
もしC地点も違ったら、発見はかなり絶望的になる。
最終的には廃屋を諦めて「Dエリア」――近くに沢があり、比較的平らな場所で、幕営に適したポイントを探すことになるだろう。ただ、ぽつんとテントを張るだけでは居住性も防御力も心許ない。追手は無論、獣に攻撃される可能性もある。長い潜伏生活になるのだから、できれば廃屋を発見したい。
歩き始めて2時間、A地点へ向かう分岐のピークまで来た。ペースは想定通り。ここから、登山道を外れる。
道を、外れる。
人生の道を踏み外したから、僕は今、こんな土砂降りの山中でクソ重い荷物を背負っているのだろうか。踏み外したのはいつだ? 日野からの暗殺指令を受諾した時? それとも、先輩と寝た時? 撃ち方に異動した時? 実家を出た時? そもそも、あのバイトに応募した時?
どこで間違えたのだろう。選択を誤ったと明確に感じるところはない。その時々で、根拠があった。たぶん何度やり直しても僕ならこのルートを辿る。だったら、踏み外してはいないということだ。今の状況は避けようがなかった。
降る雨はやり過ごせるのだけど湿気と汗で蒸れる。登山用のレインウェアだから普通の雨具に比べれば蒸れにくいのだけれどまったく蒸れないわけではない。冬なのに、汗が止まらない。そして立ち止まれば寒い。
A地点。廃屋は――ない。
(ないのか)
あると信じていた。
B・C地点となると可能性は格段に落ちる。
今は雨で視界が悪いから見つけられないだけではないか? このあたりでビバークして、明日もう少し探してみるべきでは?
いや、ダメだ。下手にうろついたら現在地がわからなくなるおそれがある。食糧がいくらあっても水が汲めなくては何日ももたない。最悪、Dエリアには行けるように、最初の計画通りに動いたほうがいい。
気を取り直して、干物を口に入れ、咀嚼する。港町だけあって魚は安く買えた。水を飲み、ザックを背負い直す。
来た道を引き返す。雨が強くなり、風が出てきた。視界が悪化する。
歩くこと20分。おかしい。もう分岐のピークまで来ていないといけないはず。通り過ぎた? まさか、そんなはずはない。引き返し始める時に方角を間違えた? それとも、途中で方角がずれてしまったのか?
落ち着け。食糧はある。水も2日分はあるし、今は雨水もある。今この場でビバークしたっていい。
ただ、現在地がわからないのは非常にまずい。このままだとどのポイントにも行けないまま山中を彷徨うことになる。
登ろう。迷ったらひとまず高いところを目指す。遭難時のセオリー。何らかの山頂まで行けば登山道か目印が見つかるはず。
急斜面に、足を踏み入れる。
(重い)
角度が変わって、背中の荷物が一気に重くなる。気を抜くと転げ落ちそうだ。
息を荒げながら、どうにかまともに歩けそうな尾根に出る。どこだここは。わからないが、とにかく上を目指そう。
雨が、キツい。雨音が鳴り止まないことがキツい。思考が雑になってきた。いつ晴れる予報だったっけ。予報が晴れでも山では降ることがある。明日も明後日も雨ならどうすればいい?
「さすが子供部屋おじさんだね」
なんで今そんな言葉を思い出すんだ。僕は子供部屋おじさんじゃない。実家を出た。一人できちんとやってきた。
「それで矜持を見せたつもりですか」
そうとも。舐めるな。
あんたら人殺しのプロにとってはカスみたいなもんだろうけど、俺ら一般市民にも矜持がある。それぞれの経験と知恵がある。人を殺せるからって威張るな。俺は山を歩ける。ちょっと今迷ってんだけどさ。
道が細くなってきた。風もさっきより強い。左側の斜面、滑落したらつかまるところがない。一歩ずつ慎重に歩く。
「殺してやる」
誰だ? 誰の言葉だ?
そんなこと言われていない。遠くでボタンを押していただけ。たとえ相手が言っていたとしても聞こえるはずがない。
「殺してやる」
幻聴だ、これは。
報復を恐れるのは人間の感情として不自然じゃない。殺したから殺されるかもしれないと思うのは自然なこと。大丈夫。今、トラブルは起きていない。
踏み出した左足。
土が、抉れた。
滑った。
まずい。雨のせいだ。
何かにつか――何もない。
荷物が、重い。引っ張られる。
「殺してやる」
頭を打った。意識が遠のいていく。
このまま絶命できたら楽だけど、きっとそうは問屋が卸さないだろう。
(了)
バイト戦争 森山智仁 @moriyama-tomohito
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