第18話 愛した人にさよならを

 指定された場所はとあるマンションの一室だった。そこが先輩の家なのか組織に関する何かなのかはわからないけれど、とにかく行くしかない。

 あの口振りからすると二人きりで会ってくれそうではある。もし他にも誰かいたら、二人で会う別日を設けないといけない。期限は昨日から1週間だから、5日以内に。

 去年は特に理由がなくても会えていたのに、いったん途切れるとわざわざ合う理由を作るのは急に難しくなる。とりあえず、今夜決行できるよう祈っておく。

 得物は細引きを使うことにした。幕営なんかで使う細くて硬いロープ。これならポケットに収まる。刃物は返り血が厄介だし、鈍器は惨い。絞殺が一番苦しませずに済む気がする。

 二人きりだと確認できたら、隙を見つけ次第、即座に実行に移す。


(……)


 本当にいいのか?

 僕を頼ってくれている人を。

 今のバイトをバックれて――そんなことをしたら日野の刺客に殺されるのがオチかもしれないが――組織の一員になる道もある。100万以上の報酬をポンとくれたりはしないだろうけれど、組織に属せば飢えさせられることはないだろう。

 最初に誘われた時に従わなかったのは、釣られるのが嫌だったから。数多いるであろう、先輩に釣られた男の一人になりたくなかったから。

 どうやらその他大勢とは違うらしいと思えてきた今、組織に入るという選択肢が少し現実的になってきている。


(大原さんは?)


 馬鹿、もう忘れたのか。報酬だけが目当てで引き受けたわけじゃないだろう。本来、大原さんの仇討ちだ。

 その他大勢とは違うと感じたのだって、先輩の口振りに乗せられただけかもしれない。きっとそうだ。だいたいこういう時、男は全員自分だけは違うと思っていて、実際は全員同じなのだ。

 もう騙されるものか。

 憤然として、自室を出る。

 頬に痛み。今夜は風が冷たい。

 夜の街を歩くのはいつ以来だろうか。外食なんてもうずいぶんしていない。もとい、外食をしようにも、店が全然やっていない。街全体が喪に服しているかのようにしんと静まり返っていて、唯一、新興宗教の施設だけが煌々と輝いている。

 駅から伸びる地下通路の壁は、田舎のトンネルにあるような意味不明な落書きと、ホームレスで埋め尽くされている。

 世も末だ。

 はるか昔から数え切れないほどの人々が「世も末だ」と感じながら、結局滅びることなく今日まで世界は続いているわけだけれど、こんな有り様から、一体どうやって再生するのか検討もつかない。


(?)


 違和感に気づいたのは、指定されたマンションの最寄りの駅を出て、5分ほど歩いた時だった。

 これは、どうやら、


(尾けられている)


 一つの足音が一定の距離を保ってついてきている。

 どっちだ? バイト先の関係か、先輩の組織か。

 僕はどちらの勢力にも関わっているだから、どちらの勢力に尾けられてもおかしくない。

 いずれにしても、これからどうするか。

 まっすぐマンションに向かうのはまずいだろう。寄り道して様子を見るか? その前に、不意に振り返って相手の顔を確認すべきだろうか?


(あれ?)


 考え事をしているうちに、いつの間にか足音は消えていた。

 気のせいだったか? たまたま進行方向が同じだっただけだろうか。いや、それにしては……


「不合格です」


 突然、左横から男の声。まったく気配がなかった。


「気付きやすいように歩き始めてから、君が気付くまで312秒もかかりました。鈍感過ぎます。電車を下りる前から普段よりだいぶ緩めていました。ご自宅を出てすぐに気付けば合格、電車を下りるまでに気付けば及第、せめて電車を下りた後はすぐ気づいてほしかったのですが」


 男は僕の左を歩きながら、淀みなく低い声で話す。いつの間にかまた足音が聞こえるようになっていた。さっきの、この音だ。


「……あなたは、誰ですか」

「日野の手の者、と言えばおわかりいただけるでしょう」

「……はい」

「日野が君のことを色々と知っているのはすべて私の仕業です。ご安心ください、盗聴器や監視カメラではありませんので」

「はぁ」


 それはとりあえず良かったが。


「それで、何か御用ですか」

「これは業務連絡ではなく個人的な忠告、組織に対しては背信行為になります。いいですか尾瀬君、今すぐお逃げなさい」

「逃げる?」

「夜明けまでは時間を稼いで差し上げます。今すぐ家に戻って身支度をして、できるだけ遠くへ逃げなさい。なお、警察はの存在です。君は頼らないほうがいい」

「逃げるって、何からですか」

「鬼嶋遊子、本名福田真紀子は――」


 本名?

 芸名、というか偽名だったのか。

 誰かに「名前かっこいいね」と茶化されるといつも「本名だよ」と返していた。


「――これまでに腹上で少なくとも二人殺しています」

「……」

「腹上の意味を説明したほうが?」

「いえ、結構です」


 意味はわかる。

 けど、待ってくれ。

 ちょっと理解が追いつかない。


「福田なら……鬼嶋と言いましょうか。鬼嶋が今日の君なら、屋外に出た瞬間に私の監視に気づいたはずです。彼女はそういう教育を受けています。あなたが鬼嶋を殺そうとすれば、100%返り討ちに遭います」

「……」

「通常なら君の遺体は迅速に処理され、行方不明者となるでしょう。しかし、今回は君が死んだ直後、『物音を聞いた隣人から通報があった』という口実で警察を突入させ、鬼嶋を逮捕します。もちろん、実際には物音などしません。君は声も出せないはずです」

「……」

「鬼嶋はおそらく正当防衛となりますが、過剰防衛が認められれば儲け物。君は我が社の責任者として荼毘に付されます」

「責任者?」


 思わず足を止めた。

 男も同時に立ち止まる。


「書類はすでに整っています」

「ちょっと待ってください。僕はただのバイトですよ。指示されたことをやってただけです」

「ええ」

「順番が違っただけなんです。たまたま先に沿岸監視員のバイトを見つけたから今こうなってるだけで、先にデモに誘われてたら今頃先輩の組織にいたと思います。給料だけが目当てで、仕事内容に対して意志も情熱もありません。こんな奴が責任者のわけないでしょう」

「諦めてください、尾瀬さん。繰り返しますが、書類はすでに整っています」

「……」

「君一人に責任を負わせて、我が社は解体されます。もうまもなく公式に戦争が始まりますから、秘密裏に戦う組織は不要になるんです」

「……」

「そういうシナリオです。要するに、君は日野に騙されているんですよ」

「……あなたの話が本当だという証拠は?」

「それで矜持を見せたつもりですか。今までろくに人を疑ってこなかった君がこの世界で立ち回るのは不可能です。機械頼みの超長距離射撃で数十人殺したからといって、殺し屋の仲間入りをしたと思ってはいけません」

「……」

「日野も鬼嶋も私も、全員プロです。君はこのままだといいように使われて終わる。それはあまりにも不憫なので、今こうして忠告しているわけです」

「……」

「大原の仇を討とうとしてくださったことには感謝します。彼とは飲み友達でした」

「……」

「これが最後です。逃げてください」


 情けない。あまりにも。

 僕は『人殺し』にすらなれなかった。

 大原さんが認めてくれたように素質はあったのかもしれない。でも考えてみれば、素質があるのとプロフェッショナルであることは全然違う。僕は日々、何の研鑽もしていなかった。無神経にボタンを押していただけ。

 結局はバイト。所詮はバイト。給料しかもらえない。それでいいと思っていた。


「……わかりました。どうも、今までお世話になりました」

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